77「反省会」 挿絵有
シラーフェは基本的に目覚めがいい方だ。目を開けて、体を起こすことに一切の支障がない。
ただ今日は目を覚ましても、体を起こす気分になれなかった。
じっとベッドの天井を見つめて、どれほど時間が過ぎたか。それを意識する余裕もなく、シラーフェの脳内では昨日の視察での出来事が反芻されている。
鼓膜を震わせるのは手合わせの後、何度も繰り返されたカナトの声だ。
『くそっ……くそくそくそ。俺があいつに負けた、だと。そんなことあるはずが……くそっ』
苛立ちのままに紡がれたカナトの声を聞いてしまっては自分の勝利を素直に喜べはしない。
剣の達人と謳われた兄を圧倒し、勝利を収めた事実が痛ましいものとして刻まれていた。
「俺の思いを証明するには必要なことだった。間違いだったと言うつもりはない……が」
果たして、自分のしたことは正しいことであったのか。
別れ際、カナトがこちらを見た目が忘れられない。赤目に込められた深い憎悪はルヴァンシュのものとよく似ていた。
まさか自分がそんな目で見られることがあるとは思っていなかった。
「自惚れ、だったな」
世界中、すべての人間から愛されているとは思っていない。
けれども、世界中の誰からも憎まれていないとそんな自惚れが自分の中にあったことを認める。
きちんと向き合って、話し合えば、相手が誰でも分かり合える。それは確かにカナトの言う通り夢物語なのかもしれない。
脳裏によぎるのは四〇〇年前の聖女、アルミダ・フォン・ルーケサウスの姿だ。
果たして、彼女と言葉を交わし、分かり合うことはできたのだろうか。話せば、あの惨劇が起こることはなかったのだろうか。
「……カナト兄上と分かり合うことはできるのだろうか」
剣を交えている間は分かり合える気がしていた。少しだけ兄に近付けた気が。
結局、以前よりも距離が空いた状態で二人の手合わせは終わった。
魔族と人族が分かり合える平和な世界の実現を示すために剣を交え、血を分けた兄弟とすら分かり合えないことを証明してしまった。今のシラーフェはどうしようもない無力感に苛まれている。
「結局、俺のやろうとしていることは……」
迷いが声に滲み、揺らぐ心が暗きものに撫でられる。
心が弱まった隙を突くように〈復讐の種〉が魔の手を伸ばす。
四〇〇年も積み重ねられた妄執が若人の甘さを嘲笑する。辛うじて残っている意思で、己を染め上げんとする意思に抗う。
諦めたわけではない。夢見る世界の実現が難しくあろうとも、この〈復讐の種〉のことだけは諦めるつもりはない。
「たとえ、夢物語であったとしても、譲れないものがある」
己を保つため、決して忘れてはならないものを思い起こす。花畑を背負う少女の微笑みがあって、犠牲になった少女の微笑みがあって、今まで関わってきた人々の顔が次々と浮かぶ。
描く夢が叶わぬものだったとしても、抱いた使命は忘れない。
「――シフィの譲れないものかあ。お兄ちゃんに聞かせてみ?」
ここにはいないはずの声がすぐ傍で聞こえ、咄嗟に体を起こす。
無理矢理に現実に引き戻された思考の中、見開かれた目でこちらを覗く人物を見る。
黄色を薄く帯びた白髪を一つに括り、貴族服をお洒落に気崩した美青年。おおっくの女性が夢中になる美貌は、シラーフェの反応を面白がるように笑み崩れている。
「くくくっ、いやあ、そこまで驚かれると忍び込んだ甲斐があったってもんだな」
「何故、ライ兄上がここに……?」
「ちょいと頼まれ事をされたんでな」
まだ理解が追いつかず、隠せない困惑に彷徨う視線の先でユニスが深々と頭を下げている。
「申し訳ありません。ベルフィア様に押し切られてしまい……」
「気にしていない。兄上が相手ならば、仕方あるまい」
王族が相手ではユニスも強く出られない。特にライは制止の声ものらりくらり躱してしまうお人だ。
シラーフェを害するような人でもないので、ユニスを責める意思はない。
「いいえ。たとえどのような理由があろうと許可もなく寝室に人を入れるなど、許されることではありません」
責任感の強いユニスは今回のことも己の失態と考えているようであった。
これにはシラーフェよりも、ライが苦い表情を見せる。
「そこまで言われるとオレもちょーっと罪悪感が湧いてくるというか、なんというか」
「ベルフィア様には是非反省していただきたいものですね」
「ユニスちゃーん、なんかオレに厳しくなってね?」
「気のせいです」
さらりと言ってのけるユニスの姿が少しフニートと重なる。やはり兄弟ともなれば似るものらしい。
普段からライに振り回されていることへの不満が注ぐ視線に滲んでいる。
