15
「好きだったけど………………でも、恋っていうのかなぁ……」
アシェルは、昔を思い出すように目を細めた。
「セイリーンのことは、好きだったよ。でも、それが恋だったのかと言われると分からないな。友人……いや、母親みたいなものかも。子供の頃、散々《さんざん》お世話になった人だしね」
「……それ、お母さんのにおいが恋しいってこと?」
「そういうことになるのかな」
はは、とアシェルは苦笑した。
それは、初めてエリスに見せる打ち解けた表情だった。
それから「だめかな?」とエリスににじり寄って、上目遣いで見つめてくる。
……ずるいわ、とエリスは思った。
そんな話を聞いたら、無下に断るのもかわいそうになってしまうではないか。
母を恋しく思う気持ちは……母を亡くした自分には、痛いほどによく分かる。
たっぷり考えて――エリスは、折れた。
「…………いいわ。けど、絶対に変なことしないでよね。絶対に」
「しないよ。ありがとう……じゃあ、こっちに来て」
アシェルが、ベッドの上で両腕を広げて待っている。
エリスは、そろそろと靴を脱いで、ベッドに右膝を乗せた。
ぎしり、と軋む音を聞きながら、左の脚も同じようにする。
ゆっくり近づいて、心臓を慣らさないといけなかった。
だって、こんな場所で、こんな風に男性に近づくことなんて、これまでの人生には一度もなかったのだ。
だから、あまり急にしては、自分の心臓が保たないと思った。
ゆっくり、ゆっくり……
「あっ……」
上体のことばかりに気をとられていたせいだった。
膝にドレスの裾が引っかかり、エリスは前のめりに倒れる。
ベッドが、大きく揺れた。
「……っ、あ」
目に、ちかっと光が入り込む。
エリスの目の前には、鏡のペンダント。
そして白いブラウスに包まれた、思いのほか広いアシェルの胸――
「あ、あの、ああああ、アシェル……!?」
「いらっしゃい」
エリスが恐る恐る見上げると、彼は少年のように、にっこりと無邪気に笑った。
構えていた両腕をそのままエリスの背中に回し、身体を抱き上げる。
ずっと眠っていた割にしっかりと筋肉のついた腕が、エリスの身体に優しい圧をかけた。
そうして彼は、エリスの首筋に顔を埋める。
肌に、彼のあたたかい吐息がかかった。
アシェルが動くたび、白銀の髪がエリスの頬を、喉を撫でる。
「……っ、や…………くすぐったいわ、アシェル……」
エリスの身体を両腕で倒れないように支えて、アシェルは貪るようにエリスのにおいを吸い込んだ。
彼は、思い出のにおいとエリスのにおいを比べているようだった。
犬が飼い主にじゃれつくように鼻を押しつけていたが――ふいに呟く。
「……いいにおい」
「…………っ」
恥ずかしさに、エリスはぎゅっと目を閉じた。
確かめるようにエリスの首筋をなぞっていた鼻先……それが、香りを求めるように胸元へと下りていく。
吐息が移動して、同時に荒くなっていく。
「…………えっ!」
エリスはぎくりとした。それ以上は、まずい……!
アシェルが顔をドレスから覗く胸に埋めようとした瞬間、エリスの我慢が限界に達した。
「だ、だめよアシェル! や、やだ、恥ずかしいわ! もう放してちょうだい!!」
「いやだ、まだ足りないよ……全然足りない。もっと……欲しい…………」
身体を離そうとするエリスを、だがアシェルは腕に力を込めて放してはくれない。強い力だった。
エリスは、自分の身体を庇うように抱きしめて、涙目で訴える。
「へ、変なことはしないって約束したじゃない……あれは嘘だったの!?」
「変……? 人間はこれだけで変なことだって言うのかい?」
「そうよ! こんなの……夫婦じゃなきゃ、しちゃいけないことだもの……」
「そうなの?」
アシェルが首を傾げる。
「わ、わたしは結婚もしてないから、よくは知らないけど……」
恋人同士でもするものかもしれないが、エリスにはそこまでの知識はなかった。
ただ、婚前交渉と呼ばれるようなものは、してはいけない気がしていた。
そして、今のこの状況はその《《してはいけないこと》》に近い。
「わたしとあなたは夫婦じゃない……だからだめ、だめなの! 絶対だめ!」
「夫婦……」
確認するようにアシェルは呟いた。
それから納得したように一つ頷いて、にっこりした。
「じゃあ、なろうよ」
「な、何に?」
「夫婦」
「は…………はぁ……?」
「なれば、許してくれるんでしょ? こういうのも」
アシェルが小首を傾げて見つめてくる。
エリスは、開いた口が塞がらなかった。
多分、彼は夫婦という言葉の意味を理解していない気もする。それに、
「……そんなに簡単には、なれないわよ」
許す、許さないとか以前の問題だった。
「どうして?」
「どうしてって…………そりゃあ……」
……どうしてなのだろう?
