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「お母様が、死んでしまった……」
うららかな春の昼下がり――にもかかわらず、分厚いビロードのカーテンを閉め切った私室で、エルマギア王国王女エリスティーナは泣いていた。
大きく豪奢なベッドに黒い喪服のドレスのまま突っ伏して。喪服よりも黒い、闇夜を写し取ったような長い黒髪が、ドレスの裾と一緒に、さざ波のように広がっている。夜の海のように、それが微かに震えていた。
女王である彼女の母イルディーダが崩御したのは十日前のこと。その葬儀が先ほど終わったばかりだった。
「お母様、どうして逝ってしまったの………………どうして……」
母のことを想えば想うほど、胸が抉られたように痛み、涙は雪解け水のように溢れた。優しく聡明だった母、強く気高かった偉大な女王――イルダはエリスの憧れで、目指すべき存在だった。子供の頃に王婿であった父が亡くなってからは、エリスにとって一番大切な人だった。
女王としても、人間としても、教えてもらいたいことがたくさんあった……なのに、もうそれは叶わない。いつでも聞けると思っていた自分が、とても愚かしかった。人の命の確かな刻限など、誰にも分からないというのに。
「わたし、これからどうしたらいいか分からないわ……」
葬儀が終わった現在。ここからは戴冠式の話が進んでいくに違いない。
だが、問題があった。
即位をする上での、エリスに関わる問題だ。
そして、即位できたとしても、さらに国の抱える問題があった。
「お母様………………」
「姫様、失礼いたします」
エリスがもう何度目か母を呼んだ時、私室のドアが静かに開けられた。
低い男の声に、エリスは慌てて涙を引っ込ませる。
「そうして黒い衣装をまとわれていると、本当に“魔女”のようですねえ」
「……ハーデュス大臣、婦女子の部屋をみだりに訪れるだなんて、無礼ではありませんか」
起き上がったエリスは、きっ、と部屋の入り口を睨んだ。
そこにいたのは年若い大臣のハーデュスだ。
黒土のような涅色の髪を背中で一括りにした彼は、人懐こそうな、けれど隙のない笑みを浮かべてエリスを見ていた。
「ですから、失礼いたしますと。泣いておられたようですが、そのような暇はありませんよ、姫様」
「………………っ!」
エリスは顔を逸らす。
普段はサファイアのように青い瞳が涼やかな彼女の目元は、泣きはらしたためウサギのように真っ赤になっていた。
……失態だった。この男に、こんな顔を見られるなんて。
「悲しかったのですねぇ。なんなら、私の胸で泣けばよろしいのに。いくらでも貸して差し上げますよ?」
「…………ごめんだわ」
ハーデュスは無遠慮な速度でエリスに近づいてきた。
エリスの顎を掴み、口づけるように顔を近づける。
「き――気安く触らないでちょうだい!」
エリスは力尽くでその腕を振り解き、ハーデュスを突き飛ばした。
触れられた部分が気持ち悪い。肌がぞわぞわと粟立った。
「ふうん……どうしても、私と結婚するのは、嫌?」
「……何度も言ってるでしょう、嫌よ。絶対に」
エリスの冷ややかな拒絶に、ハーデュスは、くっ、と口角を上げる。
「……そう言うと思っておりましたよ。けれど、分かっておいでですよね。あなたが次の女王に即位するためには、伴侶が必要だということは」
ハーデュスの言葉に、エリスはぐっと押し黙る。
エリスが即位する上での問題。
それは、この“伴侶”のことだ。
エルマギア国は、代々女系の王族が王位を継ぐ。けれど現王女が次の女王として即位するためには、男子と婚姻関係を結ぶことが条件だった。
この国が成立してから千年。例外は一つもない。
「姫様は、私以外に心に決めた方がいらっしゃる?」
「別にいないわ…………けど、あなただけは……」
「はっ……それじゃ、適当にその辺の男の中からでも選びますか? そういうわけにもいきますまい?」
エリスは、ぐっと唇を噛んだ。
……その通りだった。
めぼしい王族や貴族も、残念なことに現段階では見当たらない。
「ですから、もう一つの条件を成していただこうと思いましてね」
「もう一つの、条件……?」
エリスはハーデュスを見て身構えた。他に条件があるなど、初めて聞く話だ。
「はい。お相手の見つからない姫様を即位させるために、このたび元老院がもう一つの条件を決定いたしました。姫様には、あることをしてもらいたいのです……ああ、そんなに構えないでくださいよ。大丈夫、姫様にならできるはずの些事ですから。その説明をさせていただくために呼びに来たんですよ……さあ、お越しいただけますか」
ハーデュスが薄笑いを浮かべたまま続ける。
エリスは黙ってベッドを下りた。ドレスをしゃんとさせる。
「些事だろうが何だろうが、女王になるためなら……ええ、聞きましょう」
毅然とした態度でエリスはハーデュスに付き従った。
涙で湿った目元を乾かすように、風を切って歩いてゆく。




