83「散花」
天から注ぐ光の中、変わらぬ日々を送る人々と離れて、道を行く一人の女性がいる。
真っ黒な女性であった。灰色の髪、青い角を持つ女性はその身を闇色のドレスで包んでいる。
長いドレスの裾は地面に落ちる影と同化しているようにすら見える。
長い道を選んで歩む女性がふと足を止めた。注ぐ光を見上げ、目を細めた足元が不自然に揺れる。
「そう。困った子ね」
浮かべられた薄い微笑は不思議と無表情にも見える。空を見上げる顔には空恐ろしいものがある。
「助けるのは難しいかしらね。放蕩王子に見えて、流石と言ったところかしら」
呟く声は独り言に近いもので、影の中に潜む者へ届ける意思はない。
「仕方ないわ。計画を前倒ししましょう。大丈夫よ。すべて成長すれば、あの子も助けられるわ」
今度は届けるために声を紡いだ。返事を聞きながら、計画を前倒しすることでずれる予定を脳内で調整する。
「ええ。私一人で動くわ。その方が上手くいく」
どこか冷たい色で含んだイゾルテの態度を相手が気にする素振りはない。
その程度気にならないくらいに心許されている。相手の心をこちらに寄せる術は長い時間をかけて極めてきたものだ。傷を抱えた者たちの心を誘導することなく容易い。
集めた仲間など、望みを叶えるための道具に過ぎない。そんなイゾルテの考えなど、彼らの頭にないだろう。
甘い言葉をどれだけかけたとしても、そこにイゾルテの心はない。
イゾルテの心はただひたすらに長年願い続けてきた復讐を果たすことのみに注がれている。
「始めましょうか。見ても見えぬ影の底、伸びる刃の征く先はだあれ」
イゾルテの体を呑み込み、影は大きく波打った。その波もすぐに収まり、影が広がるその場にはもう誰の姿もない。
●●●
全身に怖気が駆け巡る。産毛が立つ感覚に身震いし、シラーフェは浅く息を吐き出した。
「なん、だ……今の。っぐ」
不可解な感覚の答えを得られないまま、激しく脈打つ鼓動が痛みを与えた。
内側から胸を突き上げるような鼓動がシラーフェの体を揺さぶる。
心臓、ではない。シラーフェの中に植えつけられた種が心臓すらも押さえつけるように脈打っている。
「ルヴァ……づぁ、あ゛ああああああぁあっ」
人目を憚らず、絶叫をあげる。それほどの激痛が〈復讐の種〉を起点に全身を巡る。
幸いなのは今、シラーフェの傍に誰もいないことだ。
シラーフェは今、自室に一人でいる。いつも傍にいるユニスはイゾルテの謀反の件で駆り出されているのだ。
イゾルテの潜めた気配を辿れるのは現状ではユニスだけ。そのため、イゾルテの仲間、危険物が隠されていないか確認する役を担っている。
ここ数日はシラーフェの傍にいないことの方が多く、代わりの使用人も断っているので、私室では一人きりのことが多い。
多少騒いでも気にする者はいない。激痛に身を捩っても、周りに心配をかける者がいないというのはシラーフェにとって幸いであった。
自分が自分ではなくなるような感覚の中、経験したことのない激痛の中で周囲を気にせずに痛苦を表に出せる。
「ぃ、や」
自分の考えを即座に否定する。激数に乱れた呼吸の中で掠れた声を零す。
「これは……あのときと、同じ」
選王の儀で初めて〈復讐の種〉と鼓動を重ねたときと同じだ。
正確に言えば、選王の儀よりも痛みは軽い。意識が飛ぶほどではなく、シラーフェはまだシラーフェのままでいられている。その上、この激痛は長くは続かなかった。
既知の感覚に囚われている間に、痛みは少しずつ収まっていった。
乱れた呼吸を確かめるように整え、シラーフェは突然の激痛の理由について思考をめぐらす。
徐々に平静さを取り戻す思考が、普段とは違う体の感覚を気付く。
「〈復讐の種〉の力が強くなっている……?」
冷静に己の状態を分析し、〈復讐の種〉の力が強まった理由について考える。
考えて、鈍器に殴られたような衝撃がシラーフェを襲う。
「ちち、うえが……」
震える声で紡ぐ。そこから先を音にするよりも先に部屋を飛び出す。
どうしても自分の目で確かめたかった。そうでなければ信じられない。
この胸を巣食う存在が示す答えが真実だとは信じたくなかった。
整えたばかりの息を乱し、城内をかける。途中、すれ違った使用人に驚かれるも気にしている余裕はない。