自分が王女だから?
それもあるけど……順序――というのも、よく分からない。
気持ち――が伴っていない婚姻関係など、それこそ世の中には山のようにあるし……
散々悩んだあと、エリスは忘れかけていた大事なことを思い出した。
「……だって、あなた、ドラゴンじゃない」
「でも、半分は人間みたいなものだよ?」
「半分はドラゴンなんでしょ?」
「……ドラゴンじゃ、だめなの?」
至極当然の質問だった。
エリスはまたしても悩む。
異種族間には、恋は、婚姻関係は成立しないのだろうか。
よく考えて……答えた。
「……わたしの場合は、だめよ。王女だもの」
「むう」
不満の声を上げるアシェル。
エリスを腕に抱いたまま「んー」と何事かを考えていた彼だったが……やがて、エリスに媚びるような視線を向けてきた。
「エリス」
ささやくように名前を呼ばれて、エリスはぴくんと震えた。
「な、なに?」
「大丈夫、変なことはしないよ。夫婦のことも、だめだって分かったから。たださ……ちょっと、君の隣で眠りたいなぁって」
「ええっ!? そ、それって……そ、添い寝をしてくれってこと……?」
「……だめ?」
「だめ…………だけど…………」
アシェルの乞うような目を見て、エリスは言葉を呑み込んだ。
薄紫色の瞳が、とても切なげに揺れている。
ああもう、こんな捨てられた子犬みたいな目で見られたら断れないではないか!
「……横で寝るだけよ。変なことしたら、すぐに放してもらうんだから」
「ありがとうエリスっ!」
「きゃあっ!?」
エリスを抱きしめたまま、アシェルがベッドに倒れ込んだ。
エリスは、突然のことにめまいがした。
もう少し気持ちの準備がしたいのに、どうしてこの人はこんなに衝動的なのだろう。やはりドラゴンだから? まるで子供みたいだ。
そんな風に、エリスが困惑しているうちだった。
倒れ込んでから幾ばくも経たずに、すうすうとアシェルが寝息を立て始めた。
とても幸せそうな顔で眠っている。
「まったく……気楽なものね……」
その寝顔に、エリスは思わず呟いた。
ふかふかのベッドの上、向かい合う形でゆるく抱き合ったまま横たわる二人。
……何もできない体勢だったので、エリスはアシェルの顔をまじまじと観察する。
エリスがこれまでに見てきた、どんな男性のそれよりもきれいな顔だった。
鼻筋はすっとしていて、伏せられたまつげは長い。
薄い唇は僅かに開いていて、そこから微かな吐息がこぼれている。
「どこからどう見ても、人間なんだけどな……」
そっと手を伸ばして、アシェルの左の頬に触れてみる。
指が触れた瞬間、ぴくりとまつげが揺れたが、起きる気配はない。
銀の鱗に覆われた頬は、ざらりとしていた。
彼は、ドラゴンだ。
それは、ここへ来た初日に思い知ったことだった。
あの恐ろしい姿、凶暴な爪牙――
……なのに、こうしていると忘れそうになる。
彼が、人間だと思い込みそうになる。
触れた部分から伝わってくるアシェルの体温が、心地いい。
(セイリーンは、どうしてアシェルを人間の姿になんてしたのかしら……)
再度わき起こる疑問に、エリスはアシェルを見つめて唇を噛んだ。
……どきどきさせられてしまった。
きつく抱きしめられていたあの時、心臓が破裂してしまいそうだった。
彼がドラゴンのままだったら、きっと自分がこんな風に感じることもなかったのに……
(あ。そう言えば……)
アシェルの向こう、テーブルに置いたままのティーセットがエリスの目に入った。
せっかく温かい紅茶を持ってきたのに、アシェルは一口も飲まずに夢の中だ。
しかし、彼の穏やかな寝顔を見たエリスは、まあいいか、という気持ちになった。
(…………アシェルが起きたら、また新しいものを淹れてあげよう)
そんなことを考えているうちに、エリスのまぶたも重たくなってきた。
夢へ、夢へと、落ちてゆく――




