26
エリスが気づいた次の瞬間は、朝だった。
カーテンの隙間から差し込む白い光が、時間の経過を示している。
目が開けづらいのは、昨晩、泣き腫らしたからだ。
しかし、それよりも、
「頭痛い……………………寒い……………………」
エリスは、ベッドの上で丸まるようにして震えていた。
掛け物も被らず冷え切った身体のまま眠ったため、どうやら風邪の類いをひいてしまったらしい。
くしゅん、とくしゃみをして鼻をすすり、とにかく毛布をかき集めた。
それでも寒い。ガタガタと、身体が壊れてしまったように震える。
「自業自得よ、わたしのバカ……」
体調を崩してしまったのも……――アシェルを、傷つけてしまったのも。
昨晩のことを思い出すだけで、アシェルの悲しげな顔を思い出すだけで、胸が苦しかった。
どこで釦を掛け違ってしまったのだろう。
もっといい言葉があったかもしれないのに、自分勝手に事だけを急いて、彼の気持ちをまるで考えなかった。
……最低だ。
「アシェルに謝らなくちゃ……」
エリスは、重たい身体を起こした。ベッドから下りて、ふらつく足取りで部屋の外に出る。
謝ってどうにかなることではないのかもしれない。
それに、もしかしたらもう会ってもくれないかもしれない。
……けれど、じっとしていられなかった。彼のそばに行きたかった。
アシェルの部屋は西塔にある。エリスの使っている東塔とは真逆の位置にあった。
「はあ…………は…………」
距離が、遠い。エリスの息が切れる。
途中、何度も壁に手をついた。
足が重くて、一歩も動けない気がした。
つらい。けれど、行かなくては――
それは、そんな風に回廊を行くエリスが、ちょうど中間地点になるエントランスの階段に差し掛かった時のことだった。
がっしょがっしょと音をさせて、階下をメイルが物々しく走ってきた。
手に持っているのは――剣だ。
「エリスさん!? どうしてこちらへ……」
階段の下から、エリスに気づいたメイルが焦ったように訊ねてきた。
「メイルこそ剣なんて持って、一体どうしたの? 何かあったの?」
「お気になさらずと申し上げたいところなのですが、実は――……」
「た あ あ の も お お お お お お お お お お お お ッ!」
外から、突然、獣の雄叫びのような声。
続けて、エントランスの扉が、どーん! と豪快な音を立てて開けられる。
そして、城の中に鮮やかな金髪の男が一人、転がり込んできた。
「我はイストリア王国第一王子、ケヴィンである! エルマギア王国王女エリスティーナ姫を取り戻しに参った!
悪名高きドラゴンよ、いざ神妙にせえええいッ!!!!」
「け、ケヴィン様……?」
白銀の甲冑に赤いマントを羽織り、剣を構えて乗り込んできた人物を見て、エリスは間の抜けた声を上げた。
目を凝らして確認するも、見間違いではないようだ。
こんなところで見るはずのない人が、目の前にいる。
「おおっ? エリスではないか! 無事か! よかった!」
エリスを見て、ケヴィンは太陽が輝くような満面の笑みを浮かべた。
だが、階段下のメイルを見て再び剣を構え直す。
「ややっ、怪しげな鎧! 貴様がエリスを捕らえているドラゴンの手下だな! 覚悟ッ!」
ケヴィンがメイルに斬りかかる。
メイルは、あわあわと受け流すので精一杯だ。
きいんっと甲高い音。
ケヴィンの一振りに、メイルの剣がいとも簡単に弾き飛ばされた。
メイルが、がっちゃんと尻餅をつく。
「あわ、あわわわわわ……」
「もらったあああああッ!!」
後ずさるメイルの頭上に、ケヴィンの剣が振り上げられた。
エリスは慌てて叫ぶ。
「おやめください、ケヴィン様! その鎧は、いい鎧なのです!」
