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湯から上がり身支度をしたエリスが食堂へ戻ると、果たしてそこにアシェルはいなかった。
「ご主人様は寝室に戻られましたよ。もう寝る、と」
温め直した料理の給仕をしながら、メイルが苦笑するように言った。
「そう……なの……」
交戦覚悟でいたためエリスは少し肩すかしの気分だったが、湯浴みには時間がかかる。別にエリスを待っていたでもない彼が、既にこの場にいないのも当然のことだった。
だが、それにしても。
「……彼、寝過ぎじゃない?」
会った時も寝ていて、食事の後すぐに寝て。
メイルの話では、エリスが古城の中を探検している最中も寝ていたという話だった。いい加減、眠りすぎだろう。そのうちベッドに根っこが張ってしまうのではないだろうか。
「仕方ないのです。ご主人様はずっと眠ってらっしゃいました。目覚めたのはつい最近……まだ、眠気がとれていないのです」
「眠ってたって、千年前から?」
「はい。千年前、魔女セイリーン様は、ご主人様がまだ完全なドラゴンだった時、この城ごと眠りの魔法をかけたのです」
メイルの言葉で、エリスはこの国の成り立ちを思い出した。
千年前、エルマギアという国はまだ存在していなかった。
この地を治めていた王はいたものの、当時は別の名を持つ国だったのだ。古から存在する隣国イストリアの若き王子が、この地を領地とするためにやって来て、戦争となった。
……それが、千年前のこと。
魔女セイリーンは、この地の王に力を貸していた。
結果的に、セイリーンはこの地が荒れることを懸念し、戦いを放棄した。その彼女が、戦いで失った魔力を回復するため深い眠りについたのが、この古城だと言われている。
その時、この城の入り口を守っていたのが伝説のドラゴン……つまりアシェルだ。
若き王子は、眠れる魔女に興味を抱いたらしい。
ドラゴンを退治し、城へと押し入った彼は、魔女を眠りから目覚めさせた。
その後、どういう経緯なのか判然としていないが、魔女は王子の妃となり、この地を治めることとなる。
そして、魔女に仕えていたドラゴンは、主である魔女自身の手によってこの古城に封印されたのだ。
以後、この地は、奇跡の魔法が息づく地と名付けられた。
それがエリスの知っている、この国の成立時の話だ。
「……………………ちょっと待って」
エリスは、先のメイルの言葉に引っかかりを覚え、首を傾げた。
「完全なドラゴンだったって……アシェルは、元から人の姿をとれたんじゃないの?」
「いえ、ご主人様は、元は本当に正真正銘、ただのドラゴンでした。ご主人様の身体は、千年の眠りの間に変わってしまったのです」
「それも、セイリーンの魔法のせい?」
「さようでございます」
「そんなの、どうして……」
アシェルが、ドラゴンが、凶暴だったからだろうか。
千年後、セイリーンのいない時代に、目覚めた彼が暴れないようにするため?
