ありがとう
「……ぅぅ」
身体が重い。頭が痛い――――――。
意識が戻った俺が見たのは、朝日が照らす爽やかな空だった。
俺はぼんやりとその空を眺めていた。気持ちのいい風が頬を撫でると、何やら慌ただしく動き回る人の気配を感じる。
俺は何とか体を起こす。近くに半壊した野上家があり、その周りに黒いスーツを着た大人たちが集まって現場検証を行っているようだった。
「よォ。起きたか」
「……おっさん」
灰狼がニヤリと笑いながら、俺の顔を覗き込んでくる。
「ったく、お前はすげえ奴だよ」
「……」
灰狼は笑いながら森の方を指さした。そこにはまるで災害の跡のような、悲惨な光景が広がっている。地面は直線状に大きく削れ、木々は跡形もなく消し飛び、正面の山が半壊していた。
「あんな馬鹿げた力を見たのは久しぶりだァ。あの人を思い出すぜ」
「……悪かったよ。片付け手伝うよ」
立ちあがろうとする俺を、七楽が優しく止めてくる。
「休んでいる方がいい。はい、傀朧補給用のエナジードリンクだ」
七楽は爽やかに微笑する。俺はドリンクを飲み干すと、礼を言った。
その時、担架に乗せられた門馬が搬送されていく。俺が近づきたいのを察したのか、灰狼が担架をこちらに押してきてくれた。
「門馬……大丈夫か?」
「はいっス! この通り、ちょっと寝たら……うーん、やっぱりしんどいっス」
「何だよそれ……」
「かっこよかったっスよ功刀さん」
「えっ」
「実は最後の最後だけ、意識が戻ってたんスよ。はおうがー! なんて、かっこよすぎっス」
門馬は寝たまま拳を突き上げ、俺の真似をする。
「……本当に、ありがとうございました」
そう言い残し、救急車に乗せられていく門馬を見送ると、灰狼が頭を掻く。
「悪かったなァ。もっと早く駆けつけられればよかったぜ」
「……なあ。あんたたちって、本当に警察?」
灰狼は申し訳なさそうに、ジャケットの懐から本物の身分証を出して見せてくれた。
「おれたちは、〈法政局想術犯罪対策課〉の捜査官だ。黙ってて悪かった」
「想術犯罪、対策課?」
〈法政局〉は想術師を管理監督する組織だというのは知っていたが、想術犯罪、というのは馴染のない言葉だった。
「まあ、知られてなくてよかったぜ。おれたちゃ嫌われモンだからなァ」
「担当していることは、あまり公になっていないことが多い。明かせば不利になることもある。だから、県警の刑事を名乗らせてもらっていたんだ」
七楽は少し寂しそうに空を見つめると、金属の手で煙草に火をつける。吸っている煙草は、灰狼の煙草と同じ匂いがする。
「我々は最初から刈谷を追っていた。奴の犯罪は五年間ずっと続いていたが、発覚したのは君に依頼がいったタイミングとほぼ同じ時。奴のガードは鉄壁で、なかなか尻尾を出さなかった。だから今回、君たちの派遣に合わせて我々も裏で動かざるを得なかった」
俺は漠然と納得する。いきなり俺たちに近づいてきたのも、学校で捜査をしたのも、俺たちに情報を教えてくれたのも、刈谷が犯人と見越しての行動だったのだ。やけに想術師の仕事に詳しかったり、理解があったのも、同業者だったのなら当然だった。
「……そうだ。刈谷は!?」
俺は思わず身を乗り出して食い気味に質問する。
「あァ、死んでねえよ。手前、無意識に殺意をひっこめてただろ。あの一撃が、直撃せずに逸れてたんだよ。なんてお人好しな奴なんだか」
「そうか……よかったぜ。人殺しは死んでもしたくねえ」
「そうだな。お前に人殺しなんざ似合わねえ。奴は死んでもいいくらいの悪党だが、お前がわざわざ殺す価値はねえさ」
「ならさ、あいつはどうなるんだ? あんたたちが捕まえるのか?」
俺の問いかけに二人は一瞬冷静な表情を見せると、灰狼が俺の肩を叩いてニカッと笑った。
「なあ風牙。お前も怪我が酷い。後のことは、おれたちに任せてくれないか」
「ここの検分も、刈谷も、君がやってくれたことの片付けを全部、我々が責任を持って引き受けたい」
「でも……子どもたちは」
