第三話 不完全な刻印
どれくらい時間が経ったか分からない。
「く……っ、いって……」
意識が戻ると同時に、身体中が悲鳴を上げた。極限まで魔力を振り絞った代償だ。爪も牙も、いつの間にかただの人間のそれに戻っている。
辺りを見渡すと、凄まじい戦闘の傷跡が岩場に刻まれていた。熱くなった頭を冷やすように、湖の水の音が聞こえる。
(……生きてる)
それだけが、確かな事実だった。
魔人が勝っていれば、自分は今頃、事切れていただろう。
けれど、納得がいかなかった。
(あいつは、わざと斬られた。負けて、オレを生かしたんだ――)
結局、家族の最期さえ聞けずじまいだ。
パキッ――。
小枝を折る音がした。
「誰だ!!」
音がした方を睨むと、そこには倒したはずの男が立っていた。
「お前……ッ!」
「急に動くな。人間に戻ったばかりの身体には堪えるぞ」
琉龍は初めて会った時のような、穏やかで慈愛に満ちた表情を浮かべていた。
「笑わせるな……! お前の目的は何なんだ!」
「今、この瞬間より。俺はお前の下僕として生きることを誓うよ、蘭鈴」
その言葉が、周囲に重い静寂を落とした。
魔人は静かに、蘭鈴の前に跪いた。
怒りを忘れ、蘭鈴は呆然と立ち尽くした。
跪く魔人を前に、言葉が喉の奥で凍りつく。
「……は? 下僕?」
「負けた」
それだけ言って、琉龍は迷いなく跪いた。
「……理由が、要るか?」
「…………ッ!」
「実を言うと、お前の名前は最初から知っていた。お前をここに呼んだのも、この決闘をするためだ」
「……一つだけ、訂正がある」
「家族の話は嘘だ」
淡々と、事実だけを切り出す。
「……怒るなら、後でいくらでも受ける」
「……」
あまりの勝手な言い分に、蘭鈴の肩が震えだす。
「お前……! なぜわざと負けた!? オレを下僕にしたかったんじゃないのか!?」
「確かに、『龍蝶』の血筋は魅力的だ。……だが俺には、血よりも大切な『約束』がある。お前を護る、という約束がな」
琉龍の真意を掴めず、蘭鈴は彼の顔を覗き込んだ。そして、異変に気づく。
「……瞳。お前の左目、どうしたんだ?」
美しい瑠璃色だった彼の左目が、今は濁った黒に染まっている。
龍族の決闘は、自らの『王』を決めるための神聖な儀式だ。敗者の右目には、王に逆らえぬ証として「刻印」が刻まれる。
だが、左目の黒は違う。
それが「不正」を意味することだけは、はっきりしていた。
龍族にとって、それが何を意味するか。
蘭鈴は、説明されずとも理解してしまった。
「お前、馬鹿かよ……。オレを護るために、下僕になるために……わざと自分に『穢れ』を刻んだのか?」
その歪な献身を知った瞬間。蘭鈴は、数年ぶりに唇の端を持ち上げた。
今まで使ってこなかった筋肉を動かすのは難しく、それが笑顔といえるものだったかは分からないが……。
それは冷たい蔑みではなく、不器用で、どこか慈悲深い――彼女自身の本当の笑顔だった。
琉龍は晴れて、蘭鈴の下僕となった。
それが彼自身の選択であることを、誰よりも誇るように。
✕✕✕
一方、竜王国。
優勝式典は最高潮に達していたが、準優勝の瑰王子は限界だった。
酔った貴族の長話、娘を売り込もうとする官僚たち。そして何より、会場にいない優勝者・蘭鈴への「人形のくせに傲慢だ」という陰口。
「失礼、少し気分が優れない。部屋で休ませてもらうよ」
王子の特権を行使し、瑰は社交辞令の笑顔を貼り付けたまま会場を抜け出した。
「今日という今日は、絶対に許さん!!」
自室で動きやすい服に着替えると、瑰は蘭鈴の部屋へと殴り込んだ。自分一人があの苦行のようなパーティに耐えたのに、彼女は今頃寝ているに違いない――そう思っていた。
だが、ノックもせず飛び込んだ室内は、月明かりに照らされた無機質な空間だった。
「……蘭鈴?」
私物すらほとんどない部屋に、人の気配はない。
(訓練場か? ――それとも……)
瑰の胸に、嫌な予感がよぎった。彼女が年相応の趣味を持たず、唯一「自分」を確かめるように通い詰める場所。
(あいつの、竜蝶の家があった跡地か!)
瑰は迷わず馬房へと向かった。
王宮から離れた、呪われた湖畔。夜の闇を裂いて、瑰は馬を走らせる。
彼には、まだ理解できていなかった。蘭鈴という「人形」が、今この瞬間に一人の男を従え、自らの意志で動き出したことを。