――ケヴィンが、ぴたりと動きを止めた。
剣を振り上げたまま、しげしげとメイルを観察するように見る。
「いい鎧? ふむ、確かに年代物のようだが……!」
そうじゃない、そうじゃないのだとエリスは頭を抱えた。
困った。毎度のこととはいえ、この王子、相変わらず《《おバカさん》》のままである。
「ケヴィン様! その者を攻撃するのはおよしください、彼はわたしの友人です!」
「友人? なんと、これは失敬した。てっきりドラゴンの手下かと……」
「なんだい、随分と騒がしい」
その時、エリスの反対の回廊からアシェルが現れた。
彼がエリスを見て気まずそうな顔をしたのは一瞬のこと。ケヴィンを見て、幽霊でも見たように目を瞠った。
「ロクシアス……!? なぜ――」
呟いた直後だった。
ぴしりと空気の割れる音で、アシェルの身体が半竜化する。
まろやかだった爪の先が凶暴なかぎ爪に変わった瞬間――アシェルは、階下のケヴィン目掛けて跳んだ。
ケヴィンが待っていたとばかりに剣を構え直す。
「貴様が伝説のドラゴンだな! 人に姿を偽るとは、下劣な!」
鈍色に光を照り返すアシェルのかぎ爪を、ケヴィンの剣が激しく受け止めた。
ぎりり、と硬質な金属同士が擦れ合うような高い音が響く。
「下劣だと? お前にだけは言われたくないな! セイリーンに卑怯な取引を持ちかけて、攫ったくせに! 今度はエリスまで連れて行こうっていうのか!」
「攫うだと? 訳の分からぬことを。貴様、何の話をしているのだ!」
「とぼけるな、ロクシアス!」
階段の上、二人の会話を聞いていたエリスは、はっとした。
始まりの魔女セイリーンを攫ったエルマギア初代の王――その名は、ロクシアス。
彼は、《《目の覚めるような金の髪をした男》》だったという。
アシェルは、ケヴィンを、そのロクシアスと間違っている?
「アシェル! 違うの、その人はロクシアス様じゃないわ! アシェル!」
声が、彼に届かない。
アシェルの目は、眼前のケヴィンしか見ていなかった。
ぶつかり合う剣とかぎ爪。エリスは階段を駆け下りる。足下がふわふわするが、構っている場合ではなかった。二人を止めなくては。
「ぐっ……!」
かぎ爪を剣でいなしたケヴィンが、そのままアシェルを蹴り飛ばした。
アシェルの身体が吹き飛び、壁に叩きつけられる。
アシェルの膚が、めり、とさらに硬化した。
竜に、近づく。
「忌まわしきドラゴンよ、去ねッ!」
ケヴィンが剣を振りかぶった。
躊躇なくアシェルに向かい振り下ろされる――
「や め て っ!!」
エリスは無我夢中で、二人の間に飛び出した。
両手を開き、ケヴィンの前に立ちはだかる。
「エリス……っ!?」
狼狽えたケヴィンが、剣をエリスの眼前でぴたりと止めた。
「な、何て危険なことを……なぜだエリス、どうしてそのドラゴンを庇う!」
「わたしの大切な人だからです!」
エリスがアシェルを庇うように抱きしめながら叫んだ。
アシェルが、びくりとする。
半竜と化した異形の姿のまま、彼はエリスを見つめて呆然としていた。
ケヴィンが、剣を下ろしながら釈然としない様子で言う。
「訳が分からないな……君は、そのドラゴンに囚われていたんじゃないのか、エリス」
「違うわ。そうじゃないの、そうじゃ…………あ……」
ふいに、エリスの視界が歪む。
頭がくらりと揺れ、意識が遠のく。
気持ち、悪い――
「エリス!」
そのまま倒れ込んだエリスを、力強い両腕が抱き留めた。
遠くの方で、アシェルの悲痛な叫び声が聞こえる。エリス、エリス大丈夫、エリス……その声が、聞こえなくなる。
エリスは、返事をしようとした。
大丈夫よアシェル。わたしは大丈夫だから……
エリスの意識は、そこで途切れた。




