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「みなのもの、聞きなさい!」
アシェルの背から下りたエリスは、石畳の上に立った。
足が竦みそうだったけれど、そんなことは言っていられなかった。
広場の人々を見渡し、王女らしく毅然と、そして堂々と叫ぶ。
「わたしは正統なるエルマギアの王位継承権を持つ者、エリスティーナ・セミリヤ・エル・マギアである! わたしは女王となるべく、かの伝説のドラゴンを従えて眠りの森ドルミーレより帰ってきた!
ゆえに、この戴冠式は不要である。即刻中止せよ!」
議員たちがざわめいている。
ある者はエリスの生存に驚き、ある者はドラゴンに怯えていた。
その中でただ一人、微動だにしない黒いローブの男が歩み出た。
ハーデュスだ。
「これはこれはエリスティーナ殿下。まさかお帰りになるとは」
「この通り、女王になるために提示された即位の条件は満たしてきたわ」
「ふむ。そのようですね」
ハーデュスは、離れたところからしげしげとドラゴンを見上げる。
「さすが始まりの魔女の血を引く王女。大変感心いたしました。全く、このような化け物をどのように手懐けたのか……」
「彼は化け物じゃないわ!」
エリスは叫んだ。
アシェルを侮辱するハーデュスの言葉が許せなかった。
「ハーデュス、その王冠はあなたのものではないわ。即刻、式典を中止して返上しなさい」
「そうですねぇ………………お断りします」
「……なんですって?」
「聞こえなかったのですか。断ると言ったのですよ、エリスティーナ」
ハーデュスの右手が上がる。
瞬間、広場を守っていた兵士たちが、エリスとアシェルに向けて弓を引き絞り始めた。
無数に向く鋭い矢の先端に、エリスは息を詰める。
「ハーデュス、何を……!」
「もしものためにと兵士を用意しておいて正解でした。お言葉ですが殿下、ここにはあなたの味方は一人もおりません……元老院の議長たちを当てにしていたようですが」
「どうしてそれを……」
ハーデュスが懐から、エリスに見覚えのあるものを取り出した。
手紙だ。
エリスが、議長に宛てた手紙……
「議長たちが何やら裏でこそこそしておりましたのでね……目障りでしたので、牢屋に入ってもらいました」
「な、何てことを……!」
ひどい、とエリスは言葉にならない声をあげた。
彼らは善良な人々だった。そして、この国に尽くしてきた、権威ある人々だった。
なのに、邪魔になりそうだからという理由で、投獄するなんて……
……胸が痛んだ。
自分が、彼らを巻き込んでしまったのだ。
悔しくて、申し訳なくて……ぎり、と歯がみする。
「あなたの肩などもたなければ、彼らも安泰でいられたのにねぇ」
エリスの心を読んだように、ハーデュスがせせら笑う。
そうして、思い出したかのように「さて」と続けた。
「殿下。あなたは既に”亡き人”なのですから、ここにいていただいては困るのですよ……
……今度は、確実に死んでいただきましょうか」
ハーデュスが、にいっと歪んだ笑みを顔に貼り付けた。
背筋が寒くなるような笑みだった。
エリスは涸れた唾を飲み込む。
……こうなる予感はあった。
ハーデュスが強行すること、自分を殺そうとすることは、いつも頭の片隅にあった。
けれど、それでも来なくてはならなかったのだ――この国の、王女として。
この国を、守るために。
「私の勝ちだエリスティーナ。さあ……やれ!」
その言葉で、引き絞られた弓が矢を放った。
無数の矢が、エリスを目がけて横なぎの激しい雨のように迫ってくる。
背後は切り立った断崖だ――逃げられない。
「アシェル、行って!」
エリスは叫んだ。
彼を、彼だけでも逃がさなければと思った。
自分の都合に付き合わせて、ドラゴンの姿にまでして、そして死なせてしまうなんて……絶対に、絶対に嫌だった。
せめて、彼だけでも……!
嵐のように近づいてくる矢の大群を見て、エリスは観念する。
(わたし、死ぬんだわ……)
諦めようとした。
けれど、見苦しい姿は見せたくなかった。
王女として、最後まで潔く――
だがその時、エリスの視界をバサッと白いものが覆った。
はっとして見れば、それはアシェルの翼だった。
白く美しい鳥の羽のような翼が、エリスを守るように包み込んでいる。
アシェルの鱗や翼の羽根が、銀色に輝き、鏡のようになった。
その鏡面が、不思議な障壁を生み出し、矢をはじき返す。
放たれた幾本もの矢は、アシェルの膚には触れられない。
エリスは、翼の間から見たその光景に目を瞬いた。
それはまるで古に消えた『魔法』のようで――
ガアアアアアアッ!!
アシェルが、雷鳴のような咆哮を上げた。
びりびりと空気が引き裂かれるように振動し、兵士たちが怯む。
「くそ……あれを持ってこい! 急げ!」
誰かが叫んだ。
その脇でハーデュスが兵士たちを指揮する。
「攻撃の手は緩めるな! 安心しろ、王女を守っている限りあいつは反撃などできん!」
ぐる……! とアシェルが唸った。
エリスはアシェルを見上げる。
アシェルは、炎を吐くことができない。
この位置からの反撃は、ハーデュスの言うように確かに不可能だ。
止むことを知らない矢の雨に打たれながら、アシェルが耐えていた時だった。
「よし、持ってきたか。準備はいいな――撃て!」
そのかけ声の直後。
一本の、太くて鋭い鉄の矢が、アシェルの障壁と翼を貫いた。
アシェルが、苦痛に、耳をつんざくような悲鳴を上げる。
「アシェル!? これは――」
エリスは、矢の飛んできた方角を見た。
そこには運ばれてきたのだろう、攻城用の据え置き式大型弩弓が数台設置されていた。
その一台が、強烈な一矢を撃ち込んできたのだ。
並んだ弩弓から続けざま矢が放たれる。
凶悪な黒い鉄の矢が、アシェルの脇腹に刺さった。
ドスッ、ドスッ、と杭を打つような音をさせ、脚に、腕に、次々と深い傷口を穿つ。
けれど。
アシェルは、そこから一歩も動かなかった。
血を滴らせながら、エリスを庇うように前に出る。
「あ、アシェル、もういい……わたしは、もういいの! だから、逃げて! お願い! 逃げてちょうだい!!」
エリスは彼に向かって叫んだ。
空の高みに逃れれば、矢は届かない。
エリスを連れては無理だが、彼一人なら容易に脱出できるはずだった。
……それでも。
それでもアシェルは、去らなかった。
彼は、エリスを守ることを選んだ。
盾のように矢面に立ち、幾度も撃ち込まれる矢の洗礼を受け続ける。
銀色の膚を、エリスの薄桃色のドレスを、赤い血が真紅に染めていく。
エリスの頬を、アシェルの血飛沫が、ぴしゃりと濡らした。
「やめて! もうやめてちょうだい! お願い……!!」
エリスは必死に叫ぶ。
アシェルが死んじゃう。死んでしまう。
わたしはどうなってもいい。だから、だからお願い、彼は……彼だけは、助けて!
残酷な音が、光景が、エリスの耳にこびりつき、目に焼き付く。
その惨劇は一瞬だったのかもしれないが、永遠のようで……
……やがて、アシェルの膝が折れた。
エリスの盾になっていたその身体が、どさりと重たい音をさせて地面に崩れ落ちる。




