75「去華就実」
目の前で繰り広げられる王族同士の手合わせを、ユニスを不安を膨らませながら見守っていた。
主、シラーフェの腕の自信がないわけではない。むしろ、シラーフェはアンフェルディア国内において指折りの実力者だろう。
経験が不足していることと、本人に自覚がないことが災いして、本来の実力が発揮されることは少ないが。
幼い頃、片鱗として覗かせていた剣の腕が今も健在であることは、カザードへの旅の中で幾度と目にしてきた。
不安定で、危うさこそあるが、シラーフェは剣の達人であると胸を張って言える。
ただ今回は相手が悪かった。
「従者も従者なら、主も主か。実力が分からないほど愚かだとはな」
ユニスとシラーフェ、双方に侮蔑を込めた言葉を投げかけてきたのはレナードだ。
現在、シラーフェと手合わせをしているカナトの影を務める青年だ。
常に侮蔑と嘲笑を向けてくる相手だけに苦手意識があり、無意識に身を固くする。
いつもなら反抗せずにいるところだが、その侮蔑が主に向けられては黙っていられない。
「愚かなどと不敬ですよ」
「敬うべき相手ならばきちんと敬っているさ」
言外にシラーフェには敬う価値もないと告げるレナードに流石のユニスも眉を釣り上げる。
「レナード、流石に度が過ぎています。従者の身で王族にそのような態度、許されるものではありません」
「ならば、お前が影を騙ることは許されることなのか?」
弱いところを突かれて、ユニスは息を呑む。主の優しさに甘えている今を指摘されてしまえば、ユニスは何も言えなくなる。
己の立場を弁明する言葉をユニスは持っていない。
許されないことだと他でもないユニス自身が思っているから。
「主の批判が許せないと言うのであれば、自分自身の在り方を見直すことが先だろう。お前のような存在が傍にいることの方が余程不敬だ」
返答がないことに気分をよくしたレナードはさらに言葉を重ねる。
優位性を保てている状況を誇って胸を張り、表情は自信の中に嘲笑を混ぜる。
嘲笑の先にあるのがユニスだけならばよかった。しかし、レナードの瞳はユニスを見ながら、シラーフェをも見ている。
「俺を責める暇があるなら、己の役割を返上するのが先じゃないか? お前が退けば、有望な影人が力を発揮する機会を得られるんだ」
ユニスがいるから影は不要だとシラーフェはもう何年も言い続けている。
その分、「ツェル」の名を与えられる影人が一人減っているのは事実だ。
「ツェル」の名は王族の数だけしか得られない貴重な称号である。多くの影人が焦がれるその座をまともに力も使えないユニスが居座っている。
ただえさえ、出来損ないと蔑まれていたユニスを憎らしく思っている影人は多い。「ツェル」の名を冠するレナードですら、才もなく今の地位にいるユニスへの憎悪を抱いている。それも無理はない。
レナードも含め、「ツェル」の名を持つ者たちだって努力なくして今の地位にいるわけではない。
ユニスの今は多くの影人の努力を踏みにじっている。理解していてなお、退く気のない心のなんと罪深いことだろう。
「そういえば、聞いたぞ。影人が謀反を企てているなどほざいているじゃないか」
謀反の話はまだ極秘情報の扱いだが、レナードは一族の中に手下として従えている者も多い。
すでに一族の中に調査の手は伸びているので、里に残っている者たちから話を聞いたのだろう。
王城で爆発騒ぎが起こったことは広く知られていることであり、レナードが独自に情報を集めていても不思議はなかった。
「影人の誇りを穢すだけじゃ飽き足らず、こんな言いがかりをつけるとは……不遜にも程がある。お前はどれだけ影の一族に泥を塗るつもりだ?」
「言いがかりかはまだ分かりません。叔母様が反旗を翻していることは事実ですので」
「はっ、それだって信じるに値するものか。出来損ないが気を引こうと躍起になっているようにしか見えない」
「そのようなことは断じてありません」
現状、イゾルテと直接話をしてのはユニスのみ。シラーフェやフィルは信じてくれているが、信頼以上に説得できる材料をユニスは持っていない。
それはレナードの考えを改めさせることができないことを示している。ユニスとレナードの間に信頼と呼べるものは欠片も存在しない。
口先だけの否定をレナードが受け取ってくれるはずもなく、鼻を鳴らすのみ。
「たとえ事実であったとしても、出来損ないが翻した反旗など、容易く燃えるものにすぎない」
