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「エリスさん、こちらにいらっしゃいましたか!」
メイルが、相変わらずがちゃがちゃと音をさせて、回廊を走ってきた。
振り向いたエリスは、だが彼が異様なほどに慌てているのに気づいた。
「どうしたの、メイル。そんなに急いで?」
「じ、実は、フェリシーダ城からケヴィンさんの手配していた早馬が参りまして……!」
「早馬……?」
エリスは、はっとする。
「まさか、城で何か……」
「ケヴィンさんが今、やって来た騎士様から事情を聞いてらっしゃいます。エリスさんもお越しください」
「わ、分かったわ」
一歩前に踏み出し――エリスは、振り返った。
アシェルの部屋の扉は沈黙したままだ。
結局、会うことが叶わなかった。
「エリスさん?」
「……ごめんなさい、何でもないわ。行きましょう」
今は、アシェルとのことは後回しだ。
想いを振り切るように、エリスはケヴィンの元に急いだ。
メイルの後を追っていけば、たどり着いたのは古城のエントランスだった。
ケヴィンと、見知らぬ騎士が話をしている。
二人は階段を下りていくエリスに気づき、顔を上げた。
「ケヴィン様、フェリシーダで何かあったのですか?」
問われたケヴィンは困っているような顔をした。
言いにくいことがあるように、唇を一文字に引き結んでいる。
「ケヴィン様!」
「……そなたの恐れていたことが起きようとしているらしい」
エリスに催促され、ケヴィンは小さく口を割った。
「わたしが、恐れていたことって……」
「恐れ入ります、エリスティーナ様。わたくしがここへ参った理由を、申し上げてもよろしいでしょうか」
騎士がエリスに跪いた。
エリスは、コルセットでぎゅうぎゅうに締め付けられているような苦しい胸に手を当てた。
一つ短く息を吐き出して、覚悟する。
「……話してちょうだい」
「申し上げます……実は、昨日、ハーデュス大臣が、エリスティーナ様の死亡をエルマギアの国民に発表しました」
「な、何ですって……!?」
「それだけではありません。大臣は、君主と王位継承者が不在となった混乱に乗じ、自身が王となるべく、急遽、戴冠式を執り行おうとしております。元老院も、承認済みのようで」
エリスは、めまいがした。
……悪い予感が当たってしまった。
ハーデュス……なんて強硬な手段を執るのだろう。
わたしは、まだ生きているのに。なのに、自分が王になろうだなんて……
「……ハーデュスが戴冠しようとしているのは、いつですか」
「三日後の、正午だそうです」
思わず苦笑がこぼれた。
早すぎる。
ハーデュスは、なんと焦っているのだろう。
……けれど、いま焦っているのはエリスの方だった。
このままでは、王位が、国が乗っ取られる。あの男に。
そうなれば、国は戦に導かれ、臣下や国民たちが苦しむことになりかねない。
それだけは、何としてでも避けなければ――
「……ケヴィン様、わたし、今から城に帰ります。生きていることを証明すれば、ハーデュスを止められるかもしれません」
だが、ケヴィンは首を横に振った。
「エリス、それは止めておいた方がよさそうだ」
「ど、どうしてですか?」
「大臣が、私兵を城の入り口に配備しているのです。エリスティーナ様を見つけたら、捕らえるつもりのようです。わたくしも出てくることはできましたが……空でも飛べれば別かもしれませんが、城にあなた様を伴って入ることは難しいかと」
「そんな……」
エリスは、立ち尽くした。
やはりハーデュスは、エリスを女王の座から退けるためにこの古城へと来させたのだ。最初から。そのつもりで。
……予感していながら抵抗しなかった己の不甲斐なさが、エリスには悔しくて堪らなかった。
三日後に、ハーデュスはエルマギアの王になってしまう。
母や、祖母や曾祖母、先祖たちが大切に守ってきたものを、奪われる。
……考えるだけで、寒くもないのに身体が震えた。
自分のせいで、自分が無力なせいで、こんなことになってしまった……
「……エリス、我が国の騎士団を動かそう」
「し、しかしケヴィン様、それは……」
他国の騎士団が干渉すれば、国家間での戦に繋がるかもしれない。
エリスの懸念に、ケヴィンは首を振った。
「君が先頭に立ってくれれば問題ないだろう。しかし、イストリアから王都アモルまでは移動に時間がかかる。戴冠式には間に合わないかもしれない。式典を行う広場へと騎士団が君を連れて行けたならば、あるいは大臣を止めることも可能かもしれないが……方法が……」
「僕が行こう」
エリスは、背後からの声に目を見開いた。
聞きたかった声だった。
求めていた声だった。
信じられない思いで、振り返る。
階段の上に、アシェルがいた。
大きな窓から差し込む陽の光を背中から受けて、彼の銀色の髪が、降り積もったばかりの新雪のようにきらきらと輝いている。
彼は、ゆっくりと下りてきた。
そうして、エリスの目の前に立つ。
「エリス。僕が、君の翼になるよ。僕が君を、連れていく。そうすれば、どうにかなるかもしれないんだろ?」
アシェルが、穏やかに微笑む。
エリスの肺が震えた。喘ぐように息をはき出して答える。
「アシェル……でも、それは。それじゃ……あなたが……」
「君を女王にする。決めたんだ」
きゅっ、とアシェルがエリスの両手を掴んだ。
薄紫色のアメジストのような瞳が、エリスを見て細められた。