「兄上、このような姿ですみません。すぐに支度を整えますので」
「ゆっくりでいいぜ。急に押しかけたのはオレだしなー。なんならお兄様が手伝ってやろうか?」
「一人でできますので。ユニス、兄上のお相手を頼む」
一礼で応えるユニスにライの相手を任せ、シラーフェは手早く身支度を整える。
ライの来訪という不測の事態の中でも、ユニスは万全に準備してくれたようだ。
元より身支度は早い方であるシラーフェはいつもより幾分か短い時間で湯浴みを済まし、ユニスが用意した服に着替える。
「――お待たせしました」
すでにライは部屋を移動しており、応接用のソファに腰かけていた。
ちょうどユニスがお茶を注いだところだったようで、落ち着く香りが部屋の中を漂っている。
シラーフェはライの正面に腰を下ろす。テーブルには軽食が並べられていた。
城内で出されることのない、下町の風情を漂う品々に眉根を寄せる。
「オレのおすすめ。店が開くにはまだ早いけど、用意してもらったんだぜ」
「そんなに早い時間から城下に行っていたのですか?」
「ってより朝帰りの方だな。ちょうどいいからシフィにお土産って感じ」
ライが朝帰りすることは珍しくない。王族の立場を思えば、護衛もつけずに城外で寝泊まりするなど、危険極まりない行為ではあるが、ライに限って言えば今更だ。
護衛をつけないことに関してはシラーフェも人のことを言える立場ではないので、意見は差し控えておく。
「わざわざありがとうございます」
ライに促されるままに一つを手に取る。
黒パンにハムと茹でた卵を挟んだもののようだ。城内でされるもののように一口大に切られてはおらず、シラーフェはそのままかぶりつく。
人によってははしたないと顔を顰めるところだが、城下での食事経験の多いシラーフェは今更気にしない。
「おいしいですね。塩味が絶妙で」
「だろ?」
唇についたソースを舐めとりながら素直な感想を伝えれば、ライは得意げに笑う。
「ここの看板娘がこれまた可愛くて……」
「それで、頼まれ事とは何ですか?」
ライの女性の話は聞かなくていい。これを言っていたのは誰だったか。
ネリスか、メリベル辺りだったか。ともあれ、シラーフェは兄の雑談に付き合うことより、その用件を明らかにすることを優先させる。
「シフィを呼んできてほしいって可愛い女の子に頼まれちまってさ」
話を遮られたことを機にする素振りもなく、ライは軽薄な様子で答える。
結局、女性の話であった。シラーフェには心当たりのない話であり、怪訝な視線を向ける。
シラーフェのもとを訪れる前は城下に下りていたようなので、そこで知り合った女性だろうか。
先程話に出ていた看板娘とやらの線もある。真剣に考え込むシラーフェをライは面白そうに見ている。
「答えは出たか?」
「いえ……俺にはまるで心当たりがなく……俺の知っている方ですか?」
「知ってる、知ってる。ちょー知ってるぜ」
やはり思い浮かぶ顔はない。
これでは女性に対してあまりにも失礼だ。記憶を掘り起こし、心当たりを探る。
ライはただそんなシラーフェをにやつきながら見るばかりだ。
「ベルフィア様、あまりシラーフェ様をからかわないでください」
「わりぃ、わりぃ。いやー、シフィの反応が面白いもんだから。ほんっとからかいがいがあるぜ」
「面白いでしょうか?」
「そゆとこ」
まったく自覚がないことに眉根を寄せる。
褒められてはいるようなので悪い気はしない。自分では面白みがないと思っていたので、素直に嬉しい言葉だ。
「ネタばらしすると、オレに頼んだのはネリスちゃんだよ。昨日ばったり会ってさ、シフィに伝言を頼まれたんだよ」
「ネリスのことでしたか」
確かにシラーフェのよく知る可愛い女性だ。先に城下に行っていた話を聞かされていたっこともあって失念していた。改めて考えれば、真っ先に出てきてもおかしくない名前だ。
「シフィに見せたいものがあるんだとよ。今日の朝、部屋まで来てほしいってさ」
「見せたいもの、ですか……。ライ兄上は何か聞いているんですか?」
「いんや。なんとなく予想はつくけどな」
流石、ライだ。
シラーフェにはまるで見当がつかない。昔から機微を悟るのは苦手なのだ。
聞きたい気持ちはあるが、ネリスはシラーフェが気付いていないことを期待しているかもしれない。妹の性格を思い浮かべつつ、状況に身を流すことにする。
「つーことでそれ食ったら、お姫様の部屋にご案内だぜ」
ライが用意したパンを食し、ユニスが入れたお茶を飲んで一息をついたのち、三人はネリスの部屋へと向かう。
ライがネリスに頼まれたのはシラーフェを呼ぶところまで。ただ暇なので最後まで付き添うと笑っている。
