68「移ろわぬ景色」
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龍の谷ミズオルムの話から始まり、カザード観光や水籃宮アトランティ、リントスの話とせがまれるままに語り聞かせて数時間ほど。
天から降り注ぐ陽光の傾きが変わるくらいの時間を過ごし、お茶会はお開きとなった。
ライは女性と約束があるとかで早々に城下へ向かい、ネリスはエマリの手を引っ張って庭の案内に行ってしまった。
ネリスとリーカス、自由な二人の勢いに押される形で、シラーフェはガゼポに残っている。
正面には同じく残されたリリィが変わらずの穏やかで座っている。
「今回の旅でシフィはいろんな経験をしてきたみたいねえ。顔つきも少し変わったみたい」
「そうでしょうか?」
旅の中でシラーフェの考えにも多くの変化が訪れた。
知らない世界を知り、様々な人の話を聞き、己の心と向き合う時間ができた。
確かにシラーフェは変わったのかもしれない。具体的に何がと説明はできないが、何かが変わった感覚が胸の内にあった。
「変わったわよお。かっこよくなったわ、前よりもずっとずっと」
己の変化を指摘されることに妙な気恥しさを覚えた。
落ち着かない気分を誤魔化すように、すっかり冷めた紅茶に口をつける。
「お姉ちゃんはちょおっとさみしくもあるけれど、あんまり我が儘は言えないわね。可愛い弟の成長は喜ばなくちゃね」
「俺は……これから先も姉上の弟です」
寂しそうに笑う姉の姿に堪らなくなり、思わず口をついた。
わざわざ口にしなくとも、シラーフェがリリィの弟である事実は変えようのないものだ。
ただ事実を口にしただけと振り返り、己の行動を内心で恥じる。自分は一体何を言っているのだろう、と込み上げる羞恥に目を伏せる。
この場にいるのがリリィとその影であるメリベル、そしてユニスだけでよかった。
少なくともネリスやエマリには、こんな気恥ずかしい姿を見せられない。
「ふふっ、とっても嬉しいこと言ってくれるわねえ。お姉ちゃん、幸せだわ」
リリィが喜んでいるのなら、シラーフェの羞恥心など大した問題ではない、と胸を落ち着ける。
「シフィはおねえちゃんの大切な弟のシフィ。当たり前だけど、とっても大事なことよ。私も覚えているから、シフィもちゃあんと覚えておいて」
赤い目が真摯に向けられる。
瞳の光は変わらず、和らぎ慈愛に満ちた瞳は優しくあって、シラーフェの胸中を見透かすようであった。
シラーフェの胸の内のすべて、魂を縛りつけている魔法すらも見抜かれている気がして、仄かに身を固くする。
自分が選ぶ道は、大切な人を傷つけるものという事実が罪悪感を連れてくる。
「ふふふ、緊張しなくたっていいわよ。お姉ちゃんはシフィが悪いことをしたときしか怒らないわあ」
「っ姉上は、どこまで知って……?」
「なあにんも知らないわ。お姉ちゃんは何も知らない」
あっけらかんと笑う姿があまりにも美しく、シラーフェは目を奪われる。
国一番と謳われる美貌が最大限の力を発揮し、心中に渦巻いていた感情を奪い去る。このときばかりは〈復讐の種〉の存在も忘れて魅入られた。
「だからね、シフィ。貴方が話したくなったら、またお茶会をしましょう。それまで待っているわ」
リリィは弟妹たちが戻ってくる場所を守ってくれているのだ。不意にそう思った。
幼い頃と比べても、お茶会の光景は大きく変わらない。視界に入る調度品も、庭の景色も、あの頃と変わらないままそこにある。
参加者たちが成長し、見た目の立場も、内面をも変えていく中で、このガゼボだけが当時の面影を残している。
気付いた事実はきっとリリィが守り続けてきたものなのだ。
過去を守るその姿に、後ろ向きな印象を受けないことが不思議であった。
「さあて、私はそろそろ部屋に戻るわ。シフィはどうするの?」
「俺はネリスたちを探します。まだ庭を回っているでしょうから」
まだそれほど時間は経っていないから、ネリスの庭案内はまだ続いていることだろう。
今はどのあたりにいるだろうか。王城の庭はかなり広い。
人探しをするには不向きな広さではあるが、ネリスからどこを案内するかは聞いているので、すれ違うことはないだろう。
「ネリスちゃんもすっかりエマリちゃんを気に入ったみたいね」
「身近に年下がいなかった分、はりきっているのでしょう。俺としても、エマリが心許せる人が増えるのは喜ばしいことです」
エマリがシラーフェの従者になってとて、常に傍にいてやれるわけではない。
立場上、エマリに手を差し伸べられない状況に陥ることもあるだろう。
