幕間「森の異変」
エルフの国エルフレイムは世界樹ユッグイグルを中心に据えた広大な森の中にある。
世界樹の加護を受ける森それ自体が国を守る結界である。
エルフレイムは特殊な国だ。神の許可を得た者しか、足を踏み入れることはできない。
許可を得ぬ者が踏み入れば、森の中を永遠に迷うことになる。その者がエルフレイムに訪れることを諦めるまで永遠に。
「ユッグイグル様、お呼びでしょうか?」
エルフレイムの王族が住まう緑青宮の中央には広い庭がある。
様々な植物が植えられ、色とりどりの花が飾る庭の中央には天につくほどの大樹が聳え立っている。
幻想的な空間で強い存在感を放つそれこそ、エルフレイムの中心、世界樹ユッグイグルである。
成人男性が複数人並んでも足りないほど太い幹には顔のような模様が刻まれている。
「うむ。よく来たな、シャーロフ」
幹全体を震わせて、嗄れた声が紡がれる。
声帯ではない場所から発せられる声は不思議な響き方をする。周囲のマナを揺らす声を重さに長耳を震わせるシャーロフは緊張感を持って世界樹を対峙する。
高純度のマナでのみ構成された精霊、神にまで上り詰めた存在に圧倒される。
偉大な神に対峙するのはこれが初めてではない。数えきれないほどの対峙を経てはいるが、何度やっても慣れるものではない。
幸いなのはユッグイグル神がこちらの反応を見て、態度を変えることはないことだ。
神はやはり神であり、下々の者を平等に、公平に見る。赤子も、老人も等しく見る存在にとってシャーロフの緊張など瑣末なことなのだろう。
「それで御用とは……?」
「うむ。ちと西側で妙な感覚がある。気のせいであればよいがの、あまり良い震えではないのう」
「西に……」
森の西側と言えば、人族の住まう土地――ヒューテック領に隣接している地域だ。
最近ルーケサがきな臭い動きをしているという報告を受けている。決して楽観視はできない。
「ただちに確認してまいります」
「うむ。何があるか分からない、何人かつけていくといい」
神の気遣いに頭を下げ、シャーロフは庭を後にする。足早に府舞うのは父王の執務室である。
華やかな場所から離れ、白を基調とした空間の中、急ぎ足で歩を進める。
「父上、シャーロフです。お時間よろしいですか?」
低い声の応えがあり、執務室に足を踏み入れる。
書類から視線だけをあげ、シャーロフを迎えるのは年若い青年だ。
エルフは成人を迎えてから容姿の変わらない種族だ。シャーロフの二、三個年上にしか見えないこの青年こそエルフレイム国王、ストラトフ・アルフヘイムである。
外見ではなく、瞳に年月を刻んだ青年からは世界樹を前委にしたときは別種の迫力が感じられる。
「ユッグイグル様はなんと?」
「西側で妙な感覚がある、と。これから確認してまいります」
若々しい外見に老成した苦々しい表情が滲む。完全に手を止めた父ストラトフが映し出す感情は、シャーロフが神から話を聞いたときと同じものだろう。
西。ヒューテック領と隣接しているという事実が胸中に重いものを与える。
「ここ最近、ルーケサできな臭い動きがあることは把握しているな?」
「はい。アンフェルディア、カザードで新種の魔獣が確認されているとか」
アンフェルディアと音にするとき、シャーロフの中で特別な感情を湧き立つ。
いつもは温かく胸を満たすもので、今は締め付ける不安が胸を揺らす。
危険が及んだ話は聞いていないが、彼女の身を心配する心は止められない。
国王の代替わりがあって忙しくしていたようでしばらく会えていないこともあり、不安は大きくシャーロフの胸の中に居座っている。
しかしながら、シャーロフはエルフレイムの王子という立場にある。愛おしい存在のことばかり心配しているわけにもいかない。
胸を占める不安の中、国や民を思う気持ちの方に意識を向ける。
「以前、召喚されたのは四〇〇年前でしたか? 父上は当時のことをご存知で?」
四〇〇年前となるシャーロフはまだ生まれていない。
勇者という脅威を話でしか知らず、いくら聞いてもピンと来るものがないというのが本音だ。
世界樹に守られているエルフレイムは直接影響を受けていないというのもある。
「一度言葉を交わしたことがある。気さくな青年だった。他種族への偏見もなく、幼い私を撫でてくれたことをよく覚えている」
四〇〇年前の父ストラトフは十にも満たない年齢だ。長い生の中から幼少期の記憶を掘り起こすストラトフの瞳には哀愁が漂っている。
