31
唐突に古城へとやって来たケヴィンは、それからしばらくの間、居座った。
エリスの体調が回復するまで、彼は森で獲物を獲ってきてくれていたが、そのほとんどが彼自身の胃袋に入った。エリスには、どうしても蛇やカエルを食べることができなかったのである。
ただし、鳥の卵や野ウサギなど、時には普通の獲物もあったので、エリスはメイルが料理してくれたそれらを口にした。
メイルは、野菜を使った料理以外も上手かった。
何という万能な鎧だろうかと、エリスは改めて感心した。どうやら彼は仕事の合間に暇ができると、城の書庫で料理本を読んでいるらしい。それゆえの腕前のようだった。
ケヴィンがやって来て五日が経った頃、エリスはすっかり元気になっていた。
ただし、アシェルとは、ぎこちないまま。
城の中で目が合っても、アシェルはふい、とそらしてしまう。
そのたびにエリスの胸は、ずきんと痛んだ。
彼を見つけるたびに、目で追ってしまうのが嫌になる。
そのアシェルはというと、ほとんどの時間を寝室で過ごしているようだった。
……まるで以前に元通りだ。
先日のことも謝らなきゃいけないのに、機会がない。
「あの子も、あの子なりに悩んでるのよ。きっと」
夜、久々に化粧台の鏡に現れたミラージャが、慰めるように言った。
優しい言葉に、エリスは泣きそうになる。
「……わたし、彼に謝りたい。本当はあなたに人間でいてもらいたいのよって。でも、女王にならなきゃいけない……これって勝手な話だって自分でも分かってる。でも、どうしたらいいか分からないのよ」
「どちらも大事、か……まあ、そんなこともあるわよ。世の中、簡単に決められることばかりじゃないんだから、元気出しなさい」
「でも……」
慰めの言葉に、素直に頷けなかった。
ずしりと重い石を飲み込んでしまったように、胃のあたりが苦しい。
「何を心配しているの。もしかして、アシェルに嫌われたんじゃないかって思ってる?」
ぎくりとした。
……そして、しゅんとなる。
「……自分のことばっかりで、嫌になるわ。自分が傷つくのが嫌なのよわたし、酷い人間」
アシェルがどう思うかよりも、結局はどう思われるかを気にしている。
そんな自分が、酷く醜い存在に思えた。
……最低だ。
エリスの言葉に、ミラージャが肩を竦める。
「それって、自然なことじゃない? 誰だって、傷つきたくなんてないでしょ」
「……そうかも……知れないけど」
「もう少し肩の力を抜きなさいって。それに大丈夫よ、嫌われてもいない。
だって、それ、アシェルがあなたにあげたんでしょう?」
ミラージャが鏡の中からエリスの胸元を指して言う。
そこには、アシェルがくれた鏡のペンダントがぶら下げてあった。
毎日、肌身離さず身につけている……それが、アシェルとの繋がりになる気がして。
「ええ、もらったわ、彼に」
月夜の晩に、互いの間に溝が出来てしまう前に。
あたたかくて優しくて、満ち足りるような幸せを感じた、あの瞬間に。
「なら自信を持ちなさい。それは彼にとってとても大事なものだったはず。だってそれ、セイリーンの形見だし」
「これが……セイリーンの?」
「ええ。アシェルと生き別れることになった際に、セイリーンがあげたものらしいわ」
エリスは、ペンダントを手のひらに乗せて眺めた。
台座の真ん中にある鏡が、自分の顔を映す。
「鏡っていうのはね、魔界の入り口って言われているのよ」
ミラージャの言葉に、エリスは首を傾げる。
「魔界?」
「そう。こちらの世界から離れていった、魔力溢れるもう一つの世界、それが魔界。千年前、魔女たちは、鏡から強大な魔力を吸い上げることで魔法を使っていたの」
初めて聞く話に、エリスは目の前の鏡をまじまじと見た。
……これが、魔界への入り口。
「だから、そのペンダントは、魔女だったセイリーンの一部のようなものなのよ。魔界は、死後の魂の通り道でもあるから……きっとアシェルに『見守ってる』って伝えたかったんでしょうね」
エリスは、鏡に映ったペンダントに目をやる。
ペンダントの鏡が光をちかりと反射した。
「彼は、そんな大切なものをあなたにあげたのよ。簡単に嫌いになんてならないわ。そう思わない?」
ミラージャが笑う。
つられて、くす、とエリスも笑った。
「……ミラージャ、あなたって不思議な人。アシェルのことや、魔法のこと、たくさん知ってるみたいだし、まるでセイリーンみたいね」
「アシェルのことだけじゃないわ。あなたのことも、よーく知っているつもりよ」
「わたしのこと?」
きょとんとするエリスに、ミラージャはにっこりとした。
エリスは、思い切って尋ねることにした。
「ねえ、ミラージャ。あなた一体何者なの? アシェルもあなたのこと知らないって。メイルと同じように、セイリーンの魔法の欠片なの?」
「魔法の欠片……うん、それは違わないわね。魔法で、私という存在がここに現れられるのは事実だし。けど……」
「けど?」
「秘密♪」
「何よそれ……」
エリスの顔が、おいしくないものを食べさせられた時のようになった。
ミラージャが笑う。
「そのうち嫌でも分かるわよ。その前に、アシェルと話をするのが先ね。頑張りなさい」
――そんな風にミラージャに助言を受けて、現在。
「………………はぁ」
アシェルの寝室の前まで来て、扉をノックをしようとしたところで、エリスは手を下ろした。
……だめだ、勇気が出ない。
アシェルに拒絶されたらと思うと、足が竦んで動けなくなった。
行き場のなくなった手を見る……自分は一体いつからこんなに臆病になってしまったのだろう。
彼の声が聞きたい。彼に、触れたい――なのに、今はこんなにも距離が遠い。
二人で眠ったり踊ったりした時もあったというのに。それらが、まるで嘘の記憶みたいだ。
――嘘になど、したくない。
エリスは、覚悟を決めた。
こん、こん、としっかりはっきりノックして、待つ。
……だが、返事はなかった。
扉は、開かない。
「やっぱり、だめ、か……」
肩を落として、エリスは深いため息をついた。
押し入る――のはさすがにできない。
また後で来てみよう……そう思い、きびすを返して立ち去ろうとした時だった。




