34
エリスとアシェルは、それから三日の間、楽しかった日々をなぞるように暮らした。
城の掃除に洗濯を共にして、書庫では並んで読書を、それからエリスの淹れたお茶でティータイム。
中庭で語らい、夜は一緒のベッドで寝て、互いの体温を分け合った。
「エリス、今晩が最後だね」
三日目の晩、ベッドの中で、アシェルが寂しげに呟いた。
エリスを背中からぎゅっと抱きしめて……まるで、別れを惜しむように。
「……ねえ、エリス。一つだけ、頼みがあるんだ」
「なに……?」
「…………僕がドラゴンになっても、嫌わないで欲しいなって」
「き――嫌いになんてならないわ!」
思わず振り返り、エリスは叫んだ。
薄闇の中、アシェルの目を見て、声を震わせる。
「絶対……絶対に、嫌いになんか…………」
なるわけがない。
だって、こんなに悲しいのに。
離れたくないのに。
……離れたく、ない。
自分の、王女じゃない部分が、彼を求めている。
こんなにも、彼を……
「エリス……ありがとう」
アシェルの腕が、エリスを優しく抱き寄せた。
エリスは小さく首を振る。
「違うわ、アシェル。お礼を言わなきゃいけないのは、わたしの方よ……選んでくれて――」
――“ありがとう”。
彼の胸に頬を埋めながら、言った。
アシェルは、エリスの未来を選んでくれたのだ。
自分の未来を犠牲にして。
だから、応えなくてはならない。
必ず女王にならなくてはならない……
そんな決心とは裏腹に、エリスは朝がこなければいいのにと思った。
ずっとこの夜が続けばいいのに……そうすれば、彼と、ずっとこうしていられるから……
けれど、そんな願いは叶わないこと。
三日後の、その時がやって来た。
「まあ、人間の生活も悪くなかったよ」
中庭の中央に立ち、アシェルが感慨深げに城を見渡して言った。
澄み渡る空を泳ぐ太陽が中庭の上にいて、白い光をアシェルに注いでいるようだった。
アシェルの銀髪と、白蝶貝のような左頬の鱗が、きらきらと光っている。
「メイル、君のおかげで城での生活はとても快適だった。僕なんかに仕えてくれて、ありがとう」
「ご主人様……いえ、もったいないお言葉です……本当に……もったいない……」
うなだれるメイルの肩を、アシェルが両腕で抱いた。
「泣くなよメイル。君は鎧だろ」
「鎧だって悲しければ泣くんですよ……ううう」
彼がぽんぽんと背中を叩くと、鎧がぐすりと鼻をすすり、呻いた。
アシェルが困ったように微笑む。
「さて、そろそろ行かないとね……エリス」
呼ばれて、薄桃色のドレスを着たエリスは、彼の元へゆっくりと歩み寄った。
見つめあったのも束の間、気づけば腕を引かれてアシェルの胸の中にいる。
目頭が一気に熱くなった。アシェルがささやく。
「……大好きだよ、エリス。きっと、ドラゴンになっても変わらないから。
ずっと、好きだ」
「アシェルっ……!」
エリスは彼を抱きしめ返した。
胸の奥から、悲しみが津波のように押し寄せてくる。
彼を放したくなかった。
放してしまえば、彼は、もう……
この古城にやってきてから、まだ幾ばくしか経っていない。けれど。
彼と過ごした時間。
その全てが、愛おしい。
「エリス……――さようなら」
アシェルが、エリスから身体を離した。
エリスはとっさに手を伸ばした。遠くなる。彼が行ってしまう。
待って、行かないで――エリスが叫ぼうとした瞬間。
ぴしっと空気が割れる音。
そして、真っ白な光がアシェルの身体から溢れた。
太陽が目の前に落ちてきたようだった。
あまりの眩ゆさに、エリスは思わず目を閉じる。
世界が光で塗りつぶされる。眩しい――
――しばらくすると、まぶたの裏に静寂が戻ってきた。
そっと、目を開く。
「あ……」
心臓が、凍った気がした。
「……あ……、ああ……………」
エリスは言葉にならないうめき声を上げながら、膝から地面に力なく崩れ落ちた。