ただ一度と語りながらも、ストラトフは四〇〇年前の勇者に思うところがあるらしい。
「……意外です。残っている話とはまるで違う印象です」
シャーロフの知る四〇〇年前の勇者の話は、アンフェルディアに伝わるものだ。
四〇〇年、勇者は当時の聖女と共謀して、アンフェルディア王を嵌め、国土の大半を奪ったと言う話だ。アンフェルディアにおいて勇者の評判は、当然ながら悪いものばかりだ。
少なくとも、ストラトフが言うような他種族への偏見を持たない人物とは到底考えられない。
「勇者に求められるのは人格よりも力だからな」
「それはどういう……」
「ルーケサと決まっているわけではないが、油断はするな。あの国は手段を選ばぬ」
問いに答える気はないらしい父王の中元に口を噤む。年季を感じさせる瞳はこれ以上踏み込むなと警告していた。
その先にあるものを受け止める覚悟を決めるには、シャーロフは知らないものが多すぎる。
過去に思い馳せることより、シャーロフには果たすべき今がある。
「フリクルンドやレナントフの手が空いていればよかったのだが、あれらは曲人の相手で忙しくしている故」
「父上、心配は不要です。兄上たちに劣るのは承知の上ですが、私もエルフレイム王族に名を連ねている身、役目はしかと果たしましょう」
二人いる兄にも負けない心づもりで、不安を覗かせる父王を見据える。
シャーロフは兄たちとかなり年が離れている。そのこともあって兄たちも、父も、未だシャーロフを一人前として見てくれない。
不満を覚えて突っ走るほど無鉄砲ではないシャーロフは一つ一つを確実に果たしていくことを選ぶ、
確実に功績を積み重ねれば、否応にも認めざる得なくなる。それまで努力の手は止めないと自分自身に誓っている。
そうでなければ、シャーロフの力を信じてくれている彼女の想いに応えられない。
幼き者として見られることよりも、彼女の想いを裏切ることの方がシャーロフにとっては耐え難い。
心のもっとも大切な部分に置く女性を想い、揺らがない自分を作る。
「数週間後、アンフェルディアからの客人も控えている。くれぐれも無理はするな」
その話を出されるとシャーロフは弱い。これでより失敗するわけにはいかなくなった。
いつだって愛しい人の前ではかっこつけていたい。涼しい顔で迎えられること、それがシャーロフの理想だ。
アンフェルディアから新王と、このたび成人を迎える王女が来るという話だ。
案内役として、外交を担う彼女も当然弟妹に同行として訪れることだろう。
久方振りに会う愛しい人に下手な姿は見せられない、と覚悟を胸に執務室を後にする。
戦士を幾人か連れ、世界樹の西方を目指す。精霊馬に乗り、森の中を駆ける。
森の中に溢れるマナを多分に含み、魔獣化した馬は普通の馬よりも足が速い。鬣から零れ落ちるマナの欠片で軌跡を描きながら、真っ直ぐに進む。
世界樹の森は広大だ。一刻を丸々呑み込むほどの森は中央から西部へ移動するだけでもかなりの時間を要する。移動時間を大幅に短縮するために精霊馬は重宝されている。
事態が悪化する前に、彼女が訪れる前に、と先を急ぐ。
西に異変を言っても、具体的な場所までは聞いていない。先を急ぎながらも、一行は周囲への警戒は怠らない。
索敵に長けた者が精霊魔法で周囲の状況を探り、シャーロフ自身も微かな異変も見逃さない心持ちで警戒を巡らせる。
「待て」
どれほど走った頃だろうか。微細な違和感が肌を撫でた。
シャーロフの指示により足を止めた戦士はすぐに警戒態勢を取って、周囲を見回す。
同行している戦士は選りすぐりの精鋭たちだ。ヒューテック領に近い地域での異変を重く見たこと、そして末の王子のお守りとして選ばれた優秀で忠義の厚い者たちである。
そんな者たちでもシャーロフの感じた違和に気付かなかったようで、怪訝な表情を見せている。
「索敵の結果を」
「は。周辺に不審な気配は感じられません」
風精霊と契約した者が答える。シャーロフ自身も周囲に怪しい気配は感じていないようだ。
他種族はもちろんのこと、魔獣や魔物の気配も感じられない。この場にいるのはシャーロフと同行している戦士たち、そして彼らが契約している精霊たちのみだった。
そこではたと気付く。微かに肌を撫でる違和感と、それが与える胸のざわめきの正体を。
「索敵範囲を可能な限り広げてくれ。不審な気配でなくともいい。魔獣や精霊、一つでも気配を感じたら報告してくれ」
シャーロフの指示に訝しみながらも索敵する戦士の表情が見る間に変わる。彼も異変に気付いたようだ。
