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「アシェル……! アシェル、応えて、アシェル! ねえっ、アシェル!!」
翼の下から這い出たエリスは、アシェルの傍らで彼の名を叫んだ。
アシェルのドラゴンと化した身体――その至る所に、不吉な黒い鉄の矢が、幾本も幾本も、楔のように深く突き刺さっている。
美しかった銀色の鱗に身体は、無惨にも傷口から流れる血で赤黒く汚れていた。
彼の胸が、静かに、苦しげに上下している。
彼がまだ生きているのだとエリスが判断できたのは、その動きがあったおかげだ。
まるで、生きていることが奇跡のような惨状だった。
エリスは、アシェルの傷ついた姿に、血が滲むほど唇を噛む。
――だめ、このままじゃ、アシェルが……
……このまま、彼を失ってしまうの?
いいえ――そんなこと、させない。
絶対に。
「……………………ッ!」
意を決して、エリスはアシェルの影から飛び出した。
いつかの空の下、お母様は言った。
「大切なものは、守りとおしなさい」と。
……そうだ。
大切な人一人守れずに、何が女王よ。
守りたい。
彼を。失いたくない。死なせない。だから、だから――
――守らなくては……!
弩弓の前に、エリスは立ちはだかった。
両手を大きく広げて、巨大なアシェルの身体をその小さな身体の後ろに隠す。
それが、エリスにできる、精一杯だった。
今の自分にあるのは、この身体だけ。
泣きたくなるほどに頼りないこの、何の特別な力もない身体だけ。
だが、今は王女という身分など、これっぽっちも役に立たない状況。
ならば…………ならば、この身体で守るしかない!
――矢が、止んだ。
鉄の矢をつがえたまま、弩弓は沈黙する。
兵士たちは、真っ赤な血のドレスをまとうエリスに、その強い決意を秘めた澄みきった空のように青いサファイアの瞳に、すっかり魅入っている。
エリスは静かに兵士たちを見つめる。
不思議だった。自分を狙う矢が、全く怖くなかった。
これ以上、アシェルを傷つけさせない。彼を守る……その想いの方が遥かに強かったのだ。
……そうして、どれくらいの時間が凍っていたのだろうか。
「お前たち、惑わされるんじゃない!」
ハーデュスの怒声に、弩弓を構えていた兵士の一人がびくりとした。
瞬間、彼の手元が狂った。
彼が慌てるも、もう遅い。
エリスに向かって、弩弓の矢が撃ち出された。
――エリスは、ぎゅっと目を閉じた。
鉄の矢に、枯れ葉のように身を貫かれることを想像して、その痛みが訪れるのを待つ。
だが、矢はエリスに届かなかった。
……エリスは、目を開ける。
「ア……………………シェ、ル……?」
目の前の光景に、エリスは呆然と呟く。
アシェルが、最後の力を振り絞り、エリスの前に身を投げ出していた。
エリスを殺めるはずだった矢……それが、盾となった彼の胸に、深々と突き刺さっている。
時間がとてもとても遅く流れて――アシェルは、今度こそ倒れて――
そして、動かなくなった。
まるで絵画のように、そこだけ時間が止まってしまったように。
……アシェルの身体は、動かなくなった。
エリスは、その光景に呼吸を止めた。
震えながら、アシェルの顔に近づく。
「アシェル…………あなた、何で……」
涙声で問えば、薄紫色のアメジストのような目が、エリスを気遣うように、うっすらと開かれた。
じっと見つめて、エリスをその中に映す。
何かを訴えるように、喋れない言葉を伝えようとするように……瞳が、彼の心を表すように、風が撫でた水面のように揺れている。
――ごめんね、エリス。君を、悲しませたくはなかったんだけど。
でも、僕は、君のことを……
エリスは、その声なき声に必死に耳を傾けた。
……だが。
やがて彼の瞳に、まぶたの帳が下り始めて――
アシェルは、静かに目を閉じた。
きれいな薄紫色の宝石が、もう、見えない。もう、エリスを映さない。
「アシェル……?」
呼びかけても、彼はぴくりともしなかった。
冷たい雪が、銀色のまぶたに落ちても。
エリスの指が触れても。
アシェルは地に横たわったまま、もはや石の彫像のように動かなかった。
「……アシェル………………ねえ、アシェル……?」
エリスは彼の身体を揺すってみた。
「目を開けてよ……嘘でしょう………………ねえ…………ねえってば…………」
祈るような気持ちで、必死に。
強く強く、激しく……お願い、お願いよ……目を、開けて――
けれど、大きな身体はこれっぽっちも動かない。
先ほどは上下していた胸も、何もかも……
動かなくなってしまった。エリスの呼びかけに、応えてくれない。
雪が、静かに彼の身体に降り積もっていく。
白く儚いそれは、まるで弔いの花のようだった。
アシェルの身体が、冷たくなっていく。
ぽたり。
雪ではない透明な雫が、アシェルの膚を濡らした。
ぽた、ぽたり……
雫が降っては、銀色の鱗を伝っていく。
……それは、エリスの目から溢れた涙だった。
「いやよ、置いていかないで……………………ずっと…………ずっと一緒にいてくれって、あなたが言ったんじゃない」
涙が、嗚咽が、胸の辺りからせり上がってきて、溢れて溢れて止まらない。
彼が――アシェルが――死んでしまった。
「アシェル…………アシェル………………うっ…………く…………うう…………」
彼の身体に縋りついて、エリスは泣いた。
堪らえようとしたが、だめだった。
身体が、心が、ばらばらに引き裂かれてしまったようで……いや、その方がずっとよかったかもしれない。
彼を失うことに比べたら、ずっと……ずっとずっと、マシだろうとエリスは思った。
……お願い、逝かないで。
わたしを一人にしないで。
「……アシェル、わたし、ようやく気づけたのよ」
エリスは、自嘲するように口にした。
……本当に、自分はなんてバカだったのだろうと思う。
こんな簡単なことに気づかなかったなんて。
こんな大切なことが、彼を失うその瞬間まで、分からなかったなんて。
銀の鱗に覆われたアシェルの頬。
エリスは、そこに口づけた。
涙の味がした。
頬をすり寄せて、告げる。
「あなたが好きよ………………愛しているわ」
たとえ、人間じゃなくても。
たとえ、ドラゴンであっても。
世界中の誰もが、化物だと恐れても。
あなたが、もうここにはいないとしても。
――アシェル。わたしは、あなたを愛しているわ。
……胸元に熱を感じて、エリスは顔を上げた。
アシェルのくれた、ペンダント。
その鏡の部分が、ぼんやりと光っている――
「え…………なに………………?」
エリスがその光を認識した瞬間。
そこから、激しい光が溢れ出した。




