10
翌朝、目を覚ましたエリスは、身支度してメイルが用意してくれた朝食をとった。
朝陽の満ちる食堂には、エリスとメイルだけ。
アシェルの姿はない。
「ねえメイル。アシェルは来ないの?」
食後に出されたのは、タンポポの根を炒って煮出した苦いお茶だ。
それをティーカップで飲みながら、エリスはいつまで経っても現れない城の主のことを訊ねた。
「ご主人様は朝に大変弱くてですね。朝食をとったことがないのですよ」
「起きてくるかしら?」
「……起こさなければ、一日中ベッドの中、ってこともあります」
エリスは、困惑して顔をしかめた。
……何という惰眠を貪る生活をしているのだ。
それに、彼が起きてこなければ会えないではないか。それでは、説得もできない。
この苦いお茶でも飲めば目も覚めるかもしれないが、ここに来てくれないことには――
「………………いいわ。わたしが彼のところに行けばいいのよ」
空になったティーカップをソーサーに置いて、食堂を後にしたエリスはアシェルの寝室に向かうことにした。
食堂を出る時、彼の寝室は西塔の三階だとメイルが教えてくれた。
エリスは迷わずにたどり着いた。昨日、飽きるほど城内を見て回ったため、あらかた把握できていたためである。
アシェルの部屋の前で、エリスはその閉ざされた扉を、そっと押す。
鍵はかかっておらず、扉は羽根のように軽く開いた。
「アシェル、いるの?」
声をかけて、しばらく待ってみる――……が、返事はない。
仕方なく、エリスは部屋へと入った。
奥にある天蓋つきのベッド。
その上に、アシェルは昨日と同じように横たわっていた。
きれいな寝顔をしていたが、エリスは見つけてしまった。
アシェルの目元に、一筋、涙が流れたような跡があるのを。
「……アシェル、泣いているの?」
「うん……?」
アシェルが細く目を開いた。
薄紫の瞳がぼんやりとエリスを見て「セイリー、ン」と小さくかすれた声で呟いた。
……だが、暫くエリスを見つめていたアシェルは、すん、と鼻を鳴らすと、二度、三度、まぶたを閉じては開け、目を擦り、
「…………………………………………君、なんでここにいるの」
そんな風に不機嫌な顔で言い放った。
「あなたを起こしに来たのよ。そうじゃないと、あなたずっと眠ったままだろうし」
「迷惑だ」
「そ、それでもわたし、あなたに話があるんだもの」
「僕にはする話なんてない……っていうか、君、よくこの部屋に来られたね。怖かったんじゃないの? 僕、ドラゴンなんだよ?」
「そりゃあ、あの時のあなはた怖かったわ……でもあなたは人間を食べないし、それに」
「それに?」
「……あなたのきれいな目は、ドラゴンに変わる前も後も、同じで綺麗だったから」
寝ぼけ眼だったアシェルが動かなくなった。瞬きすらしない。
一体どうしたのだろう……エリスが顔を覗き込むと、彼は苛立ったようにエリスを見上げて言った。
「……近寄らないでよ。くさい」
その無礼な言葉に、エリスは愕然とした。
「ちょっ……昨日ちゃんと身体洗ったわよ! それなのに、まだくさいって言うの!?」
「くさい」
「そ、そんな……」
「くさい、すっごくね。鼻がもげそうだ」
「うっ……」
エリスは思わず胸を押さえた。
ぐさりと刺さった言葉が猛烈に痛い。
「……ひどいわ、そんな風に言わなくたって」
「仕方ないじゃないか、事実なんだから…………ああもう、だめだ、君のにおいに頭痛がしてきた……」
苦しそうな顔で言うと、アシェルは起き上がり、ベッドから下りる。
立ち上がると、すらりとした彼は、エリスより頭一つ分も背が高かった。
彼に、エリスはがしりと肩を掴まれた。
そのまま身体をくるりと回れ右させられ、ずずい、と背中を押される。
「え、え、ちょ、ちょっと、アシェル?」