それは、いささか都合のよすぎる解釈だろうとエリスは思った。
千年後のことなど、魔女が気にするだろうか。
では、なぜアシェルは人間の形になったのだろう。
……エリスの中に、ちょっとした興味が湧いた。
「どうして、セイリーンはアシェルを人間にしようとしたのかしら」
「さあ……わたくしは、セイリーン様がいた頃には、まだただの鎧でしたので、理由を知ることは叶わなかったのですが。
ただし、一つだけ知っていることがあります」
「それは、何?」
「魔法が、まだ未完成だということ。そして、先刻、ご主人様はあなたに半竜の姿をお見せになりましたが……完全に竜化すると、もう人間の姿には戻れない、ということです」
「ドラゴンに、戻っちゃうってこと?」
「そういうことです」
メイルが頷いた。
意思疎通が可能なら、彼がドラゴンの姿でいてくれた方が、女王になる条件を満たしたいエリスにとっては都合がいい。
だが、果たしてそれでいいのだろうかと疑問が浮かぶ。
セイリーンの意図が読めない。
彼女はなぜ、アシェルを人間にしようとしたのか……
……過去の人のことだ。
考えても、分からないことだ。
諦めたエリスは、目の前の鎧に別の話題を振ることにした。
「ねえ、メイル。あなたは、いつから……その、あなたなの?」
「わたくしは、この城に魔法がかかった直後に生まれた人格です……なので、そうですね、おおまかに言ってしまえば千年前から、わたくしは、わたくしです」
「アシェルが目を覚ましたのって、最近よね? 千年もの間、あなたは一人でここにいたの?」
「ええ、そういうことに」
「……寂しくはなかった?」
表情のない鏡のような兜を見て、エリスは顔を曇らせた。
こんな広い古城に、たった一人。
エリスだったら、頭がおかしくなってしまいそうだと思った。
「寂しい……そうですね、そう感じたこともあります。けれど、わたくしは、いつかどなたかがこの城へやって来て、賑やかになる日が来ることを信じておりました。そのために、お客様を待って城の中を清潔に保っておくことは、やりがいのある仕事でしたし……現にこうして、あなた様がやって来てくださった」
そこでメイルは言葉を一度切って、人間ならば深呼吸するように一拍おいて、言った。
「……エリスさん。あなたは、この城に訪れてくれた最初のお客様です。きっと、ご主人様にかけられた魔法も、魔女の血を引くあなたなら完成させてくださるでしょう」
「魔法を、完成させる? わたしが?」
「はい。それができるのは、きっとあなた様です。いや、あなた様だけかもしれない。
そして、魔法が完成すれば、きっと、わたくしも――」
そこまで言って、メイルは「あ!」と声を上げた。
「申し訳ありません! せっかく温め直したのに、また食事が冷めてしまいますね。ささ、召し上がってください!」
「え? ええ、ありがとう、いただくわ」
促されて、エリスはテーブルの上に並んだ料理に手をつけることにした。
と、料理を口に含むと、皿の上には異様に緑色が多いことに気づく。
「野菜ばかりで申し訳ありません……城内に畑があるので野菜はいつでも採れるのですが、肉や魚は手に入らずで…………明日! 城門の鍵も開きましたし、明日は森で採ってきますので! この腕を振るって、獲物を仕留めてみせましょう!」
「そんな、いいのよ気にしないで! それに、とってもおいしいわ」
お世辞でも何でもない。メイルの作った料理は、サラダもポトフも焼き物も、フェリシーダ城の料理人たち顔負けの味だった。
野菜だけでここまでのレパートリーを演出できるのだから、本当に素晴らしい。
「メイル……ありがとう、いろいろ気を遣ってくれて」
この城で暮らすとアシェルに言い切ったものの、エリスは不安だった。
きれいな箱に入れられて甘やかされてきた、小娘の自分がやっていけるのか……
……けれど、この万能な鎧がいてくれるだけで、ここでの生活も送っていける気がした。頑張れる気がした。
「いえいえ。わたくしでよければ、何なりと。大変でしょうが、ご主人様の説得、頑張ってくださいね。わたくしは応援しておりますよ!」
食事を終えたエリスは、あてがわれた魔女の部屋へと戻った。
いつの間に用意されたのか、薄桃色のネグリジェがベッドに置いてある。エリスはそれに着替えて、窓を開けた。
バルコニーへと出ると、エリスの髪のように真っ黒な空と、それより暗いドルミーレの森が眼前に広がっている。
そのずっとずっと遠くに、微かに光の稜線が見える気がした。あちらが、恐らくエルマギアの王都アモルだろう。
……エリスは、小さくため息をついた。
何だか、城を出てから随分時間が経った気がする。
まだ、たったの一日しか経っていないはずなのに。
城は、みんなは大丈夫だろうか。
ハーデュスに好き勝手されていやしないだろうか。
「…………………………早く、戻らなきゃ」
そのためには、アシェルを説得しなければならない。
決意を固めたエリスは、部屋の中に戻る。
それから燭台の火を吹き消し、ふかふかのベッドに横になった。暗闇の天井を見つめていた目を、閉じる。
慣れないベッドに枕だったが……エリスの意識は、すぐ闇に微睡んでいった。




