第二話 主従の接吻
パチッ……パチッ……。
まぶたの裏で、赤い光が揺れた。
暖かい。けれど、指先に力が入らない。
「目が覚めたか?」
聞き覚えのある、けれど冬の月のように冷ややかで優しい声。
蘭鈴は弾かれたように目を開けた。
そこは湿った岩肌が剥き出しの洞窟。全身が重く、濡れた服が肌に張り付いていた。だが、その上には厚手の、乾いた毛布が丁寧に掛けられている。
「ここは……」
「湖の近くの洞窟だ。滝から落ちてきたお前を抱きとめた」
焚き火を挟んだ向こう側。そこには、白髪を揺らし、優しく微笑む人物がいた。
「濡れたままだと身体が冷えると思ってな。……さすがに、服までは脱がせられなかったが」
夜の湖よりも深い、瑠璃色の瞳。
視線を逸らすことが、なぜかできなかった。
「綺麗……」
蘭鈴から思わず、言葉が漏れた。
自分の藤色の髪を褒める人々を嫌悪してきた彼女が、初めて他人の美しさに心を奪われた瞬間だった。
「……ここは、龍の一族が住んでいた場所だ」
「龍……?」
「簡単に言えば、俺は魔族。キミは人間だ」
その人物が長い髪を耳にかけると、人間とは違う、尖った耳が覗いた。
「り、龍族は……五百年前の戦で滅びたんじゃ……」
「大部分はな。今や生き残っている龍魔族は、俺を含めて三人か四人といったところだ」
淡々と事実を語るその魔人に、蘭鈴は不思議と恐怖を感じなかった。
「……お礼をしたい。オレを助けてくれた、その礼だ」
蘭鈴が真っ直ぐに見つめると、魔人はその言葉を待っていたかのように立ち上がった。白を基調とした装束に、武骨な鎧を纏っている。
魔人のスラリとした長い指が、頬に触れた。
顎を持ち上げられ、逃げ場のない瑠璃色の瞳と視線が絡む。
「……なんでも、と言ったな?」
その言葉が、願いだったのか命令だったのか――蘭鈴には、もう区別がつかなかった。
次の瞬間。
柔らかな唇が、蘭鈴のそれに重なった。
「――ッ!?」
思考が、真っ白になる。
開いた唇の隙間から、熱い何かが流し込まれた。
鉄の匂い。焼け付くような感覚。
(……血……!?)
肩を押そうとするが、力が入らない。
喉を滑り落ちたそれが胃に落ちた瞬間――
内側から、爆ぜるような魔力が全身を駆け巡った。
血が沸騰する。
視界が研ぎ澄まされ、音が、匂いが、異様なほど鮮明になる。
(違う。欲しいのは力じゃない。
オレを、血じゃなくて――オレを見て欲しい)
その願いが届くはずもないと、頭では分かっていた。
快感と恐怖が同時に押し寄せ、自分が人間ではなくなっていく感覚に、蘭鈴は歯を食いしばる。
頬を伝った雫を、魔人の指が拭った。
唇が離れ、ようやく解放された時、蘭鈴は荒い息のまま相手を睨みつける。
「キミに決闘を申し込むよ、蘭鈴」
魔人は、どこか照れくさそうに――それでいて挑発的に笑う。
「今のは、俺の魔力を貸し与えるための処置だ。勘違いするなよ。……人間と魔族じゃ、力の差がありすぎる」
混乱する蘭鈴に、追い打ちをかけるように告げる。
「そういえば、自己紹介がまだだったな」
瑠璃色の瞳が、細くなる。
「俺の名前は琉龍。……見ての通り、『男』だ」
「……は?」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「何回も言わせるな。俺はお前に決闘を申し込む。……龍蝶の血が欲しい、と言ったら受けてくれるか?」
「龍蝶の、血……」
やはり、お前も。蘭鈴の心に、冷たい怒りが兆した。自分の価値が、自分自身ではなく「血」にあるのだと突きつけられる。
「それとも――」
「俺はお前の家族の最期を知っている、と言えば、戦う気になるか?」
「!!」
怒り、羞恥、そして体内を駆け巡る魔力の高揚。
すべてが一気に噴き上がり、一瞬で理性が焼き切れた。
「いいだろう……受けてやるよ、その決闘……! 貴様……死んでも後悔するなよッ!!」
蘭鈴は魔力で二本の双剣を顕現させ、蝶が舞うような身軽さで飛び掛かった。
光を切り裂き、距離を詰めた蘭鈴は、迷わず琉龍の胸元を切りつけた。
余波が岩壁を抉り、洞窟が崩れ始める。
隙を見て懐へ飛び込んだ蘭鈴だったが、琉龍の重い蹴りが鳩尾に突き刺さった。
「ッう!」
「こんなものか……」
琉龍が手をかざすと、光の弓が現れた。
「これで終わりだ」
放たれた無数の光の矢。蘭鈴は本能で理解した。自分の中を流れる魔力を使えば、相殺できるはずだと。
「おおおおおッ!!」
ありったけの魔力を双剣に込め、蘭鈴は光の弾幕の中へ飛び込んだ。魔人と同じ光を放つ刃が、矢を次々と叩き落としていく。
光を裂き、蘭鈴は最後の距離を詰めた。
――カチリ、と音が止まった気がした。
琉龍は避けることをせず、その斬撃を、微笑みながら受け入れたのだ。
「……なんだと……」
血の気のない顔で、琉龍がゆっくりと地に倒れていく。
(今、こいつ、笑わなかったか……? わざと、切らせたのか……?)
信じられない光景を前に、蘭鈴は立ち尽くした。だが、真実を確かめる間もなく、彼女の意識もまた、極限の疲労と共に闇へと引きずり込まれていった。




