プロローグ 夏休み終了五日前
夕方四時といえばまだ十分陽も高く、周囲からは引き止めもされたけれどもきっちり挨拶して自転車を押した。みんなですすり合う冷やしそうめんも美味しかったし賑やかに語り合うのも決して嫌いではないのだが。
「疲れたね、関崎」
ふたりだけで抜け出してきたようなもの。乙彦の隣で緑のしゃれっけないTシャツとジーンズ姿の女子が両腕を天にうんと伸ばしている。別に抜け駆けするつもりもなければ、下心があるわけでもない。ただお互い、潮時というもののタイミングが一緒というそれだけだ。
「そうだな。知らない奴同士というのは、思ったよりも神経を遣う」
「そう見えなかったけどさ。関崎すっかり馴染んでたよ」
「お前の目が悪い」
本当であれば、同じ外部入学仲間の名倉も一緒に引っ張り出すつもりだったのだが、いかんせんここは奴の庭に近い場所だった。すっかり名倉の崇めるお姫様に寄り添いどたどたくっついている。もう、高校で出会った友だちのことなんぞすっかり忘れているかのようだった。
「名倉、あれは見ものだったよね。今度会ったらネタにして笑ってやろうよ」
「それはまずい。人間として自然な感情だぞ」
乙彦はたしなめた。無論、緑Tシャツ女子の気持ちも同意しないわけではないのだが、これまでたくさんの事情を目にし耳にしてきた立場としては、きっぱりと割り切るわけにはいかないところもある。名倉の一途さが、むしろ愛い奴とも思える。
「でも、イメージしたような子じゃなかったね」
「誰が」
「ほら、名倉のマドンナ」
ああ、と頷く。名倉の誕生日に送られてきた友だち分合わせての手作りクッキーと花柄の包み紙から始まり、奴の語りだす小学校から中学校時代の初恋伝説、そしてその彼女は青大附中に進学してなおも華やかな噂を撒き散らし、現在ははるか遠くの全寮制高校で過ごしているとか。今回はその彼女が久々に青潟へ戻ってくるということもあり、親しい友だちだけではなくその友だちをも巻き込んで楽しく過ごそうというパーティーだった。夏ということもあり、今回は自宅庭での流しそうめんを楽しんだというわけだ。
「ほんと、広い庭だったよねえ。二十人くらいはいたよ。青大附中に行ってた子だからそれなりにいいとこのお嬢さんだとは思ってたけど」
「お前はどうなんだ。お嬢さんと言っていいのか」
「だから外部三人組なんじゃないの」
茶化し合う。
「気になるんだが、名倉のその、相手にお前はどういうイメージ持ってたんだ」
「なんというか、ああいうクッキーを送ってくるようなお嬢さまなんだから、もっと華やかな子なんだろうなあとかね。まあ、医者の娘という先入観があったことは認める」
緑Tシャツ女子の手厳しい批評は続く。
「なんというか気さくな子で、お父さんお母さんも明るい人だったな。特にお母さんが眼科のお医者さんなんだろうけど、とにかくうるさいくらいはしゃいでたね。それにしても暑くないのかな、あんな派手なワンピースとか思ったりも、女子としてつい思ったよ」
「俺からするとよく似た親子だと思っただけなんだが」
笑った。まさにそっくりな家族。幸せそうな雰囲気だけは漂ってきていた。ぽっちゃり肉付きがよく笑うと目がなくなってしまいそうな名倉のマドンナは、確かに性格の穏やかそうな人ではあった。
「名倉は外見に惑わされない奴だということが判明しただけでいいだろう」
「まあ、それは言える。名倉のことはこれで評価アップしたよ」
髪の毛を無造作にひとつまとめした緑Tシャツのしゃれっけない女子に、乙彦は腕時計を覗き込み、目の前の公園を指差した。まだ小学中学年程度の子どもたちがブランコやシーソーで遊んでいる。
「静内、少し座って行こう。俺は心底疲れた」
この日、その眼科医のお嬢さん宅で行われた夏の流しそうめんパーティーに参加するはめになったのは、決して乙彦の意図したところではない。
そのお嬢さんに小学校時代から熱を上げ続けた「外部三人組」の一角を担う名倉からのお誘いである。名倉曰く、
「奈良岡が帰ってきたらみんなで遊ぶ約束をしているからお前らも来い。友だちの友だちを増やせば絶対楽しいとあいつも言っていた」
とのことだが、静内……同じく「外部三人組」の紅一点は、
「友だちの友だちって気を遣うし、必ずしも友だちになれないんだけどなあ」
とぼやいていた。まさにその通りで、乙彦もそれなりに楽しみはしたが相手とこれから長いつきあいになりそうな雰囲気は感じられなかった。ひとり、背の低くてやたらと喧嘩っぱやそうな男子がいて、びしばしと場を仕切り、お嬢さまのご両親に対してもため語で、
「おい、なら先生、これ、手順悪すぎるぞ。先生は所詮病人だから若い衆に任せとけ!」
とか、
「彰子、お前は動くな。全部俺たち男衆がやる。お前はどーんと構えてろ」
とか、
「おい、時也、お前なんでそんなもたもたしてるんだ! 早く彰子の分の皿用意してもってけ!」
とかなんとか。やたらと威張っている輩がいた。なんとなく避けたほうがよいとの判断で乙彦は近づかないようにしていた。そいつには名倉がやっぱり親しげに張り付いていて、この日は名倉にも話しかける機会が少なかった。