そんなとき、エマリが頼れる場所は多いほうがいい。エマリをリリィのお茶会に連れてきたのは、そんな意図があってのことだった。
まさか、ネリスがあそこまで気に入るとまでは少々予想外であったが。
「エマリちゃんは大丈夫よ。あの子は強い子だわ」
年齢に見合わない覚悟を決めたエマリの強さは、シラーフェもよく知るところだ。
彼女はシラーフェよりもずっと強い。それでも心配になる心は止められない。自分は少し心配症なのかもしれない。
そんなシラーフェの心中を悟ってか、リリィが楽しげに笑声をあげた。シラーフェは訝しむ視線を向ける。
「シフィってば、エマリちゃんのお父さんみたいね。そうなると私はおばさんになるのかしらね」
笑声交じりの言葉は、シラーフェも少しばかり自覚のあることであった。
妹とも違う感覚で、シラーフェはエマリを見ている。それに敢えて名前をつけるとしたら、親子がもっともしっくりくる。
魔物の襲撃により、親を失った少女の父親の代わりを務めるという感覚が強いのだ。
「おばさんになるのは初めてだけれど、がんばるわ」
そんな頼もしい言葉を残してリリィは去っていった。華やかな雰囲気とともに、離れていく背中を見届けたのち、シラーフェもまたネリスを探して歩き出す。
十分弱ほど前にネリスがエマリを連れて行った道のりをなぞって進む。
それほど時間がかからないうちに女性の話し声が聞こえてきた。女性と称してはみたが、よくよく耳を澄ませてみれば、ネリスとリーカスの話し声であった。片方は男のものである。
賑やかに交わされる会話の中に、ぽつりぽつりとエマリの声も聞こえる。
さらに歩いて数分ほどで、親しげに言葉を交わす三人の姿を見つけた。
可愛らしい三人組が笑い合う姿は、花のない庭園に花が咲いたようであった。
緊張した面持ちばかりを見ていたエマリの顔に笑みが乗っていることに安堵する。
「ネリス、エマリ」
呼びかければ、三対の瞳が同時にこちらを向いた。
浮かべる表情は三者三様だ。ネリスは少し驚いた顔をしたのちに笑みを浮かべ、リーカスは特に表情を変えず平常運転。そして、エマリはこれまで浮かべていたものとは違う笑みを乗せた。
「シラーフェ様!」
表情が乏しいという評価を改めざるえない笑顔を浮かべ、小走りで寄ってくる。
少し離れていただけだというのに、長いこと離れていたような気分だ。駆け寄るエマリの頭を癖のように撫でる。
「本当にシフィ兄様のことがお好きなのですね」
エマリの後をゆっくりと追いかけるエマリは、分かりやすく不満をその顔に描いている。
親心を働かせる身としては、もう少しシラーフェ離れをしてほしい気持ちもある。
ただ親を失って間もない少女に、それを求めるのは酷であろう。
「勝てないとは分かっていても、やっぱり少し妬けますね」
「ん。ネリス様のこのとも好き、です」
落ち込んだ様子のネリスを気にかけ、エマリは頬を染めて告げる。
赤目を見開き、光を波立たせ、ネリスは表情を歓喜で彩る。地を軽く蹴り、エマリがそうしたように駆け寄り、小さな体を強く抱きしめる。
「はあ~、かわいいですわあ」
ネリスの強い抱擁にエマリが苦しそうな声をあげている。
「可愛いのは僕も認めますけど、あんまり強く抱きしめちゃダメですよぅ」
「わたくしとしたことが、ごめんなさい。エマリ、苦しかったですよね?」
「ん、ちょっと。でも、だいじょーぶです」
はにかみながら答えるエマリに、ネリスはまた歓喜に身を捩るも、先程のように衝撃的に動かない。
込み上げる衝動を息として吐き出したネリスは、深く息を吸い込んでシラーフェに向き直る。
数秒前の失態を誤魔化すように、ドレスの裾を直し、淑女の顔を取り繕う。
「シフィ兄様、ちょうどよかったですわ。兄様にご提案したいことがありますの」
ネリスの切り替えには敢えて触れず、視線で続きを促す。
「エマリから聞きましたわ。王位継承の儀までの二か月で従者として必要な技能を身につけるよう、フィル兄様から言いつけられているとか」
「ちょっと厳しい気もするけど、王族の傍にいるには必要なことですからねえ。中途半端は僕の美学的にありえないので、妥当ってのが本音ですけど」
庭を案内している間に、エマリに課せられた条件を聞いたのだろう。
幼い子供相手と思えば厳しく思える条件も、従者としての誇りを前にすれば評価が変わる。
王族の影として厳しい修業を幼少の頃から課せられているリーカスとしては、甘いという思いもあるだろう。
「短い期間で詰め込むのは大変でしょう? シフィ兄様がよろしければ、わたくしの礼儀作法の授業に一緒に参加してみては、と思ったのです。優秀な講師がつけば、覚えも早いでしょう?」
