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エリスは議事堂をあとにするなり、淡々《たんたん》と準備をし始めた。
弱音を吐いてめそめそするなんて、ハーデュスの思うつぼのようで嫌だったのだ。それだけじゃなく、嘆きの言葉を口にすれば、その瞬間に心がぽっきりと折れてしまいそうだった。
「こんなのってないです、ないですよ、姫様ぁ……」
年が近く、仲のいいメイドのリラが、涙目になりながら出立のためのドレスを準備していた。
鳶色の瞳に溜まった涙がぷっくり盛り上がり、大粒の水滴がぽとりぽとりと落下する。
「姫様がいなくなったら、誰が王位を継承するっていうんですか! 姫様以上に相応しい人なんていないのに! 嫌ですよあたし、姫様じゃないと……姫様じゃないとおおお~!!!!」
「リラ、泣かないで。せっかくのドレスに、涙で染みができちゃうわ」
胡桃色の髪を振り乱して、わんわんと泣き叫ぶリラを、エリスは、どうどう、と落ち着かせた。
ドラゴンは、今となっては伝説の生物だ。
巨大な身体に鋼の鱗を持ち、空を覆う翼を持つ。
鋭く尖った牙と刃のようなかぎ爪を有し、口からは灼熱の炎を吐くらしい。
その美しくも凶暴な姿に似合わず、とても高い知性を持っていて、一説によれば人間以上に賢いとも言われていた。
彼らは本来、魔界に棲んでいて、こちらの世界と魔界が近かった頃――まだこちらの世界にも魔界から溢れた魔力が流れ込んできていた千年以上前には、時折、群れをなしてやって来ていたのだという。
二つの世界が離れた現在では、彼らは魔女や魔法と同じく幻想上だけの、伝説の存在になっている。
だが、今も昔も変わらず神の使いとして畏れられ、同時に人を食らう存在として怖れられていた。
「こんなの、大臣が仕組んだ罠ですよ。姫様を城から追い出す気なんです……そ、それか、ど、どどどドラゴンに食べさせようとしてるんですよ、きっと……! ああ、なんって恐ろしい……」
「……わたしも、そうなんだと思うわ」
ドラゴンを従えろとは言われたが、これが体のいい『生け贄』なのはエリスにだって分かる。
エリスにドラゴンをどうこうするなんてできるはずがない……そう思っていながら、元老院は――いや、ハーデュスは、今回のことを仕組んだのだ。
エリスを、女王にさせないために。
城から追い出すために。
「……リラ、お願いがあるの。わたしが城を開けている間、ハーデュスがおかしな動きをしないか、見張っていて欲しいの」
「大臣が? ぐす……で、でも姫様、帰って来られるので……?」
「わたしは帰ってくるわ、必ず」
……負けるものかとエリスは思う。
それに、ドラゴンの件は国の憂いでもある。
どのみちいつかは古城に赴き成し遂げなければならないことだった。
希望がないわけではないのだ。
ドラゴンを従えられないと決まったわけではないのだ。
従えて、必ず生きてこの城に戻る。
だって、それができなければ、女王にはなれないから。
女王にならなければ、この国を守れない。母イルダの守ってきた、この国を――
「でも、でも……姫様って、とっても“いいにおい”がするから……ドラゴンにおいしそうだって食べられちゃうんじゃないかって、あたし………………うう、心配ですよう~……」
指摘されて、エリスは自分のにおいを感じようとした。
だが、自分では相変わらずいまいち分からない。
エリスは、「芳しい花のようなにおいがする」とよく人に言われる。
とてもいいにおいをしているのだと。
それが、どうしてなのかは分からない。
母イルダもいいにおいがしていたので、これは恐らく遺伝なのだ。魔女に関係したものなのかは分からないが、きっと身体に流れる血のせいなのだとエリスは思う。
「リラ、縁起の悪いこと言わないでちょうだい。約束するわ、ちゃんと戻るって。だから、お願い……留守の間、この城のことを頼むわね」
「わ……分かりました! 絶対、絶対帰ってきてくださいね、お待ちしておりますので!」
リラと固く手を握り合って、エリスは強く頷いた。
夜が明ければ、出立である。
これは、女王になるための試練なのだ――エリスは無理矢理にでもそう思うことにした。




