20
「ねえ、アシェルはあっちでしょ。ほら、あっち」
今宵の食事の席。
アシェルが、まるで紳士がするように椅子を引いて座らせてくれたのだが、そこからエリスの傍を離れない。
堪りかねたエリスが向かいの席を指さすと、アシェルが拗ねたように頬を膨らませた。
「君の隣で食べたいんだけどな」
「もうあっちに食事が並べてあるでしょ」
「うーん、そっかぁ……じゃあ、メイルに頼んで、次からは君の隣に並べてもらおうっと」
一人で納得し、向かいの席に着くアシェル。
しかし真っ直ぐ見つめてくるので、エリスはこれも落ち着かない。
目が合った彼がにこっと笑ったので、エリスは慌てて目を逸らした。
……先日までとまるで違う態度に、エリスは困惑していた。
最近、ずっとこの調子なのだが……本当に、何が彼の心をこうまで動かしたのだろうか。
「ご主人様、今日もご機嫌がよろしいようですね」
給仕しながら話しかけるメイルに、アシェルが満足げに笑った。
「エリスがいてくれるからね。毎日楽しくて仕方ないよ」
「それはそれは、ようございました。
そう言えば、もうこの前のようにご一緒にはお眠りにならないので?」
エリスは、食べていたものを吹き出しそうになった。
そんなエリスの様子には気づいていないらしく、アシェルは至って真剣な顔で、
「僕は頼んでるんだけど、エリスが拒否するんだよ……ねえ、エリス、だめ? 今晩とか、どう?」
「……っ、『どう?』じゃないし、だめです! だからそんな期待を込めた目で見ないで!」
拒否されて、アシェルが、あからさまにしゅんとした。
メイルも心なしか残念そうだ。
……エリスは、二人に言っておかねばならないと思った。
「わたしは嫁入り前の女……それも王女なのよ。そうそう簡単に男の人と――あなたがドラゴンだからといって――添い寝なんてできないの。セイリーンがしてたからって、わたしはだめ」
「僕、セイリーンとは添い寝なんてしたことないよ? 枕にされたことなら、あるけど」
「……へ? だ、だって、あなた――」
先日を思い返して、エリスは目を瞬いた。
そう言えば確かに、そんなことは一言も言われていなかった、ような……
……てっきり子供の頃の彼は、セイリーンと共に眠っていたと思ったのだ。
だから、恥ずかしかったけれど、断らなかったのに……
「言っただろ、君がセイリーンじゃないのは知ってるって。今の僕は、君がよかったんだよ、エリス」
その言葉に、エリスの耳が、かあっと熱くなった。
真っ白なテーブルクロスの中に潜ってしまいたくなった。
メイルが聞いているのに!
どうしてそんなことが平気で言えてしまうの……!
あまりの羞恥的な状況に、エリスはそれっきり口を閉ざした。
無言で、黙々《もくもく》と食事を続けた。
アシェルが何やかやと話しかけてくるが、無視する。
そうしてエリスはいそいそと食事を終えると、呼び止めるアシェルの声を振り払うようにして食堂を出た。
すぐに湯浴みして、部屋へと籠もる。化粧台の前に腰かけ、櫛で髪を梳いていた……
……が、そこでエリスは、ようやく動きを止めた。
「はあ……」
櫛を置き、鏡の中の自分を見つめてため息をつく。
……アシェルは何にも悪くない。
一緒に眠ってしまったのは、自分の勘違いの結果だ。
なのに、あんな風に無視してしまうなんて……きっと彼を傷つけたに違いない。
だが、しかし、
「あんなこと言うなんて、反則よ……」
『君がよかった』。
……そんなの、甘い口説き文句にしか聞こえないではないか。
アシェルに他意がないのは、エリスにだって分かる。
彼はドラゴンだから。だから、エリスが考えるような他意は持ちあわせていないだろう。
けれど、だからといって、あんな言葉を聞かされ続けたのでは堪ったものではない……心臓が保たない。
「わたし、おかしいわ。絶対おかしい……」
アシェルの言葉に、逐一どきどきするなんて。
似たようなことはハーデュスにだって言われていたのに、胸の鼓動が全然違う。まるで壊れてしまったみたいに、自分で振動を感じるほどに激しく脈打ってしまう。
「アシェルは、ドラゴンなのに……」
「彼が人間だったら、いいの?」
エリスは、はっとした。
鏡の中の自分が笑っている。ミラージャだ。
「えっと、それは……」
「あなたの呟きからは、そういう意味に取れるけど?」
「そういう意味って…………」
「人間のアシェルになら、あんなことを言われてもいいって、そう思ったんじゃないの? 好きになってもいいって」
ぼん、とエリスの顔が、湯気を立てて真っ赤になった。
好きに?