「なんなんだろう。世界が違うよね」
「いや、わからない。名倉が話す限り、あの場で集まっていた奴らはみな友だちの友だちつながりと聞いたが。少なくとも青大附属関係の人間ではない」
「私がずっとしゃべってた子もそうだったよ」
静内はグレープスカッシュを一本、口を切ってゆったり飲んでから、
「あの子も私たちと一緒で友だちに連れてこられて死ぬほど退屈だったみたいよ。青潟西高に行ってるらしいけど」
「何が目的なんだろうな、流しそうめんというのは」
乙彦はスポーツドリンクを一本空けた。
「確かに盛り上がるとは思うが、別に知らない奴を連れてきて盛り上がるものでもないだろう」
「そのあたりあとで名倉に確認するとして」
とりとめもなくしゃべっているうちに少しずつ陽が赤らんでくる。いわゆる夕暮れの気配がする。まだ夏の太陽は元気だけれども、蝉のけたたましく鳴き続ける声や、時折聞こえる虫の声など、さまざまな音色が聞こえ始める。
「それにしても、あと二日で夏休みも終わっちゃうんだよなあって思うと、思い切りダークな気分」
「お互い様だ」
今年の夏休み、たぶん一番長い時間を共有したのはこの静内であり、また名倉とも言える。とにかく空いている日はすべて自由研究に費やしたと言っても過言ではない。なにせ、足を使うのだ。青潟市内の石碑リストは一応図書館や博物館にも揃っているが、実際見てみないと正確な認識ができない。また実際石碑に触れてみると面白いもので、石の素材や周辺の景色および歴史の関わり合いなどで今まで見えてこなかったものが浮かび上がり、三人三様に議論しあい、まとめていく。それがめちゃくちゃ面白い。
「宿題はもう片付けたんだろうし」
「片付けたことと頭に残っていることとはまるっきり違うんだ」
「言いたいことはわかる。答えてもそれが正しいかがわからないってことだよね」
「それもそうだが、学校に戻ってからはまたいろいろと考えることが増えそうだ」
朝一のバイトはすっかり身体に馴染み、休みの日すらも早く目が覚めてしまう。もったいないので朝はしっかり走っている。早起きが苦痛というわけではないのだが。
「うちのクラス、九月の合唱コンクールの準備とかでみなてんてこ舞いしているみたい」
「みたいって、他人事だな」
「そう、指揮者が決まってないんだよね。男子、みな音楽わからないからって逃げちゃってるし。音程が取れないとそもそもできないって言い訳して」
「合唱コンクールか」
乙彦なりに過去三年間の記憶をたどってみる。あまり盛り上がりの少ない水鳥中学ではあったが、乙彦なりにクラスの連中を叱り飛ばし最後はなんとか形にしたものだった。もともと歌うことは好きだがひとりで合唱はできない。逃げる連中を捕まえてこんこんと説教したのも今は昔。
「内部の子たちに聞いてみたんだけど、青大附属の場合中学二年の時に一回だけ合唱コンクールが行われるんだって。信じられる? しかも指揮者は無条件で男子の評議委員なんだって。これもまた、ありえないよね。相手が音楽嫌いだったらどうするの」
静内の言うこともごもっともだ。
「それなら結果としてどうなるんだ」
「たぶん、この流れで行くと私が指揮者に祭り上げられる可能性大」
「静内がか? なぜだ?」
外部生なのに、と口走りそうになる。静内はすぐに気づき、さっぱりした顔で答える。
「私は人並みの音感持っているってことになってるし、男子ができないんだったら女子の評議がやるのが普通でしょって答え」
「俺がカラオケに引きずり込んだ甲斐があったということか」
「鍛えられたよそりゃね。関崎のカラオケマニアっぷりにはおみそれしたもんね」
反省している。いくら安いカラオケBOXを親と先生から許可をもらって通っているとはいえ、付き合わされるほうはたまったもんじゃないだろう。外で歌えない以上は第三者の迷惑にならないよう心がける義務があるからこうしているだけなのだが、きっと周囲はそう思わないだろう。
「それで静内は、話が来たら受けるのか」
「うん、受ける」
静内はきっぱり答えた。また喉を潤してから、
「合唱なんかノーサンキューだけど、指揮者って普通経験できないしね。青大附属で珍しい体験させてくれるんだったら今のうちに取り込んどこうかなと思って」
「いい心がけだ」
「関崎は?」
そういえば、一年A組の合唱コンクール準備はどうなのだろう。夏期講習の時に女子評議の古川がちょこまかとクラス女子たちに声をかけて相談し合っている様子は伺えたのだが、男子評議の藤沖がどっしりかまえすぎていて何もしようとしない。それはそれで心配なところもある。
「女子は、うちのクラスの古川が動いているようだが詳しいことは知らん」
「ああ古川さんね、あの、噂の」
口をいきなり閉ざし、静内はふっと乙彦から顔を逸らした。咳込んだ。
「ジュースが気管に入ったのか」
「違う違う。そうなんだ。じゃあうちのクラスだけがとろとろしているってわけじゃないんだ」
少しほっとしたのか、静内は膝に缶を載せたまま乙彦を見上げた。