「そういや聞いたぜ。カナ兄と手合わせしたんだってな」
ネリスの部屋へ向かう道中、ライはそう口火を切った。
ライは変わらず笑っている。シラーフェは図星を突かれた気分で表情を曇らせた。
「お耳が……早いですね」
「そりゃもう、お兄様の情報網を甘くみてもらっちゃ困るぜ」
硬い声を出すシラーフェに対して、ライの声は軽やかだ。シラーフェの中に浮かぶ複雑な感情をまるで知らないと言わんばかりの調子で言葉を紡ぐ。
「騎士たちも噂してたかんなあ。手合わせとは思えない迫力だったってさ。シフィもすげぇ褒められてたぜ。よかったな」
「そうですね」
突発的な手合わせではあったが、騎士たちに喜んでもらえたのならよかった。
結果はどうあれ、そこだけよかったと思える。
「オレも見たかったぜ。惜しいことしたな」
シラーフェの心情とは真逆に紡がれる言葉に相槌を返すことしかできなかった。
二人目が交わされることはなく、シラーフェは下を向き、ライは前を向いている。
「カナ兄、容赦なかっただろ? 昔からそうなんだよな。あんだけ強いんだから手加減してくれてもいいのによ」
「カナト兄上は手加減してくだっていましたよ」
最初は手加減してくれていた。そこから徐々に速度をあげて、シラーフェを圧倒してカナトが勝つ。
そういう筋書きだったのだろう。シラーフェも負けじと食らいついた。そこまではよかった。
「シフィはカナ兄に勝ったこと後悔してんのか?」
「後悔は、してません。俺の……願いを証明するために必要なことでした。後悔はしていません」
勝ちたいと思って剣を振った。その結果、描く絵を相手に見事勝利を収めた。
己の願いを証明するために剣を振るい、勝てたのだから喜ぶべきなのだろう。
そこまで理解していても、晴れない心がある。耳にこびりついたカナトの兄がある。
「んじゃ、それでいいんじゃね?」
「ですが、カナト兄上は――」
「考えすぎ。シフィが勝ったのはシフィの実力だし、カナ兄が負けたのはカナ兄の慢心だろ」
実力と言われて、胸の奥底が震える。果たして本当にそうだろうか。
シラーフェが勝てたのは〈復讐の種〉の力があってこそだ。
胸の内で脈打つ種がシラーフェの身体能力が向上されたからだ。完全なシラーフェの実力ではない。
ああ、そうか。ずっとシラーフェが引っ掛かっているのは、悔しがるカナトを見て罪悪感が消えないのはそこだ。
「俺は……もっと、もっと強くなりたいです」
〈復讐の種〉の力など借りずとも、実力でカナトに勝てるくらいに。
そもそもうるさく主張する〈復讐の種〉を無視できるくらいに強くなりたい。
話の流れを無視したシラーフェの宣言に、ライは特に言及することなく、「おう。なれ、なれ」と軽薄に返す。
言葉の意味を理解しているか、怪しい軽さが不思議と頼もしく思えた。
「ライ兄上、お酒を飲まれていませんよね?」
「シフィ、こんなにも弟思いのお兄様になんてこと言うんだ。素面だっての」
不満を訴えるライに小突かれながら、小さく笑む。
ライと話しているうちに、身も心を軽くなった気がする。本当に不思議な人だ。
「いい顔じゃん。お姫様に会うならそっちのがいいぜ」
「兄上のお陰です。今日、ライ兄上にお会いできてよかったです」
「それ、女の子に言った方がいい台詞だぜ? ここで俺に言っちゃう辺りがシフィらしいけどな」
感謝を伝えるのに人を選ぶ必要があるのだろうか。疑問符を浮かべるシラーフェの肩をライが叩く。
「嬉しかったからいいとするか」
上機嫌なライは馴れ馴れしく肩を組む。
嫌な気はしないので振り払わず、好きにさせる。シラーフェたちはそのままの状態でネリスの部屋を訪れた。
ノックをすれば、高めの少年の声が返ってくる。今日はリーカスがいるようだ。
間もなく扉を開けた少女風の少年は肩を組む二人の姿に口元をにやつかせる。
「こんな朝早くから兄君様たちは仲良しですねえ」
「リカちゃんはこんな朝早くでも隙なく可愛いねえ」
「もちろんですとも。どんな時間であれ、一番可愛くが僕の信条ですから」
身に纏う改造されたメイド服は裾、髪の毛一本すら完璧に整えたリーカスは見せつけられるように胸を張る。
すぐに恭しく一礼し、仲へ入るように促す。
「ささ、お姫様たちがお待ちです。中へどうぞ。たっくさん褒めてあげてくださいね」
リカに先に譲られ、ライがそっと離れる。そうして一人、前に出たシラーフェを少女が迎える。
真新しいメイドで小さな体を包んだ少女が拙く礼をする。
不慣れが漂う所作でリーカスと同じように一礼し、少女は口を開く。
「ん。おはようございます」