21
はぁっ、とため息をつき、エリスは身体を起こした。
……アシェルのことばかりが頭を過る。
そのせいで目が冴えてしまって、全く眠れそうになかった。
起きていてもいいのだが、翌日いつも通りに生活できないのも考え物である。
さて、どうやったら眠れるだろうと考えて――エリスは、ふと思い出した。
中庭に、紫色の花をつけた植物が生えていたことを。
あれは、恐らく薫衣草だ。
その香りに沈静と安眠の効果があって、枕元に置くだけでよく眠れたのをエリスは思い出す。子供の頃、眠れずにぐずるエリスに、よくイルダが与えてくれたものだ。
「……ここでじっとしていても時間の無駄よね。いただいてきましょう」
そう決めたエリスは、ベッドから抜け出した。
目は既に暗闇に慣れていたので、手燭もいらないだろうと手ぶらで部屋を出る。
古城の回廊は、夜の中、白い月光を受けて静まり返っていた。
まるで静かな湖のほとりにいるような気分になる。
幽霊でも出そうな感じがするが、出たところでいまさら素直に驚けるか、エリスには疑問だった。
既にメイルやミラージャと会って、そういった不思議には驚き尽くしているような気がするのだ。
回廊から扉を開け、エリスは中庭へと出た。
心地のよい春の夜風が、咲き乱れる花の香りを運んでくる。
その香りに誘われるように視線を向けて……エリスは「あ」と声を上げた。
胸が、とくん、と一つ鳴る。
「あ」
同じような声を出したのは、石造りの腰掛けに座っていたアシェルだ。
薫衣草の一枝を指先で弄んでいた彼は、驚いたようにエリスを見て……それから、戸惑うように手元に視線を落とした。
その仕草に、エリスは、先ほど自分がアシェルを傷つけてしまったことを思い知った。
「アシェル……」
「や、やあ。どうしたの、こんな時間に」
「眠れなくて…………その、薫衣草をいただきに来たの……」
そこまで言って、エリスは自分がネグリジェのままだということに気づき、恥ずかしくなった。布が薄くて、何だか頼りない……
人の男であれば、何か反応を見せたのかもしれない。
だが、アシェルは《《そう》》ではなかった。特に気にする風もなく話を続ける。
「僕も同じ。眠れなかったらこれのにおいを嗅げって、セイリーンがよく言ってたから……ああ、これでよければ、はい」
そう言って、アシェルは薫衣草の枝をエリスに差し出してきた。
「ありがとう」
エリスは、そっと受け取る。
「どういたしまして。えっと……それじゃ、僕はこれで」
「ま、待って、アシェル!」
腰掛けを立って去ろうとしたアシェルの手を、エリスは慌てて掴んだ。
アシェルが、驚いた様子で足を止める。
「えっと……その……………………さっきは、ごめんなさい……」
「あ――……ううん。僕がいけなかったんだ。子供みたいにはしゃいじゃって……幼竜の時に眠りについたからかな。千年も生きてて、今じゃ大人になってるのに、気持ちは全然、成長してないみたいだ。君が嫌がるとも考えずに、べらべらと勝手なことを喋って、本当、馬鹿みたいに――」
「ち、違うの!」
アシェルは、きょとんとしてエリスを見た。
エリスは、無意識に握った彼の手に、ぎゅっと力をこめた。
……勇気を振り絞って、言う。
「嫌だったんじゃない……あなたの言葉、嬉しかったの。ただ、恥ずかしかっただけで……どんな顔をしたらいいか分からなかったの。それでわたしは逃げ出したのよ……だから、あなたは悪くない。わたしが、悪いの……」
言い切って、アシェルの手を握っていたことに気づく。
「ご、ごめんなさい」
慌ててエリスが離そうとした手――それを、今度は逆にアシェルが捕まえた。
「君は悪くないよ。悪くない」
「でも……」
ええと、とアシェルは考えるように視線を彷徨わせて……苦笑した。
「……それじゃ、どっちも悪かったってことにしようよ。それでいい?」
「でもわたしが……」
言いかけて……エリスは、やめた。
せっかくアシェルが懺悔の堂々《どうどう》巡りに対する終止符を打とうとしてくれているのだ。乗らないわけにはいかないだろう。
「……アシェル。少し、話をしない?」
「君といられるなら、喜んで」
「もう、そんなこと言って……どうせ、わたしのにおいが元に戻ったら、嫌がるんでしょう?」
「そんなことないと思うよ。そりゃ、あのにおいは嫌いだけど……
……でも、僕は今、君が好きだってことを知ったから」
腰掛けに座った瞬間にそう言われ、エリスはどきりとした。
好き――その言葉に反応してしまう。
隣りに腰を下ろしたアシェルをそろりと見上げる。手は握られたままだ。
「……好きって、どうして?」
アシェルがエリスを見つめ返して、薄紫色の瞳を穏やかに細めた。
「君はあの時、僕から目を逸らさなかっただろ」
「あの時って?」
「最初に会った時さ。僕が半竜化して見せた時、君は覆い被さる僕から目を逸らさなかった。しかもその後、『きれいな目』なんて言ったんだ」
確かに言ったけど、とエリスは、アシェルを最初に起こした時のことを思い出した。
でも、それがどうして「好き」に繋がるのだろう?
「千年前の世界では、僕の目を見たやつらは、僕が幼竜だったのにも関わらず、食われるだの恐ろしいだのとしか言わなかったんだ。目を見て話してくれるのはセイリーンだけだった。だから彼女以外にそうしてくれた君に、僕がどれだけ焦って……嬉しかったか、分かる?」
「……でも、あなたには『くさい』って部屋を追い出されたわ」
「う、あれは謝るよ。でも、あれは、」
「ドラゴンだから鼻が利くのよね。それじゃ仕方ないわ――」
「エリス」
ぐい、と手を引かれ、抱きしめられ……エリスは黙った。
「ごめん」
彼なりの謝罪のようだった。
腕の中、彼の悔いるような声が振動となって伝わってくる。
……エリスは、アシェルの背中にそっと手を回した。
「だから仕方ないって言ってるじゃない。許してるわよ、もう……ってアシェル!?」
「はあ、いいにおいだ……」
どさくさに紛れ、アシェルはエリスの首筋のにおいを嗅いでいた。
エリスは彼の背中を抓ってやった。「いて」とアシェルが顔を離す。
「……そんなにレディのにおいを嗅ぐもんじゃありませんって、セイリーンに教わらなかったの?」
「だって彼女がいた頃は、僕、ただのドラゴンだったし」
「でも、今は人間……に、なりかけてるんでしょう?」
「みたいだねぇ」
他人事のように、エリスを腕に抱いたままアシェルは言った。
それから、思いついたように続ける。
「……ねえ、エリス。エリスは、僕に人間になって欲しい?」