目の前の残酷な光景に、三日間ずっと堪えていた涙が、堰を切ったようにぼろぼろと溢れてくる。
庭の中央。
アシェルがいたはずの場所。
そこにアシェルは――あの美しい青年は、いなかった。
代わりに佇んでいたのは……巨大な銀色の、ドラゴン。
銀の鱗に覆われた膚、白銀のたてがみと蛇のような尾、鳥にも似た大きな翼に、鋭い牙とかぎ爪――
――薄紫の、眼。
それは、これまでエリスが見たどんなものより美しい生き物だった。
陽の光を反射して、全身から七色の光を発しているように見える。
エリスは、視線でドラゴンの姿をなぞった。
膚を見れば、アシェルの左頬を思い出した。
たてがみを見れば雪のような髪を、アメジストのような薄紫の瞳は、人間の姿だった頃の彼のままで……
「アシェル……?」
ドラゴンは静かな、悲しげな目でエリスを見ていた。
ぐる、と喉を鳴らして答える。人の言葉が、利けないようだった。
エリスは、愕然とする。
覚悟していたことだ。
けれど、彼と、二度と言葉を交わすことができないなんて。
彼の優しい声が聞けない……もう名前を呼んでもらうこともできない……
「アシェル、ごめんなさい。わたし……ごめんなさい……!」
女王になるために。
自分のために。
アシェルを変えてしまった。
彼を犠牲にした。
……涙のカーテン越しに、消えてしまった青年の姿が見える気がした。
けれど、彼はもう――
――嘆きに目をつぶり、絶望に俯いた瞬間だった。
ざり、と頬にざらついたものが触れた。
「わ……」
びっくりして目を開ければ、目の前に大きな二つの薄紫の眼が。
ぐるう、とアシェルが鼻面をエリスにすり寄せてきた。
あまりにも大きな体躯なので、エリスの身体が揺すられたようによろめく。
「あ、アシェル? や、やだもう……!」
ドラゴンが、器用に尻尾でエリスの身体を包み込んだ。
すり、と頬を寄せてくる。
まるで、泣かないで、とでも言うように。
エリスは泣き腫らした目元を拭い――立ち上がった。
目の前のドラゴンを見上げて、ささやく。
「…………あなたなのね、アシェル」
薄紫の瞳が真っ直ぐにエリスを見つめている。
アシェルだ。
言葉は交わせない。
けれど、彼は変わらずここにいる。
「……アシェル。フェリシーダ城へ、わたしを連れて行ってくれる?」
ぱちり、と薄紫色の瞳が一度瞬いた。
ドラゴンが、地に伏せる。
エリスに、背中に乗れと言っているようだ。
エリスはメイルに手伝ってもらいながら、アシェルの背によじ登った。
たてがみを掴み、落ちないように背に跨がる。
ふわり、と羽のような翼がエリスの頬を撫でた。くすぐったい。
「それじゃ、行ってくるわね」
「エリスさん、お気をつけて……!」
メイルが叫ぶように言う。
アシェルが大きく羽ばたいた。
風が巻き起こり、中庭の植物をざわめかせる。
二度、三度と翼が風を孕むと、アシェルの身体が浮き上がった。
エリスの身体も、地面から離れていく。
地上で見守るメイルが、どんどん小さくなっていく。
アシェルと踊った中庭が遠くなる。
古城も、眠りの森も、全てが遠ざかっていく。
真っ青な空の中に落ちて、上下が分からなくなるようだった。
必死にアシェルの背にしがみつく。怖い。
――エリス、見てよ。
そんな声が聞こえた気がして、エリスはそろりと目を開けた。
冷たい風の中、エリスは光の中にいた。
太陽が、彼女を頭上から照らしていた。
泳ぐような雲が近い。まるで天国にでも来てしまったかのように錯覚する。
「……きれいね、アシェル」
アシェルが嬉しそうな鳴き声を上げた。
眼下には、眠りの森が地上の全てを覆う海原ように広がっている。
その先、空と森の境界に、エルマギア王国の王都アモルが見えた。
アモルの上空は黒い雲に覆われている。森との間に、空気の境目があるらしい。
エリスは王都を真っ直ぐ見据えた。
……あそこに、今から自分は戦いに行くのだ、と。