自分が、アシェルを?
「そそそそ、そんなこと考えてないわ! 考えられない……!!」
「どうしてそんなに否定するの? 彼がドラゴンだから?」
「それは……」
エリスは少し考えて……それから小さく頷いた。
アシェルに「夫婦になろう」と言われた時も「ドラゴンだから」という理由で断ったのだ。
ドラゴンとは……一緒になどなれない。
「アシェルは、いずれ完全な人間になるわよ」
エリスは思わずミラージャを見た。
「そ――うなの?」
「ええ。彼にかかった魔法がまだ完成してないっていうのは、あなたも知っているでしょう? それが完成したら、彼は今の中途半端な身体から、完全な人間になる……でも、今のあなたは別の姿を望んでいるのだったかしらね」
エリスは俯いた。
アシェルがドラゴンの姿になってくれなくては、エリスは女王にはなれない。人々から認めてもらえないのだ。
だから、彼にはドラゴンになってもらわないといけない……
「あの子、結構な美男子だし、ドラゴンにしとくのはもったいないわよ? 好きなんでしょ?」
「だから、わたしは、別に……」
「あなたって素直じゃないのね」
「素直じゃなくて結構よ」
くすくす、とミラージャが笑うので、エリスはむっとして言い返した。
「困った子ね。アシェルのためにも、もっと素直になって欲しいものだけれど」
「……どういう意味?」
どきん、と胸が一つ鳴る。彼のため?
ミラージャが、くすりと笑った。
「期待してるの?」
「し、してないわよ別に! 何にも!」
「本当に強情ねぇ。アシェルのためっていうのは……アシェルにかかった魔法を完成させるためにっていう意味」
「わたしが素直になることと、それが、どう関係するの……?」
エリスは、メイルの言葉を思い出した。
エリスなら魔法を完成させられると、彼は言っていた。どういうことなのだろう。
「彼が完全な人間になるためには……彼を、心から愛する人が必要なの」
言われた瞬間、エリスは硬直した。
メイルもミラージャも、自分に何を期待しているのだろうか。
わたしが、彼を愛する?
想像しただけで顔が熱くなって、思わず指先に力がこもる。
「どうかした?」
「別に……」
にやりとするミラージャに、エリスは気にしていない風を装って答えた。
これ以上からかわれたら、堪ったものじゃない。
「ただ……おとぎ話みたいだなって」
「そうね。魔法なんて、今じゃおとぎ話の世界だけのものだしね?」
片目をつぶってみせるミラージャに「それもそうね」とエリスはくすりとした。
けれど、すぐに笑みを消し、肩を落とす。
「……わたし、どうしたらいいか分からないのよ。女王にはならなきゃいけない。でも、アシェルにはドラゴンになって欲しくない、と、多分、思ってる……」
「大丈夫よ、なるようになるわ」
ミラージャは強い口調で断言した。
エリスが見つめると、彼女はにっこり微笑んだ。
「……なんで、そんな風に言えるの?」
「私には未来が見えるのです……なんてね。それじゃ、またね」
言うだけ言って、ミラージャは、すうっと鏡の中に消えてしまう。
次の瞬間、鏡が映し出していたのは困惑顔のエリス自身だった。
一人、部屋に残されたエリスは、鏡をぼんやり見つめていた。
自分は、アシェルを好きなのだろうか……考えてみても、よく分からない。
ただ、彼を想うと胸が苦しい。
この気持ちは、何だろう。
知らない、苦しい。
アシェルを説得して従え、フェリシーダ城に連れて行かねばならないのだ。悩んでなどいる場合ではないのだ。
においが消えて話ができるようになれば、すぐにでもドラゴンの彼を連れて帰れる……そう思っていた二週間前が、遠い昔のようだった。
……エリスは思い知った。
物事は、そうそう簡単にはいかないものだと。
一体、どうしたらいいのだろう。
どの選択肢を選ぶのが正解なのか――
悩んでいるうちに、夜はとっぷりと闇の中に落ちていた。
このままだと朝が辛くなる……エリスはベッドに横になった。
燭台の火を吹き消し、目を閉じてみる。
暗闇と、静寂……
「………………………………………………………だめ。眠れないわ」