七楽は俺に黒いスマホの画面を見せてくる。そこには、廃墟のような地下施設に突入する数人の捜査官が、子どもたちを無事に保護する映像が映し出されていた。
「我々は奴の拠点を重点的に捜査していた。子どもたちは一番に保護している。皆外傷はなく、装置に繋がれて安静に生かされていた。だから全員無事だよ」
「……よかった」
俺はそれを聞き、肩の力が抜けた。刈谷の言動から、子どもたちが酷い目に遭っていそうで気が気ではなかった。だからとりあえず全員無事だと聞いて、心底ほっとする。
「全部お前のおかげだ。ありがとな」
「いや、俺だけの力じゃねえよ」
俺は首を横に振って、野上家の方へ目を向ける。
「影斗と、野上さんのおかげだ」
俺は二人に礼を言って、野上家の方へ歩き出した。
この結末を、野上由佳に伝えなくてはならない。この事件の裏で、最も心を痛め、死んでもなお子どもたちを守ろうとしていたあの人に、被害者たちの無事を伝えたい。
急がないといけない――――――消えかかっている野上由佳の気配に、俺は足を速める。
俺は半壊した家の縁側に座っていた影斗と野上由佳を見つけ、近づいていく。二人は俺が近づいてくるのが分かると、驚きと安心が入り混じったような表情を向けてくる。
影斗は俺の傍まで走って来ると、半泣きで俺の無事を喜んでくれた。野上由佳は、俺に何度も礼を言ってくれた。
でも、あいつを倒せたのは俺のおかげでも何でもない。〈八尺様の傀異〉にさせられてしまった野上由佳と、その傀朧を吸収し、俺に渡してくれた影斗がいたから倒せたのだ。
俺たちは縁側に横並びに座って、少しの間だけ語り合った。野上由佳の体は朝日に溶けるようにどんどん薄くなっている。体を構成していた八尺様の傀朧がなくなった今、生前の野上由佳本人の傀朧だけで存在を保っている。
「私は……絶望の淵にいたの。子どもが突然消え、警察が捜査を打ち切ってもずっと、一人で子どもたちを探し続けた。周囲は次第に、私がおかしくなってしまったと思って、身を引いていった……夫と離婚したのが、引き金になった。私は耐えられなくなって、静かにこの家で死んだ」
野上由佳は、ぽつぽつと自身の過去について語る。彼女は終始上を向いて、綺麗な朝日を見つめていた。
「意識が戻った時、私は化け物になっていた。子どもが恋しくて恋しくてたまらない、醜い化け物に。徘徊して子どもたちを探すうちに、刈谷を見つけたの。あいつは私を見てほくそ笑んだわ。そして私の目の前で、町の子どもを攫って行った……許せなかった。あいつが犯人だとわかった時、私は私の意識を確かに取り戻した。でもどうすることもできなかった。町に出れば私は化け物に変わる。誰も見向きもしてくれない。でも、私は子どもたちにもう一度会いたかった……どうしてかわからないんだけど、なぜか二人は死んでいないように感じていたの。今もどこかで生きていて、私を呼んでいる気がして」
「……きっと、本当に呼んでいたんじゃないでしょうか」
「えっ?」
「おれ、あなたから傀朧を貰った時、声が聞こえました。お母さんを呼ぶ声が」
「っ!」
影斗は野上由佳に微笑みかける。
「あなたは化け物なんかじゃない。だっておれを助けようとしてくれた。傀異じゃなくて、最初からずっど、子どもを守る本当に素敵なお母さんだったって、おれは思います」
「……ぁ」
野上由佳は目から大粒の涙を流す。涙が頬を伝い、流れ落ちるたび、朝日に溶けて淡い光を放っていく。
「あり……がとう……私は……」
俺はタイミングを見計らい、伝えたいことを彼女に告げる。
「野上さん。二人は無事なんだって」
「……ぇ」
「保護されたんだ。攫われた子どもたちはみんな無事だ」
それを聞いた彼女は、地面に膝を付いて泣き崩れた。
「ぁぁ……よかった……本当に……!!」
だから、安心して成仏して欲しい。そう、心から思った。
野上由佳の体は、青い光の粒子となって、風に溶けていく。気持ちの良い風が光の粒子を屋根の上へ高く舞い上げる。キラキラと輝く傀朧が俺たちの頭上に降り注いでは消えて行く。
――――――ありがとう。
最後にもう一度、そんな彼女の声が聞こえたような気がした。