19
エリスが古城へとやって来て二週間が経過した頃になると、アシェルはことごとくエリスとくっつきたがった。
エリスが仕事をしていない時――たとえば、古城の書庫で本を読んでいる時なども、隣に座って手元を覗き込んできたりした。
現に、今がそれだった。
「ねえ、エリス。キスしたい?」
「ぃう?」
突然かけられた突拍子もない質問に、エリスは奇妙な声を上げてしまった。
本から顔を上げれば、アシェルが何事もなかったように薄紫色の瞳で見つめてくる。
エリスは、どきどきしながら尋ね返す。
「あ、あなた、キスが何だか知っていて言ってるの?」
「もちろん知ってるよ」
「一体どこで覚えたのよ……」
ドラゴンがキスなんて俗なことを知ってるとは……
エリスが狼狽していると、アシェルが書庫の一角を示した。
「あそこに並んでる本、そういう絵とか入ってるんだ。セイリーンが、好きだったみたいで。僕も一緒に読んだことがあるんだよ」
「本?」
言われて、エリスはその一角を確かめに行く。
そこには、ロマンス小説の類いが並んでいた。
ぱらぱらめくると、確かにそういった挿絵がある。
男女が口づけしている絵のページを開いたまま、エリスは思わずまじまじと見てしまった。
エリスも、こういった小説が、実は好きだ。
リラが城下でこっそり手に入れてきてくれるので、時々読んでいた――のだが、現代のものと比べて、セイリーンの蔵書は……何というか、描写が生々しい。
「そういうこと、人間の男女はするんだろ?」
「いっ!?」
背後からアシェルが肩越しに覗き込んできて、エリスはびっくりして飛び上がった。
心臓がばっくばっく鳴っている。慌てて本を閉じた。
「あ……あなたとはしません!」
「なんで?」
「夫婦じゃないから」
「またそれかぁ……」
アシェルが不服そうに唇を尖らせた。
……そんな顔をされても、できないものはできない。
その時、彼の様子に、エリスは昨日のこと――エリスの身体を無遠慮に鼻先でなぞっていたアシェルに――疑問を覚えた。
「そ、そもそもあなた、こういった本を読んでいたなら、その……キスの先だって知ってるんじゃないの?」
知っていれば、昨日のようなことは『いけないこと』だと分かったはずだ。
……まさか、確信犯?
だが、エリスの予想とは反対に、アシェルは目をぱちくりさせた。
「キスの先? 先があるの?」
「え…………と…………それは………………」
余計なことを言ってしまった気がして、エリスは固まった。
「セイリーンは、キスも僕には早いって、あんまり読ませてくれなかったんだ。だから、よく知らないんだけど……本には先が書いてあるの? どんなこと? エリスは知ってるの?」
「し、知らないわ」
「……知ってるなら、教えて欲しいなって思ったんだけど」
「だ、だから知らないって言ってるでしょう……知りません!」
エリスは慌てて本を棚に戻し、そっぽを向いた。
王女の自分が、そんなことを口にするわけにはいかないし、ましてや教えられるわけなんてない。無理だ。
……それにしても突然キスの話だなんて。
アシェルは一体、何を考えているのだろう。単なる興味で訊いてきたのだろうか。
(……それとも、アシェルはわたしとしたいのかしら)
考えて、ぶんぶんと頭を振る。
顔の熱も一緒に吹き飛ばす。
自分は何を考えているのだ、何を!
そんな浮ついたことを考えている場合じゃないのに!
エリスは、意を決した。
深呼吸して、アシェルに向き直る。
「アシェル」
「うん」
「あのね…………」
目の前のアシェルが、なに? と視線で問うてくる。
エリスは、彼の薄紫色の瞳を見て、言葉を詰まらせた。
――わたしと一緒に、フェリシーダ城に来て欲しい。
ずっと考えていたその一言が、言えない。
王女として、迷っている場合じゃないのに……
「…………………………ううん、やっぱり、なんでもない」
不思議そうに首を傾げるアシェルから、エリスは視線をそらした。
言いかけて、エリスはいつもやめてしまう。もうずっと同じことを繰り返していた。
アシェルの放った先日の言葉が、いつも袖を掴んで引き止めるからだ。
――『僕と、ずっと一緒にいて欲しい』
彼の言う「ずっと」が、いつまでのことなのかは分からない。
けれどエリスは、彼がセイリーンとずっと一緒にいられなかったことを知っている。
千年経った今だってきっと同じだ。ドラゴンになってしまえば最後、彼はもうこのアシェルではなくなる。
魔法が使えた魔女はもういない……つまりアシェルは、人間に戻れない。
ずっと一緒には、いられない。
エリスの願いは、ドラゴンとしてフェリシーダに来て欲しいというもの。
それは、彼の請いに反する言葉で。
「人として生きる道を諦めろ」というようなもので。
……だから、エリスには簡単に口にできなかった。