その慢心が今の状況を招いていることを自覚なく、レナードは状況を軽いものとして扱う。
危険な油断をユニスが指摘したところで聞き入れてくれはしないだろう。
下手に噛み付いて主に迷惑をかけるわけにもいかず、口を噤むことを選んだ。
レナードの慢心を増長させる選択だが仕方がない。いつものように主を選び、諦念とともに捨てた選択肢を意識からも外そうとするユニスの横にふと影が差した。
「レナード、その慢心はあまりにも危険だ。主を思うのならば、慎みを持つことも肝要だ」
ユニスの横に立ったその人はモノクルの位置を直しながら、そう言った。
見開いた目で見つめるユニスのことなど気にもかけない様子で、理知的にレナードを見ている。
ユニスが意識にないのはレナードも同じだ。
同じく目を見開き、驚きで険の抜けた赤目をユニスの隣に立つ人物に注いでいる。
「爆発騒ぎはすでに起こっている王城に危険物が持ち込まれ、相手の目論見通りの結果を齎した。充分重く見るべき事柄だろう」
驚く二人の視線を意に介さない様子で彼は淡々と言葉を紡ぐ。
第一王子、フィルの影。影人の時期長にしてユニスの兄である人物、フニート・ツェル・ラァークである。
感情のままに交わされた会話とは対照的に冷徹な言葉を、視線を注ぐ。
「出来損ないと侮っていた過去があったからこそ、あのような暴挙を許すことになったんだ。あれは間違いなく我々の、一族の失態だ」
仄かに伏せられた目には強い自責の念が宿っている。
感情に駆られたものではなく、状況を理知的に分析した上に宿る自責。
その目が出来損ない虐げられてきた影人を見ていることをユニスは救いと受け取った。
「失態を知りながら、変わらず在るなど愚者の行い。理解はできるな?」
「……っ…は、い。はい。フニートの言う通りです」
王族相手にも不遜な態度を取ることのあるレナードだが、フニート相手では反論もできず頷くばかり。
次期長、それもあらゆる面において優れているフニートに歯向かえる者など、一族全体で見てもそういない。
込み上げるものを呑み込むレナードの姿は、フィルと相対しているときのカナトによく似ている。カナトとレナードはもっともよく似た主従である。
「分かっているのならいい。すぐに他者を侮る癖は改める方がいい。お前が足元を掬われるだけならばいいが、影の失態はそれだけに留まらない」
影は主のことを出されると弱い。不満を表情に滲ませながらも、反論できないレナードはただ殊勝なふりをして頷く。
レナードの内心を見抜いているのか、いないのか。理知的な光のみを宿す赤目はそっとレナードから外される。
「ユニス」
外された視線が向けられるのはユニスだ。
名を呼ばれるとともに向けられるフニートの瞳に反射で身を固くする。
フニートと相対するとき、緊張に支配されてしまうのは幼い頃に習慣づけられたことであった。
兄弟らしいことをした記憶はない。物心ついた頃から変わらず、大きく開いた距離のまま、字二人は視線を交わす。
「なんという顔をしている」
レナードを相手していたときと変わらない厳しさが注がれる。
想定を裏切る言葉に生まれるのは戸惑いだ。まさか、表情を真っ先に指摘されるとは思ってなかった。
てっきり己の力も弁えず、レナードに噛み付いたことを言われるものだと思っていた。
そんなにも自分は変な表情をしていただろうか。鏡のないこの場では確かめる術はない。
「すみま――」
「理解もしていないのは謝るな。お前の悪い癖だな」
「……っ…」
謝罪を遮った指摘に対する謝罪を咄嗟に呑み込んだ。
代わりに言葉を思いつけず、中途半端な呼吸のみが零れた。
「俺はお前を影として認めていない」
続けられた端的な言葉に零した息をすぐに呑み込んだ。
フニートがユニスを認めていないことばずっと前から、それこそ幼い頃から知っていることだ。
今更すぎる言葉にいちいち痛痒を覚える自分の頃が恨めしかった。
「多くの影人が同じ意見だろう。それでもマーモア様はお前を選んだ。フィル様のお気遣いを断ってなお、お前を選んでいる」
シラーフェが次期王に選ばれたことを機にフィルはシラーフェの影候補を複数人用意していた。
候補が纏められた書類を、ユニスはもちろんシラーフェすら目を通すことはなかったが、優秀な影人ばかりが名を連ねていたのは想像に難くない。
王になるならば、影は必須。欠陥品を連れていることは許されない状況でもなお、シラーフェはユニスを選んだ。
