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「す――すごい…………」
古城の中、メイルに部屋を用意してもらったエリスは、クロゼットの中を見て感嘆の声を上げた。
そこに、千年前この城に住んでいたらしい魔女セイリーンのドレスが、まるで新品のように並んでいたのだ。
これも、魔法のせいなのだろう。
どのドレスも、現在のものより装飾は少ないが、とても上質な作りをしていた。フェリシーダ城のエリスの私室にあるクロゼットの中身にもまるで見劣りしていない。それどころか、エリスの好みにはこちらの方が合っているくらいだ。
「素敵ね……」
セイリーンのドレスに、エリスは久々に目を輝かせる。
エリスが身につけるための最近のドレスの仕立てには、ハーデュスが勝手に横やりを入れてきていた。エリスにはどこか鼻につく形に仕上がることが多かったのだが、そのせいだと思っている。
びらびらで、動きづらくて……まるで「お前は人形のように座って大人しくしていろ」と言われているようだった。否、そういったことを言われたことが、実際に、あった。
……思い出すだけで苛々してくるので、エリスはハーデュスのことを考えないことにした。頭の外に、しっしっ、と追い出す。
気を取り直して、今度は、化粧台の引き出しを開けてみた。
「わあ………………」
美しい宝石をちりばめた装飾品が、そっと仕舞ってあった。
どれも控えめだが、ため息が出るほど美しい。
つけてみたい、と思ったが、これはさすがに借りられないなとエリスは思った。
装飾品はなくとも、別に困らないからだ。困らないのに、勝手に借りるわけにはいかないだろう。
メイルはというと「部屋のものはご自由に使ってください」と言って、自分は浴場や夕食の準備をしてくるからと、先ほど部屋から出て行ってしまった。
夕食も、どうやら彼が作ってくれるらしい。鎧に料理ができるのか大変不安だが、この城の勝手を知っているのは彼だけなので、任せるしかないだろう。
ただ、彼が錆びてしまわないかだけが、エリスには心配だった。どう見てもメイルは鉄製に見えたからだ。水仕事には向かないはずである。大丈夫なのだろうか……
さて、エリスは、ここへと着てきた白いドレスを着替えることにした。
このドレスも、スカートの部分にボリュームがありすぎて、大変歩きづらかったのだ。ドラゴンに食べられるには、格好の服装だったかもしれない……
クロゼットの中から薄水色のドレスを選び、エリスはそれを着た。
細やかなレースの小花が散っているほかは、余計な装飾もないため布地が軽くて歩きやすいものだった。丈や身幅などの大きさも、エリスのために仕立てたかのように、ぴったりである。
「さて、と」
……着替えてみたものの、この後、何をする予定もない。
スツールに座って室内を見回し、暫く考えたエリスはやおら立ち上がった。
「……よし、探検でもしましょう!」
滅多に入れない……というか、これまで千年の間、人が入らなかった城である。
中を見て回らねばもったいないような気がした。何より、始まりの魔女が魔法をかけた城である。その魔法が、メイルのようにまだ残っているかもしれない。ちょっと怖いけど、好奇心が勝っていた。
子供のようにわくわくしながら、エリスは部屋を後にした。
……結論から言うと、城の中には面白いものなどなかった。
エリスが想像していたような、動く階段や謎の宝箱なんかは一つもなく。
そればかりか、メイルが掃除を行き渡らせているのだろう。古さのわりに、どこもかしこもぴかぴかだった。
つまらないわ……と、エリスが部屋に向かう頃には、日はとっぷり暮れていた。
「エリスさん、夕食の準備が出来ましたよ」
エリスが部屋に着くとほぼ同時に、メイルががしょがしょと音を立ててやって来た。メイルの鏡のような兜を見て、エリスははあ、とため息をついた。
「面白いのは、あなただけね……」
「はい?」
「ううん、なんでもないわ……」
食堂に案内されると、そこには既にアシェルがいて食事をしていた。
彼の前には、緑色の料理が並んでいる。
「アシェルって、人は食べないの?」
食物繊維が豊富そうな葉物料理の数々を見て、エリスは思わず訊いてしまった。
アシェルが、げほげほと咽せ、不快そうな顔で返事する。
「ちょっ……食事中に気持ち悪いこと言わないでくれるかなぁ……。あいにく、僕は草食竜なんでね」
「じゃあ、さっきのは完全に脅しだったのね。わたしのこと食べる気なんてさらさらなかったんでしょ? その様子だと、炎も吐けなかったりして」
……アシェルが、ぴくりとした。どうやら図星らしい。
サラダを食べる手を止めて嫌そうに顔をしかめると、エリスを無視するようにメイルの方を向く。
「……彼女と一緒に食べるなんて聞いてないよ、メイル」
「すみません、時間をおくと料理が冷めてしまうので」
「けどさ。こうも“くさい”と、せっかくの君の料理がまずくなるじゃないか」