目的地が近付くにつれ、やけに静かに人の気配を感じないことが、嫌な予感に肯定を示す。
「っ……父上っ!」
ノックすることも惜しんで、扉を開ける。無作法を咎められるくらいがちょうどいいと願って開けた。
扉の先には三人の人物がいた。三人のうち、意識があるのは一人だけ。
魔石灯が注ぐ光を嫌うように全身を闇色のドレスで包んだ艶やかな女性だ。
ゆっくりとこちらを振り向き、毒花を思わせる様子で微笑む。
「誰かと思えば、マーモア様ではありませんか。血相を変えてどうなさったの?」
「お前は……」
「ああ、名乗らず失礼を。私はイゾルテ・ラァークと申します。こうして顔を合わせるのは初めてでしたね。お会いできて光栄ですわ」
まるで場違いに恭しくイゾルテは名乗り上げた。
直接顔を合わせるのはこれが初めてであるが、遠目には幾度か見たことがある。
故に知っている。名乗らなくとも彼女がイゾルテ・ラァークであることは知っている。
影人への謀反を起こした罪人であることを知っている。
「ここで何をしている⁉」
彼女がここにいる意味。〈復讐の種〉が届けた知らせ。
導き出される答えに早鐘を打つ鼓動を抱えるシラーフェはそっと剣に手をかける。
「あら、ユニスと同じ反応ね。やっぱり主従というのは似るものなのかしら」
からかう口調が紡ぐ言葉がこんな状況で言われても嬉しくない。注がれる厳しい目など、意に介さずイゾルテは笑みを絶やさない。
「何をしているのか、だったかしら。それを見ての通りですわ」
言って、イゾルテは道を譲るように体の位置をずらす。その先にはベッドがあった。
寝かされているのは老齢の男性。病に臥せって長く、実年齢よりも老けて見える。
元より色の悪かった肌はさらに血の気を失い、その身に命が宿っていないことを示す。
アンフェルディア王国国王ロワメーレウス・ルキファ・アンフェルディア。この国を統べるその人の命は奪われた目の前に立つ黒い女によって。
シラーフェの足元に倒れる父王の影もまたイゾルテによって殺されたのだろう。
「……父王暗殺の容疑でその身を捕えさせてもらう」
この場で事情を聞く段階を過ぎていると剣を抜く。晒される漆黒の剣身を見惚れるようにイゾルテは目元を緩めて口角をあげる。
「そう張り切らなくても今日はこれ以上何かする気はありませんわ」
「それを聞いてより逃がすわけにはいかなくなった」
威嚇の意味を持って抜いた剣の切っ先を突きつけながら、内に宿すマナに意識を向ける。
狭い室内では剣よりも、魔法の方が使い勝手がいい。警戒を注ぐ中で、イゾルテの隙を探る。
「それにしても、まさかマーモア様が来るなんて思わなかったわ。無視の知らせでもあったのかしら」
図星を突かれた気分で、シラーフェはそっと〈復讐の種〉に意識を向ける。
シラーフェを襲った激痛はまさに虫の知らせ。父王が死したことにより、父の中に残っていた〈復讐の種〉の欠片がシラーフェに宿った故の激痛だ。
この日、シラーフェの身に宿る〈復讐の種〉は完全体となった。
「貴方も人質に取れば、ユニスは私の許に来てくれるのかしらね」
刹那、イゾルテが眼前に迫る。動きがまるで見られなかった。
見開いた赤目に映し出されるイゾルテは変わらぬ様子で、嫣然とその手を伸ばす。冷たい指先がシラーフェの輪郭をなぞる。
「……っ」
「あら怖い」
咄嗟に剣を振れば、イゾルテはまだ刹那のうちに距離を取った。
「セリディアイル」
「悪くない手ね。でも残念――エンフラメ」
イゾルテの足元に生成した氷は床を走る炎によって即座に溶かされる。
足元の影に混じって、イゾルテの生み出した炎が揺れている。残火を思わせる微かな炎ながら、その効果は侮れない。迂闊にイゾルテに気付けもしない。
ならば、と魔法を行使するために開いた口を制する影が躍る。
影人の力で操られた影がシラーフェとイゾルテの間に割り込む。剣で斬り裂くも、開けた視界の中にもうイゾルテの姿はなくなっていた。
どこからか聞こえる笑声を迫って、床を描く影に剣を突き立てる。
「っ……逃げられたか」
剣はイゾルテを捉えることは敵わず、徒労に息を込め、納剣する。