その罪深さをしていても、ユニスにとってこれ以上ない誉れであった。
「ユニス、お前がすべきなのはマーモア様の思いに応えることだろう」
「シラーフェ様の思いに……」
「マーモア様がお前を選んだことが間違いだったと周囲に思わせるな。非難などくだらないと切り捨て、己の価値を示し続けろ」
シラーフェの思いに応えられる存在であることはユニス自身ずっと思ってきたはずのことだった。
しかし、実際のユニスは己の欠陥にばかりに気を取られ、目立たないことに徹してきた。果たして、主の思いに応えているなんてとてもじゃないが言えるだろうか。
むしろ、その逆。誰よりもユニスがシラーフェの選択を疑っていたのではないか。
忠誠を誓う中に隠れていた疑心を、フニートの瞳は糾弾していた。
「欠陥品を選んだことがマーモア様の評価を落とすのではない。お前の在り方が評価を落とすんだ。お前はただ主の選択を信じて、己の道を歩めばいい。他者の言葉に耳を傾ける余地がどこにある」
揺れ動くユニスの心は有り得ないとフニートは語っていた。
主を信じること。それはフニートの中に揺るぎないものとしてあるものなのだ。
「価値を示せないのであれば、自らその座を辞退するべきだ」
「……っ…辞退は、しません。私は、己の愚かさを知りました。愚者として退くこと、それはシラーフェ様の評価を落とすことと同じ。主を落として退場することを私は私に許せません」
意思を表明するだけでは駄目だ。取り繕っていただけの今までと違うことを示さなければないい。
注がれる厳しい赤目に背中を押される気分で、深く吐いた息を吸う。
予定を変えて、ユニスがこの騎士団の視察に同行することになった理由。それこそユニスが差し出せる、何者にも引けを取らない価値だ。
「この詰所内、いくつか見て回りましたが、影の中に不審な気配はありませんでした」
影を纏うことも、影に潜むこともできない欠陥品の、出来損ないのユニスが他の影人に負けないと誇れる才――影の気配を感じ取る才能。
影に深い縁のある故、影人ならば皆、影の気配を感じ取ることができる。
その中でも、ユニスは群を抜いた完治能力を持っている。たとえ気配を潜めていても、影に潜む者を感じ取ることができる。イゾルテの侵入に気付けたように、広い王城内で隠された爆発物を見つけ出せたように。
フニートはユニスの返答に満足したように仄かに笑んだ。
珍しい兄の表情にユニスは呆気に取られる。すぐに笑みを消したフニートはわずかに眉根を寄せてユニスを見る。
「なんという顔をしているんだ」
先程と同じ言葉は先程とは違う色合いを持って投げかけられた。
「兄さんが笑った顔を見たのは初めてだったので」
「私だって笑うときは笑う」
端的な返答に含まれた感情に心が擽られる。初めて兄弟らしいやりとりをした気分だ。
和んだ空気を誤魔化すためか、咳払いをしたフニートは視線をユニスから外す。
切れ長の瞳と同じ道を辿って、ユニスもまた視線を主の方へ戻した。
「シラーフェ様……」
剣の達人と手合わせを行う主に対してもう不安はなかった。
ユニスはただ主のことを信じるのみ。己の意志を改め、向けた赤目を見開いた。
「この手合わせの間にすら、マーモア様は成長なさっている。従者が立ち止まっている時間などありはしない」
「そうですね……本当にそうです」
見開いた瞳に映し出されるのは、漆黒の剣を巧みに操り、カナトを圧倒しているシラーフェの姿であった。
手合わせの間、幾度と傾きを変えた形勢はシラーフェの方へ揺るぎなく傾いている。
アンフェルディア国内において、フィルやイグニくらいしか敵う相手はいないとさえ言われるカナトを相手に優勢を勝ち得てなお余裕を感じさせる。
シラーフェの剣の腕が優れたものである旅の中でも目にしてきたが――。
「ここまでとは……」
よく知るシラーフェとはまるで違う動きに、見ているだけのユニスですら圧倒される。
洗練されたカナトの動きを上回って剣撃は繰り出される。
シラーフェの動きはカナトに比べて荒の目立つものだ。それでも結果は上回る。
「そろそろ終わるか」
微かに捉えたフィルの言葉は実現され、銀色のものが弾かれた。
響く金属音を認識したときにすでに漆黒の切っ先がカナトに突きつけられていた。
「勝者、シラーフェンヴァルト・マーモア・アンフェルディア」
フィルの宣言に騎士たちの歓声が上がる。その裏でシラーフェは息を整え、カナトは屈辱に顔を歪めた。