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中庭を後にしたエリスは、メイルから仕事の手ほどきを受けた。
最初に説明されたのは、料理だ。
とは言ってもエリスはまるで素人。指を切ったら危険だからと、これはメイルに断念させられた。エリスはちょっぴり残念だったが、怪我をしては迷惑をかけてしまうので、大人しく従った。
次に習ったのは、食器洗いに洗濯だった。
これは、井戸から水を引き上げるのがなかなかの重労働だったので、無理はしないようにとメイルに言われた。
それから、掃除。
掃除は、水回りだけエリスが担当することになった。その他の広大な城の部分は、メイルがやると言って聞かなかったのだ。
結局、任されたのは、メイルの担当分に比べたら些細なこと。
けれど、エリスは彼の力になれるよう頑張ろうと心に決めた。
どんなに小さな仕事だってやってやるわ、と。
エリスは、その日のうちに早速、洗濯、掃除とやってみた。
「はあ………………メイルの仕事、こんなに大変だったなんて……」
その晩、自分で掃除した浴場の湯船に浸かり、エリスはぐったりとして呟いた。
手も痛いし腰も痛いし、腕も足も、何もかもが痛い。
フェリシーダ城のメイドたちは、いつもこんなに大変なことをしていたのかと思うと、素直に尊敬の念を抱くことができた。彼女たちはすごい。城に帰ったら、きちんと感謝と労いの言葉をかけなければと、エリスは固く心に誓った。
「メイドと言えば……リラは大丈夫かしら。いろいろ頼んだものの、無茶してないといいんだけど……」
ぶくぶく、と顔の半分まで湯船に沈み、エリスはフェリシーダ城に思いを馳せる。
女王イルダが亡くなり王女のエリスがいない今、城はきっとハーデュスの思いのままだ。元老院の議員たちも、何人かを除いては彼の傀儡でしかない。
ハーデュス――彼は、エリスの父の甥だ。
その立場を生かし、白髪の重鎮が大多数を占める城の中、三十歳の若さで現地位に上り詰めた、野心的な男である。
大臣となった彼は、現在、元老院議員たちに圧力をかけられるほどの実権を有した、大きな存在となっていた。
エリスは、このハーデュスという男が嫌いだった。
何度も他国との戦を提言して、イルダと口論になっているのを見てきた。彼がエリスに言い寄ってくるのも、女王の夫である王婿という地位のため。
まるで、自分をひと呑みにしようと音もなく忍び寄ってくる狡猾な蛇のようで、エリスは彼が恐ろしかった。
「……あいつ、おかしなこと、してくれてないといいんだけど」
早く、城に帰らねば。
アシェルを説得しなければ。
ドラゴンを伴って帰還し、自分が新たなる女王であるということを認めさせなければならない。
……でも、どうしたらいいのだろう。
彼が話をしてくれないことには、一歩も先に進めないというのに。
エリスは、花びらの浮いた湯の中で、両腕を擦った。
自分のにおい。
これが消えないと、アシェルは話を聞いてはくれない。
自分は、そんなに――話ができないほど――くさいのだろうか……
……湯船で悩み続けていたが、答えは出ない。
エリスは、のぼせないうちに湯から上がり、身支度して自分の部屋に戻った。
ネグリジェに着替えて、化粧台の前に座る。
長くてやわらかなエリスの黒髪は、眠る前に梳っておかないと絡まってしまうのだ。猪毛のヘアブラシで丁寧に梳いて、鏡の中の自分を見た。
腰まである長い黒髪、青い瞳。
少しつり目がちで、気は強そうに見える。
寝ぼけたアシェルは、エリスを見て「セイリーン」と言った。
それも、二度も。
「……そんなに似てるのかしら」
ふに、とブラシを置いた右手の指先で、自分の頬をつついてみる。
自分のご先祖様、千年前に国を治めた伝説の『始まりの魔女』――その女性に、わたしはそんなに似ているの?
「ええ、似てるわよ」
「へっ?」
エリスは、思わず自分の口元を押さえた。
……今のは、自分の声?
それに、鏡の中の自分も、そう言ったように見えた。
なお、本人には喋ったつもりがないのだが……
「…………………………………………気のせい、よね」
鏡の中の自分が、喋るはずがないのだ。
思わず部屋の中を見回した。だが、これと言って誰がいるわけでもない。
昼間の仕事で、きっと疲れているのだ……そう思いつつ、エリスは再び鏡の中を見た。
自分が映っている。
自分を真っ直ぐ見つめている。
自分が――
「ぷっ……あははははははっ! 面白~い♪」
「喋ったアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!????」
「こんばんは」
鏡の中のエリスが、にっこり微笑んだ。
エリスは仰天し、思わず立ち上がり、身を庇うように座っていた椅子を鏡に向かって振り上げた。
鏡の中のエリスが、慌てて制止するように手を振る。
「ちょっとちょっと、驚きすぎ。落ち着いてったら」
「か、かかか、かが、鏡が、喋ってるのよ……!? 落ちつけるわけないでしょう!?」
「……あなた、既に喋って動いて炊事洗濯をする鎧を見てるくせに、そんなこと言うの?」
メイルのことだ。
彼を思い出し、エリスはちょっとだけ冷静になった。
……持ち上げた椅子を、そっと床に置く。
「…………それも、そうね。で、でもあなた、何なの……?」
「メイルと似たようなものよ。それで納得できなければ、鏡の精とでも思ってちょうだい。でもあなた、そう聞きたくなるのは分かるけど、そこは『誰なの』と聞くべきじゃなくって?」
「ご、ごめんなさい……えと、誰……なの?」
自分で話を振ったくせに、鏡の中のエリスはうーんと腕を組んで沈黙してしまう。
そうして暫しの後、彼女は「そうね」と一人で納得して、
「私はミラージャよ。それが私の名前」と名乗った。