「出てって。君がそのにおいをさせている間、僕は君の話は聞かない。聞けないから」
エリスは、そのまま部屋から追い出されてしまった。
無情にも、扉がばたんと閉められる。
がちゃ、と鍵の落ちる音がした。籠城されてしまった。
「……………………く…………屈辱だわ…………」
あんなに「くさい」と連呼しなくたっていいのに……エリスは、閉ざされた扉を見つめて肩を落とした。
……自分は、そんなにひどいにおいをさせているのだろうか。
腕のにおいを嗅いでみたが、分からない。
ドラゴンであるアシェルを説き伏せないことには、フェリシーダ城には戻れない。
だが、アシェルと話をするには、自分のにおいをどうにかしなければならないようだ。どうしたらいいのか、エリスにはさっぱり分からなかった。湯浴みをしてもだめだったのだし、そもそも自分ではくさいことなんて分からないのだし。
できることが、ない気がする。何だか、とても惨めな気分だった。
「はあ、どうしましょう……」
アシェルの説得以外に目的もなく、この古城の中でやるべきこともやりたいこともない今、何をしたらいいのか分からない。
一体、この手持ちぶさたな時間をどう過ごしたらいいのだろう。
悠長なことをしている場合ではないのだが、それにしたっていま自分がアシェルと話をしてもらえない以上、焦るだけ無駄のように思えた。
アシェルの部屋から離れたエリスは、とぼとぼと城の中を歩き始めた。
やがてどこをどう歩いたのか分からないが、いつの間にか中庭が見える回廊にたどり着いていた。
植物園のような中庭には、緑と、色取り取りの花が溢れていた。
珍しい植物も多く植えられているらしく、そこには恋色薔薇もある。
春の陽射しを受けた中庭は、とても心地よさそうな場所だった。
一角には、石造りの長い腰掛けが置いてある。
エリスは、そこにメイルが座っているのを見つけた。
「メイル、何をしているの?」
中庭に下りて、近づいてみる。
頭に、白くて小さな蝶を留まらせたメイルが、エリスを見上げるように兜の角度を上げた。
その拍子に、蝶がひらひらと飛び立つ。
「ああ、エリスさん。いや、実は、身体を乾かしているんですよ。錆びないように」
「錆び!? だ、大丈夫なの?」
「あ、大丈夫、大丈夫ですよ! 一応、わたくしは錆びにくい金属でできてはいるので……が、金属の宿命ですね。金や白金などなら別かもしれませんが、水気はやはり苦手でして。水仕事をしたら、水気を拭き取った後、こうして乾燥させてます」
大丈夫とは言うものの、エリスはメイルが心配になった。
身体が錆びてしまったら、鎧にとっては一大事ではないか。
「水仕事、しなければいいと思うわ」
「そうですね。ですが、料理も掃除も洗濯も、わたくしがやらないと、他には誰もおりませんので……」
「なら、わたしがやるわ!」
エリスの言葉に、メイルは「え」と声を上げた。
「わたし、そういうのやったことないから、あなたの仕事を全部同じようにってわけにはいかないと思うけれど……でも、わたしもここに住ませてもらうことになったんだし、何もしないわけにはいかないと思うの」
「エリスさんはお客様ですから、そんな気を遣わなくとも……」
「ううん、いいの。それに、わたし、何もすることがないのよ……アシェルを説得しようと思ったんだけど、部屋から閉め出されてしまったし。彼が話してくれるようになるまで、手持ち無沙汰なの。
……ね? だから、あなたがよかったらでいいんだけど、手伝わせてちょうだい」
「それは……とてもありがたいです。ええ、はい、とても。それじゃ、仕事の説明をしないといけませんね。今、お暇ですか?」
「ええ。とっても暇よ」
よっこらせ、と立ち上がったメイルに、エリスはにっこり微笑んで言った。