アシェルの言葉がエリスは気になった。そう言えば、彼が寝ていた部屋へと入った時も、においがどうとか言っていた気がする。
「あの、アシェル。くさいって?」
「……君がだよ、エリス」
言いにくそうな顔で指摘したアシェルに、エリスは「え」と目を瞬いた。
アシェルはフォークを弄びながら、苦いものでも噛んでいるかのような顔をする。
「君に初めて会った時から思ってた。君から、いかんとも耐えがたい異臭がするんだよね」
「な……っ! い、異臭って……っ!?」
アシェルの言葉に、エリスは雷に撃たれたような激しいショックを受けた。
これまでに「いいにおいだ」とはたくさんの人から言われてきたが、「くさい」と……それも男性から言われたのは生まれて初めてのことだったのだ。
「僕はドラゴンだから人より鼻が利くのかもしれないけどさ……何かこう、焼け焦げたような、燻ってるようなにおいがするんだよ。まあ、だから、僕にはあんまり近づかないで欲しいって言うか……」
「…………………………どこ」
「ん? 何が?」
「この城の、浴場は、どこ」
「に……西の居館の一角にある、けど……」
すごむように訊ねたエリスに、アシェルが怯んだように答える。
「……メイル、ごめんなさい、先に湯浴みがしたいの。いいかしら」
有無を言わせないエリスの声音に、メイルも「どうぞどうぞご案内します」と慌てて先導する。
エリスは一度アシェルを睨みつけてから、「ふんっ」と逸らし、メイルを追うように食堂を出た。
浴場へと通されたエリスは、ドレスをがばりと大胆に脱ぎ捨て、素っ裸になって用意されていたお湯を桶で被った。
ざばーっと豪快に頭から被る。
石鹸を使い、頭のてっぺんからつま先まで、これでもかというくらいにごしごし豚毛のブラシで磨いた。
「くさいって何よ、くさいって……んもう、レディ相手に、失礼しちゃうわっ!」
あんな風に面と向かって言われたのは初めてだ。
いいにおいとは言っても、においがすること自体気にしていたのに!
それを、あんな風に、ずけずけと!
……ふと、エリスは手を止めた。
こんな風に一人で入浴することは、初めてかもしれない。
物心ついた頃には、既にメイドたちが入浴も手伝ってくれていた。身体も、自分で磨いたことなどない。
「…………………………わたし、本当に自分では何もしてこなかったのね……」
思い返すと、自分がとても情けない存在であるような気がした。
こんな世間知らずで、母のような女王になれるのだろうかと不安になる。
「……いいえ、なるのよ」
自分に言い聞かせ、濡れた黒髪を絞って水気を切ったエリスは、長い髪を四苦八苦しながら革紐でひとまとめに括った。
そうして、そろそろと湯の張ってある広い石造りの浴槽に足を入れる。ちょうどいい温度だ。身体をゆっくり沈めると、一日分の疲労が抜けていくようだった。
……今日だけで、たくさんのことがあった。
住み慣れた城を後にし、やって来た古城。
不思議な喋る鎧に歓迎されたと思ったら、ドラゴンは人間の姿をしていて。
そのドラゴンに「くさい」と言われて……現在、こうして入浴中だった。
「はあ…………もう、何なのよ、あいつ……」
エリスは湯をすくった。
メイルが気を利かせてくれたのだろう。湯には美しい薄紅色の花びらが、表面を覆うように浮いている。
じっと目を凝らし、エリスはそれが何の植物のものかを考えた。
エリスは植物について、人より多くの知識を持っている。
それは代々、植物学、薬草学を学ぶことが、魔女の系譜として必要だったからだ。
魔女の知識の継承も、エルマギア王家では行われてきたことだった。イルダの崩御で、エリスは全てを受け継ぐことが出来なかったが。
……尊いものが、途切れてしまった。
それがエリスにはふがいなく、残念でならない。
手のひらの中でふわふわと揺れる薄紅色の花びら。
ふっ、と鼻がかぎとった香りに、エリスははっとした。
「……これ、恋色薔薇だわ。珍しい……」
恋色薔薇は、隣国イストリアの南方で栽培されている薔薇だ。
極少量しか出荷されないため、エルマギアでは希少価値の高い花でもあった。エリスがこの花を見たのも、イストリアを訪れた時。まさかこんな森の中でお目にかかれるとは……
この薔薇の香りには『恋を成就させる』という、何とも乙女たちが飛びつきそうな効力があると言われている。
甘い香りを吸い込んで、エリスはため息をついた。
「…………わたしにはそんな人、いないもの」
恋の相手など――好きな人など、いない。乙女たちがため息をつき、胸を高鳴らせるような人など……
もったいないわ、とエリスは両手を湯に沈ませる。恋を知らない――こんな自分には。
……けれど。
この香りは、もしかしたら自分のにおいを消してくれるかもしれない。
エリスは膚に刷り込むように、お湯で身体をさすった。
もうあのドラゴンに「くさい」なんて言わせないんだから――




