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太陽の光差し込む古城の中庭。
そこに、小柄な馬ほどの大きさをした銀色のドラゴンが横たわっている。
白い、鳥のような翼をぐったりとたたみ、輝く銀色の鱗を自身の血で濡らしたドラゴンが。
ドラゴンは、城に攻め入ろうとした王子と戦った。
火も吐けぬ、人も食わぬ温厚なドラゴンは、戦いなど知らなかった。
けれど、必死に戦った。
眠ったままの主を守ろうとした――その結果が、この深い傷だった。
「いい、アシェル。あなたはこれから千年の眠りにつくわ。大丈夫、痛くもないし、怖くもないから」
目を覚ましたドラゴンの主――闇夜のような髪を垂らした黒いローブの魔女は、そう言って息も絶え絶えなドラゴンの腹に触れた。
ドラゴンは、返事をするかのように二、三度と瞬きをする。
そして、きゅるおおお、と悲しげな鳴き声を上げた。
「……アシェル、わたしはもう一緒にはいられないの。わたしは、この国の人々を守るために行かねばならない。あなたと共に生きることはできないのよ…………
……でも、約束するわ。あなたを絶対に幸せにするって」
傷ついた鱗を撫でながら、魔女はその青い瞳でドラゴンの薄紫色の瞳を見つめた。
「あなたが再び目覚めたら、幸せになれるように、わたしはこれから魔法をかける。発動までに、とてもとても長い、気の遠くなるような時間がかかるけれど……大丈夫よ、心配しなくていい。わたしには全て見えているから。そう、あなたが幸せになる未来が……。寂しいのは少しだけよ。少しだけだから……その後に、未来で、素晴らしい出会いがあなたを待っているわ」
魔女は、ドラゴンから手を離した。
数歩後退って、ドラゴンに両手をかざす。
「……だから眠りなさい、アシェル。深く深く。魔法の揺り籠の中で、夢を見なさい。幸せな夢を――」
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「……………………………………夢、か」
カーテンの隙間から侵入した、まだ朝と呼ぶには早すぎる空のほのかな明るみに、アシェルは微かに目を開けた。
……懐かしい人の夢を見ていた。
何度も何度も、千年の眠りの間に細切れに見た夢だった。
けれど……こんなにはっきり見たのは、初めてだった。
肌身離さず身につけている鏡のペンダント……それに、無意識に触れる。
もう、二度と会えない人。
自分を育ててくれた、母親のような、そうでないような……けれど、特別な女性。
彼女は、アシェルに魔法をかけた。この古城と共に千年の眠りにつく魔法を。
そして、彼女は言った。これは「目覚めたら幸せになる魔法」だと。
アシェルは、目覚めた。長い長い時間を越えて……
……けれど、どうだろう。
彼女が言ったような『幸せ』とは、ほど遠い場所にいる気がする。
彼女は、こうも言った。
「素晴らしい出会いが待っている」と。
けれど、そんなものは――
「――彼女のわけ、ないしな」
アシェルは、昨日この城へとやって来た少女を思い出した。
あんな酷いにおいをさせた人間との出会いが素晴らしいものであるはずがない。アシェルはそう結論づける。
たとえ千年の恋であったとしても冷めてしまうような、ものすごい異臭だったのだ。好きになれるわけがない。生理的に無理というものだろう。
……ふと、アシェルは思った。
夢がやたらとはっきりしていたのは、彼女のせいかもしれない。
セイリーンによく似た女の子――あの強烈なにおいを除いて、だが。
彼女は、昨日からこの城に住み始めた。
はた迷惑な話だな、とアシェルは疎ましく思う。あんなにおいを嗅がされたのでは、おちおち安眠もできやしないではないか。
……関わらなければいいか、と思う。
この寝室のベッドの上で、いつも通り眠り続けていればいい。
これまで千年の間、ずっとそうしてきたように。これからも、そうすればいい。
……ただ、一つだけ気になった。
あの時――竜化して見せた時――彼女は自分から目を逸らさなかった。
あれは、一体どうしてだったのだろう。
恐怖で、まぶたの動きすら硬直してしまったのだろうか。
それとも、怖くなかったのだろうか。
いや、あの様子からそんなわけがないのは分かる。
だが、しかし、それではなぜ――
「――……どうでもいいか」
呟いたアシェルの目に、自身の手が映った。
人間の手。鉤爪のない、まろやかな指。
左の頬に触れると、ざらついた鱗を指先がなぞった。
「………………セイリーンは、どうして僕をこんな身体にしたんだろう」
一緒には生きられないと、彼女は言った。
どうせ人間の姿にするのならば、あの時してくれればよかったのに。
そうすれば、一緒に生きていくこともできたのではないか……
……そう考えるも、そんなのは『たられば』話でしかない。
あの時は確かに、アシェルはただのドラゴンでしかなかったのだから。
千年の眠りがなければ、きっとこんな身体にはならなかったのだから。
「………………………………寝よう」
眠っている間は、何も考えなくていい。余計なことを考えるのはよそう。
……考えたくもない。
アシェルは再び、眠りの中へと落ちていった。




