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「な、何……?」
ふわ、と風が吹いた。
光と混じり合い、エリスとアシェルの身体を優しく包んでゆく。
エリスの黒髪と、アシェルの白銀の翼が揺れる。
あたたかい。何だろう、いつか嗅いだことがあるような、懐かしいにおいがする。
「これは、お母様のにおい……いいえ、これは……」
エリスは、気づいた。
これは、自分のにおいだ。
自分でも分かるほどに濃く、はっきりしている。
花のような香り。
そしてそれは、ミラージャが言っていた、魔力の香りだ。
光が、香りが、風と共にあたりに広がる。
視界に、ちらりと薄桃色のものが映った。
手のひらですくい取ると――花びらだった。
エリスは空を見上げた。
……そして、思わず目を見開く。
「え……?」
花びらが降ってくる。
はらはらと、雪のように。
黄色に赤、青にオレンジと、色とりどりの花びらが、広場に舞い落ちてくる。
「これは、一体――」
エリスが不思議に思った瞬間だった。
エリスとアシェルを中心に、風が爆発した。
花びらが、岸壁にぶつかった波しぶきのように舞い上がる。
その直後、信じられないことが起きた。
石畳の地面から、植物が芽吹き始めたのだ。
通常ではあり得ない急速な勢いで成長して、それらは瞬く間に花を咲かせていく。
「うわああああ!!」
エリスは、悲鳴の方向を見た。
叫んでいたのは、兵士たちだ。
弩弓や彼らの持っていた弓矢からも、植物が次々と芽吹き始めていた。
「何だこれは!」
「ひっ」
「や、やめて――」
蔦に覆われていく武器を兵士たちは気味悪げに放り投げるが、今度は地面から伸びた蔦が兵士たちを拘束する。議員たちは、その摩訶不思議な光景に、みな呆然として立ち尽くしている。
凶暴な武器を飲み込み、兵士たちの自由を奪いながら、色鮮やかな花々が石畳を埋め尽くしていく。
広場が一面、瑞々しい花畑になっていった。
その広場の中央――花の絨毯の上で、エリスは目を瞬いた。
美しく揺れる花の中、銀色のドラゴンが目の前に横たわっている。
ドラゴンは、動かない。
……けれど、変化があった。
ドラゴンの身体が、光に包まれ、淡く輝いていた。
その光が砕け、弾けた透明なきらめきが空に細かなつぶてとなって、吸い込まれるように上っていく。
徐々に光が小さくなる。
人の、形になる。
懐かしい、人の形に――
「…………、っ」
エリスは、涙でぼんやりする視界の中、息を止めてそれを見守っていた。
目が離せなかった。
離してしまえば、目の前の出来事が、夢かまぼろしのように消えてしまう気がしたから。
だから、目を凝らした。
全てを、見届けるために。
光が、ゆっくりと収束する。
そこに、銀色のドラゴンの姿はなかった。
代わりに、花の絨毯に見覚えのある青年が横たわっていた。
青年は、ゆっくりと身体を起こす。
そして、エリスを見る。
……その顔が、やわらかく綻んだ。
「エリス」
自分の名を呼ぶその声に、エリスは声を上げて泣いた。
聞きたかった声。
もう二度と聞けないと思った声だ。
「アシェル…………アシェルっ……!!」
彼の胸に飛び込む。
受け止めた両腕が、エリスをぎゅっと抱きしめた。
「あなた、どうして……!」
「僕にかけられていたセイリーンの魔法が完成したんだよ! 君が、完成させた。人間になれたんだ!!」
アシェルが熱のこもった声で言った。エリスを抱く腕に力を込める。
始まりの魔女セイリーンが千年前にアシェルにかけた魔法。
彼が人間になるための奇跡の魔法。
それが、完成したのだ――魔女の末裔である王女の、真実の愛によって。
アシェルの左頬――そこには、ドラゴンの証だった銀の鱗も、もはや、ない。
滑らかな肌にそっと指先で触れて、エリスは胸がいっぱいになる。
「アシェル、あのね、わたし――」
「ええい、お前たち何をしている!」
エリスが言いかけたその時、身体にまとわりつく蔦を怒りにまかせてむしり取ったハーデュスが、兵士たちを一喝した。
兵士たちも慌てて蔦の拘束を解こうとする。
だが、蔦は兵士たちをしっかりと足止めしていた。
「馬鹿どもめが……貸せ!」
ハーデュスが苛立ったように近くの兵士から剣を奪い取り、その先端をエリスに向けた――
その時だった。




