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「エリスが今、エルマギアの女王になるために、大変な時期なのは知っているかい」
ケヴィンが天気の話でもするように言った。
アシェルは、静かに頷く。
「聞いたよ、少し。ここに来た時に、そんなことを言っていた」
「女王になるために、そなたの力が必要だということも?」
「……知ってるよ」
「なら、話は早い」
ケヴィンが、アシェルの前に立ち塞がった。
互いに向き合う。
アシェルは睨んでいたが、ケヴィンは冬の湖面のように静かな目をしていた。
そして、王子は口を開いた。
「アシェル。エリスを、女王にしてやってくれないか」
「…………君は知らないかもしれないけど、僕は、一度、完全なドラゴンになってしまったら――」
「知っている。人の姿には戻れないのだろう、二度と」
ぐ……、とアシェルは唇を噛んだ。
絞り出すように、胸につかえた息を吐く。
「……………………僕は、エリスと一緒に生きたいんだ」
エリス。
自分を真っ直ぐ見てくれる、優しくて、あたたかい存在。
最初は、においだけだった。
彼女の香りはどこか懐かしくて、千年前のことを思い出させてくれた。
……けど、今はそうじゃない。
彼女にあったのは、それだけじゃないと、今は知っている。
彼女の、人に対する思いやりがあるところや、頑張り屋なところ。
怒った顔も、たまに見せる笑顔も、闇夜のような黒い髪も、澄んだ空のようなあの青い瞳も……自分は、彼女の全てに囚われてしまったようだった。
彼女を想うだけで、胸が苦しくなる。
身体が、心が、彼女を求めてしまう。
ずっと一緒にいたい。
触れたい。
話したい。
抱きしめたい。
……そのために、人間になりたい。
彼女と共に生きる、幸せな未来。
それが、欲しくて欲しくて堪らない。
まるで、砂漠の中でからからに渇いた喉が一滴の水を求めるような気持ちだった。
その一滴が、欲しい。欲しくて欲しくて、堪らない。
ドラゴンになってしまえば、それが手に入らないのもアシェルは知っていた。
千年前の孤独を、再びなぞることになる――否、きっとそれ以上だ。
エリスはセイリーンじゃない。アシェルにとって、もっと、ずっと、大切な人になっている。
彼女が好きで、好きで、好きで好きで好きで……胸が潰れてしまうほどに狂おしくて、切ない。
「愛しているんだ」
言葉が、探してもいないのに勝手に口からこぼれて、アシェルははっとした。
……これが、愛?
アシェルが困惑していると、ケヴィンが静かに頷いた。
「そなたがエリスを愛していること。それも知っているよ。見ていれば、分かる」
「っ、なら、どうしてっ……!」
「理由は二つ。一つ――私もエリスを好いている。出来ることなら、手に入れたい」
突然の言葉に、アシェルは面食らった。
「……それは、エリスと……夫婦に、なりたいってこと?」
「そうだ」
アシェルは呼吸ができなくなった。
胃の辺りがひんやりして、吐き気を覚えるほどに気持ち悪かった。
エリスが他の誰かと添い遂げる。
自分以外の誰かと……
それを考えるだけで、どうしようもなく胸が締めつけられる。
嫌だ、そんなの――
「だが、エリスは、私よりそなたのことが気になっているらしい」
「え?」
ため息をつくケヴィンを、アシェルは信じられない思いで見た。
ケヴィンが苦笑する。
「私は、そなたよりエリスを知っているからな……分かるのだ、あれの想いが。だから私は、そなたをエリスから退けたい。これが、そなたをドラゴンにしてしまいたい理由の一つ。
そなたがドラゴンになれば、邪魔な恋敵が減る」
「君………………最っ低だな……」
「何とでも言うがいい。私は卑怯な男なのだ、そうせねば勝てぬと思っているからな。戦で勝つためには、手段を選ばぬよ。ははは、いいぞ、ゴミクズのように見てくれて大いに結構!」
侮蔑の視線を楽しむように、ケヴィンが豪快に笑った。
アシェルは、そんなケヴィンとは対照的に、温度の低い声で問う。
「……で。二つ目は、何」
「あれが、女王になった姿が見たい」
ケヴィンが、回廊の窓から空を見上げて言った。
アシェルもつられて、見る。
高いところを、一羽の鳥が飛んでいた。
青空をまあるく切り取るように、くるくると。
「……エリスは、幼い頃から言っていたよ。『お母様のような女王になりたい』と。『国のみんなを幸せにしたいのだ』と。まだ世間を知らぬところもあるが、臣下や民からよく慕われているようだ。あのような者が女王になれば、エルマギアはますますよい国になるだろうと私は思う。だから、私はエリスに女王になって欲しい。
たとえその結果、私と夫婦にならずともな」
空を仰ぐ王子の横顔を、アシェルはぼんやり見つめていた。
……大切な、一つのことに気づいた。
目の前の王子は、エリスの幸せを心から考えているらしい、と。
そして、考えた。
……自分は、彼女のことをちゃんと考えていただろうか、と。
彼女の想いを、彼女の見ているものを、理解しようとしていただろうか、と。
「酷な話をしているのは承知の上だ、アシェル。しかし、よく考えてみてくれ」
「………………」
アシェルは、返事をしなかった。
ただ、空を舞う鳥を見て、エリスのことを思った。
自分が愛している、初めて愛した、大切な大切な女性のことを。