「周囲に気配はありません。何も……何も感じられません」
世界樹の森はマナに満ちた土地だ。耐性の低い者が入り込めば、不調を来たすほど高いマナ濃度が森絶対に広がっている。
餌も豊富にあるこの森は魔獣も多く、マナに満たされている故に精霊も多い。
エルフは魔獣や精霊と共存して暮らしており、森の中どこででも魔獣や精霊の姿を見ることができる。
精霊馬で駆けている間も、移り行く景色の中には必ず魔獣や精霊の姿があった。
それがどこからか、一切見かけなくなった。いつも当たり前に視界に入っていたものがなくなったことがシャーロフに与えていたのだ。
あまりも当たり前にあるものだから戦士たちは気付くのが遅れたのだろう。
「先へ進む。少しでも異変を感じたら報告してくれ」
世界樹の森で生き物の気配を感じないという異常に皆の表情は硬い。
ここから精霊馬を降り、警戒を最大限に徒歩で進む。
一体何が起こっているのか。魔物も精霊も忽然と姿を消すだけの何かがこの先で待っているのか。
緊張する。情けない心は不安を歌い、逃げ出したと訴える。
それでもシャーロフは逃げ出さない。与えられた役割を思い出し、己の立場を思い出し、愛しい人の姿を思い出し、奮い立つ心で不安を追い出す。
こういうところが一人前だと見てもらえない理由なのだろうと考えながら。
「シャーロフ様⁉ 前方に敵影、高速で近付いておりますっ!」
切迫した索敵役の声が届いた頃にはもう遅く、何かが突っ込んできた。
声を聞き、微かに捉えたものを頼りに回避行動を取ったので、シャーロフ自身に被害はない。
しかし、傍にいた精霊馬が吹き飛ばされ、悲痛の叫びをあげている。周辺の木々は薙ぎ倒され、辺りは嵐でも起きたような有様だ。
「臨戦態勢を取れ。くれぐれも油断するな」
各々戦闘態勢を取り、隙のない陣形を取る戦士を横目にシャーロフは剣を抜く。
片手剣を構え、精霊馬を吹き飛ばしたそれが起き上がるのを待つ。
まだ相手が何か分からない状況で、下手に攻撃は仕掛けられない。
刹那の接触でも分かるほど、それは異質だった。世界樹の森に住まう魔獣の中に該当するものはいない。
少なくともシャーロフは知らない。ならば、あれは魔物化か。
世界樹の森には魔物は生息していない。魔物は自然に発生するものではないからだ。
「うっ……」
それが体を起こし、目が合った。合ったような気がしたふぁ、そもそも目なのかすら分からない。
それは歪な存在であった。複数の肉体を組み合わせた継ぎ接ぎの体。各部位が正常に配置されているわけでもなく、本来の数とは違う部位もあった。
物の分からない幼子が出鱈目に描いた生物の姿を具現化した怪物だ。
「あれは……魔物、なのかな?」
身近にないもの故、シャーロフは魔物について疎い。
生物に魔石を埋め込むことで作られる存在という程度の知識だ。大抵は獣を素体としていると聞く。
しかしながら、目の前のそれはどう見ても、現実に存在し得ないものであった。
見ていて不愉快になる命の冒涜がそこにあった。
「ここで討つ」
長く存在していいものではないと本能が訴えかける。何が材料となっているかは分からないが、一秒でも早く解放してあげたかった。
「GYA――」
怪物が悲鳴に近い鳴き声をあげる。三本足で地面を蹴り、現れたときと同じ速度でこちらに向かってくる。
半開きの口から涎を垂らしながら迫る怪物を正面にシャーロフは口を開く。
「力を貸してくれ、我が花弁たちよ」
傍らで光の粒が瞬く。淡い光に包まれる剣を迫り来る怪物に向けて振るう。
細身の剣は一見すると怪物の勢いに勝てそうにない。しかし、シャーロフの剣は易々と怪物を受け止める。
「花弁は唄い、生み出すのは千々に裂く風、ヴェンズースィ」
詠唱に応えて、周囲を舞う光の粒――シャーロフの契約精霊が瞬く。
生み出されるのは巻き込んだものを斬り裂く風の渦だ。剣を起点に風の渦が生み出されると同時にシャーロフは後方に飛ぶ。
渦に巻き込まれるのは怪物のみ。歪に組み合わされた体を魔法によって細かく斬り裂かれる。その中で魔撃を逃れたものが地に落ちた。
「これは……魔石か?」
落ちたのは掌程の大きさの石であった。拾いあげて確認すれば、マナを含んだ石であることが分かる。
あの歪な怪物は魔物だったのだと制作者への憤りを抱きながら、視線をあげる。
その先に映し出されるのは楽観的要素のない光景であった。
歪な怪物は一体だけではなかった。シャーロフが視線を向けた先に犇めいて存在していた。