まずは騎士にイゾルテの捜索の指示を。影に潜んで逃げるイゾルテを見つけ出すことは難しいだろうが、何もしないよりはいい。スクトの方にも指示を出した方がいいだろう。
どこまでイゾルテの手が及んでいる以上、一度長兄に指示を仰ぐべきか。
「父上のことも……伝えねばな」
掠れた声で紡ぐ。ここ数年、言葉を交わすどころか、顔を合わせる機会はほとんどなかった。
さらに遡っても親子らしい触れ合いをした記憶はあまりない。それでも父親だ。
「もっと早く気付いていれば……」
いや、と否定する。シラーフェが気付けたのは〈復讐の種〉あってこそ。その道、手遅れだった。
吐いた息とともに落ちる感情に呼応して内なる種が拍動する。
悲哀と後悔、無力感に苛まれる心を栄養に種は育つ。以前よりも存在感を増した〈復讐の種〉はシラーフェに復讐を果たすように訴える。
脳裏によぎる闇色の女性の微笑みに憎悪に燻らせる己をシラーフェは意志のみで抑え込む。
「……シラーフェ、様?」
内にばかり目を向けていたシラーフェはその声で幾人の来訪者に気付いた。
黙して佇むシラーフェを不安そうに見つめるのはユニス。もっとも信頼を置く従者である。
「シフィ、思うところはあるだろうが、状況の説明を」
突然現れたユニスに驚くシラーフェへ、声を投げかけるのは長兄フィルだ。
今日、ユニスはフィルに同行していた。イゾルテの気配に気づいて共に駆け付けたのだろう。
「……異変に気付き、こちらを訪れたところ、イゾルテと遭遇しました。イゾルテは……王とその影を殺害後、影に沈み、逃走しました」
端的に、必要な部分のみを抽出して言葉を紡いだ。
敢えて〈復讐の種〉のことを伏せたことに、フィルは眉根を寄せるも追及はしない。他を優先すべきと判断したのだろう。
「フニート、スクトに捜索に指示を。もう遅いだろうがな」
フィルの指示を受けたフニートの体が影に沈む。イゾルテのことはそちらに任せていいだろう。
「父上は病死として公表する。真実を明かしても、民に余計な困惑を生むだけだ」
「それがよいかと」
「ここでのことは他言無用だ。いいな」
元より長く病床についていた身だ。ここ最近、病状が悪化してもいたので、不審に思われることはないだろう。
兄妹にまで黙していなければならないことに罪悪感はあるが、フィルから許可も下りるだろう。
「急ぎ葬儀を執り行わればなるまい。継承の儀の予定もずれることになるだろう」
「延期ですか?」
「いや、その逆だ」
国王が死んだとなれば、その葬儀は国をあげて大々的に行われる。継承の儀の準備は一時中断されることになる。
そう思って口にした言葉を否定され、訝しむ。
「国の長が不在の状況をそう長く続けるわけにはいかない。王とは国の象徴だ。象徴がなければ、国はままならない。国政を担う者だけでは足りないものがある」
シラーフェはまだ分からない理屈だ。しかし、シラーフェはこれから先、その象徴たる役を担うことになる。
国政を担うには役不足である以上、むしろこの役に従じることこそに力を注ぐべきだろう。
「もっともそれこそイゾルテの狙いかもしれないがな」
「本音を言えば、受け入れがたいことではありますが、父上の死は次なる作戦のために布石ということですか」
父の命をついでのように扱われることは思うところはある。複雑に渦巻く感情と呼びかける声は内に抑え、思考を回す。
父の葬儀と継承の儀と予定が大幅に変わった状況では、どうしても警備に隙が生まれる。かといって、どちらも中止にすることはできない。
目的も判然としないまま、敵を迎え入れることになる。向かい合う二人の王子の顔はどちらも険しい色が浮かんでいる。
完全に後手に回ってしまっている。最悪とは言えなくとも、喜ばしい状況ではない。
「ユニス……?」
すぐ傍から注がれる視線に気づき、シラーフェはユニスを見た。
ユニスはシラーフェやフィル同様に険しい表情を浮かべている。険しい表情を浮かべながら、シラーフェのことをじっと見ていた。
名を呼ばれていることにも気付いていない様子にただならぬ空気を感じる。
「ユニス、何かあったか?」
「っ……いえ、何でもありません」
再度呼んでようやく気付いたらしいユニスは強ばった顔でそれだけ答えた。