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鏡の中のミラージャは、エリスそっくりだ。
なのに、エリスよりずっと大人びた艶っぽい笑みを浮かべて名乗った。
ミラージャの表情には、母イルダの面影すらあって。
エリスは自分にもこんな表情ができるのだろうかと考え、そこで顔の筋肉がおかしなことになりそうだと思っていると……
「エリス。あなた、悩み事があるんじゃなくて?」
「え………………分かるの?」
「まあね、だてにあなたを映しているわけじゃないわ」
エリスは、自分が自分の話を聞いてくれるような錯覚を覚えた。悩み事も、相談してみたくなった。
これまでのこと、湯船に浸かって考えていたことを、とつとつと話す。
女王である母が亡くなったこと。
女王に即位する前に、ハーデュスといういけ好かない大臣に「女王として即位するためにはドラゴンを従えること」と言われ、フェリシーダ城から追い出されるようにしてこの古城へやって来たこと。
そのドラゴンのアシェルが、エリスに従ってくれないこと。
くさいという理由で、そもそも話をしてもくれないこと……などなど。
……ミラージャは「ふむふむ」と頷きながら話を聞いてくれていた。が、
「そのにおいなら、何とかなるわよ」
彼女がそう口を挟んだのは、エリスのにおいの話になった時だった。
「ほ、本当……っ!?」
「ええ。水晶薄荷をご存じ?」
「知ってるわ」
エリスは、こくこくと首を縦に振った。
水晶薄荷とは、水晶のような光沢を帯びた硬質な葉を持つ植物だ。
透明感のある香気を持ち、葉を口に含んで噛むと、すうすうする薄荷の一種である。
だが、通常の薄荷と異なるそれは、香気が強く、王都アモルでは珍しくもあった。
「水晶薄荷の葉を一枝分、煎じて飲んでみなさい。そうすれば、あなたのそのにおい、大分マシになると思う」
「本当に……?」
「本当に本当よ。あれは、体内からにおいを上書きしてくれるものなの。普通の人が体臭を消すには、葉っぱ一枚を噛めば十分だけど……あなたのは、それだけじゃ無理ね」
ぐさり、とエリスの胸に言葉が刺さった。
その言い方ではまるで、普通の人よりにおうみたいではないか……事実なので、反論の余地はないのだが。
「あなたが、くさいっていうわけではないのよ。あのにおいは、魔力の証だから」
「魔力の?」
「そう。あなたも魔女の血筋でしょう? 体内で生成される魔力が使われず燻ると、香りとなって外に発されるの。アシェルはドラゴンだから、鼻もいいけど、それ以上に魔力に反応してるんでしょうね」
においの原因に、エリスはようやく納得した。
やはり魔女の血が関係したことに、少なからずほっとする。
自分がくさいわけではないこと……そして、きちんと魔女の血に力があることを実感して。
「あなたのにおいを紛らわすには、フレッシュハーブティーじゃだめよ。毎日飲んでいれば違うけれど、即効性を期待するなら、ちゃんと煎じたものじゃなきゃ。味がきついけど、頑張って飲んでみて」
「分かったわ、試してみる!」
エリスは、鏡に身を乗り出すようにして返事をした。
そんなエリスを、ミラージャが興味深げに見つめている。
「……エリス。あなた、私のこと、そんな簡単に信じていいの?」
「え……? なんでそんなことを聞くの?」
「だって、突然鏡の中から話しかけてきたやつよ? あなたを惑わせたりして不幸にしようとしているかも……って、少しくらい疑ってもいいんじゃないの?」
「ちょっとは疑ってるわよ、もちろん」
エリスは苦笑した。
「……けど、わたしには他にどうしたらいいか分からないもの。それに、この城には悪いものがいない気がするの。ここは、何だか、あたたかくて懐かしい感じで満ちているから」
それは、この古城にやって来た瞬間から感じていたことだった。
メイルが現れた時はたいそう驚かされたが、それでもこの城には悪いものはないと、何となく心の一部分が察知していた。
この城の空気はとても澄んでいる。
そして……とても優しい。
「……なあんだ。もっと怖がられるかもって思ってたのに、拍子抜けよ」
ミラージャは、そんな風に、ぼそっと呟いてから、
「やっぱりあなたは、〈幸せの魔女〉ね」
納得したように微笑んで言った。
その反応の意味が分からなくて、エリスはきょとんとする。
幸せの魔女――イルダもよくエリスをそんな風に呼んでいた。
「ミラージャ……あの、それってどういう意味?」
「それはね――……内緒♪」
ミラージャが、ぱちっと片目をつぶって見せた。
自分に似たミラージャの、大人の女性を思わせるその表情に、エリスはどきりとする。自分もこんな仕草ができるのだろうか。
「あ」
エリスは思い出したように声を上げた。
「なあに?」とミラージャが首を傾げる。
「……困ったわ。この辺に水晶薄荷なんて生えているのかしら」
ここは森の中だ。薄荷ならば生えていてもおかしくはない。
だが、水晶薄荷という稀少な植物が、そう簡単に手に入るだろうか。
ここには従者もいないし、森を探すといって忙しいメイルに付き添いを頼むのも申し訳ない。採りに行くなら一人きりだろう……だが、ここは眠りの森の奥深く。途中で、獣に襲われるかもしれない――
そんな風に考えていたエリスに、ミラージャはとてもあっさりと答えた。
「あるわよ、水晶薄荷」
「えっ!? ど、どこに……?」
「中庭」
エリスは、拍子抜けして、ぽかんと口を開けた。
中庭には、確 《たし》かに様々な種類の植物が植えてあった。水晶薄荷があったかは定かではないが、あの場に生えていてもおかしくはない。
「まあ、信じられなくても仕方ないけれど――」
「信じるわ」
エリスの言葉に、目を瞠るミラージャ。
エリスは、微笑んで言葉を続ける。
「あなたを信じるわ。ありがとう、ミラージャ」
「……どう、いたしまして」
「よっし、これで、これからどうするかの指針ができたわ! 植物を摘むなら朝よね、今日はさっさと寝ちゃおうっと」
「私も、もう寝るわ」
「ミラージャ、また会える?」
「……あなたが困った時にでも、また顔を出してあげるわよ」
それだけ言って、ミラージャは鏡の奥に吸い込まれるようにして消えた。
――途端に、部屋がしんとする。
ミラージャがいた痕跡は皆無で。エリスは、まるで幽霊とでも話をしていたような気分になった。
「……まさか、本当に幽霊だったわけじゃないわよね?」
今更ながらに、思う。
彼女から「メイルと似たようなもの」とは言われたが、結局、詳しく聞きそびれてしまった……彼女は、一体何者だったのだろう。
……気になるが、一つ確かなのは、ミラージャからは嫌な感じがしなかったということだ。
幽霊にせよそうでないにせよ、彼女は善意的な存在だと、エリスの心が感じていた。自分の勘を、信じたい。
「とにかく、ヒントをもらえたんだもの。実行してみるまでよ」
起きたら、中庭に降りて水晶薄荷を探す。
手に入れたら、メイルに相談して煎じなければ。
ベッドに潜ったエリスは、翌朝の行動を思い描いてから眠りについた。