「ありがたい申し出だが、ネリスはいいのか? それではネリスの勉学の妨げになるであろう」
「ご心配には及びませんわ。わたくしももう立派な淑女。授業などと言っても、おさらいばかりですもの。可愛いエマリと一緒ならば、楽しみが増えるというものですわ」
どうやらネリスは礼儀作法の授業をあまり好いてはいないらしい。
シラーフェは特に苦に思ったことはないが、そういえばライも礼儀作法の授業は苦手だと言っていた。あの堅苦しい感じが得意ではないとか。
女性に特に細かな所作まで気を遣わねばならないので、気苦労も多いのだろう。
「ならば、甘えさせてもらおう。エマリもそれで構わないな?」
首肯で応えるエマリの顔を撫でつつ、ネリスの申し出を受けると告げる。
王族の指導を担当している講師ならば、信用も信頼もおける。ネリスが一緒ならば、シラーフェも安心して任せられるというものだ。
「お兄様も、これから忙しくなると思いますが、頑張ってくださいな。微力ながら、わたくしも力になりますわ」
シラーフェが王位継承するにあたって、ネリスなりにいろいろ考えていたのだろう。
エマリに向けていたものとは明らかに違う色を持って、ネリスはこちらを見ていた。
自分の立ち位置に迷い、それでも力になれる場所を探している。
誰の予想も裏切ってシラーフェが選ばれたことは、ネリスの中にも動揺を与えていたらしい。
「ネリス」
名を呼べば、赤目が微かに震える。
不安を映し出す妹へそっと歩み寄り、エマリにそうしていたように彼女の頭を撫でる。
リーカスがこだわって整えたのであろう髪型を崩してしまわないようには気を配った。
「もう、お兄様ったら……わたくしはもう子供ではありませんのよ」
暗いものを、子供扱いされることへの不満に塗り替えながらも、ネリスはその実をシラーフェへ預けた。
そっとかかる重みに成長をかんじ、「確かにもう子供ではないな」と小さく呟く。
「シフィ兄様は、王位を継いでも変わりませんわよね?」
「変わらずありたいとは思っている」
変わらない、とまで言えなかった。環境や立場が変われば、人は変わる。
得た経験が人を変える。それを身に染みて知っているシラーフェには、変わらない己を約束することはできなかった。
約束できるのは変わらずいたいと思い続けることだけだ。
「今はそれで納得して差し上げますわ」
囁くようにそう言って、ネリスはシラーフェから離れた。
改めてこちらを見るネリスの表情は毅然としており、不安の余韻を感じさせないものであった。
そこにネリスの強さを感じながら、真正面で向かい合う。
「情けない姿を見せてしまいましたわね。恥ずかしいですわ」
「他者を想って、憂う心を情けないとは思わない」
変化を恐れて震えていた瞳は、何もネリス自身の未来を憂いていたわけではない。
お茶会に兄弟が揃うことはなくなり、それぞれに責任が重くなり、何にも考えずに笑い合っていた時間は成長とともに失われていく。これもまた一つの変化であろう。
思えば、昔よりも笑う機会が減ったように思う。末の姫は誰よりも敏感に兄姉の変化を感じ取っていたのだろう。
そこに宿る不安は、兄姉の心の摩耗を思ってのことだ。
「兄心を言えば、もう少し頼ってくれてもいいほどだ」
「お兄様……本当に人を誑かすのがお上手なんですから。そのようなことを軽々しく、特に女性相手に言うものではありませんわ」
「何かおかしなことを言っただろうか……?」
シラーフェの問いかけにネリスとリーカスはそろって顔を見合わせ、ほとんど同時に息を吐いた。
シラーフェは気付いていないが、傍らに立つエマリも同じ表情をしていた。
「自覚がない以上、直すというものではないのでしょうけれど、シフィ兄様はそのままでいてくださいまし」
お茶会のときもそうだが、自分の話題のはずなのに理解する前に話が進む。
そのままで言われるくらいなのだから悪い話ではないのだろうと納得する。
「それがマーモア様の持ち味なんでしょうし、僕もそれでいーと思いますよ?」
「ん。ちょっと不満はあるけど、シラーフェ様はそのままがいい」
三人、共通の認識を確かめ合い、同じ表情で頷いている。シラーフェは一人、置き去りにされた気分だ。
この場で話に参加していないユニスへと目を向ける。その反応を確かめるために目を向け、眉根を寄せる。
「ユニス、何かあったか?」
一人、険しい表情をしていたユニスを不審に思って、問いかける。
そこで初めて我に返った様子で、ユニスは目を瞬かせてこちらを見た。
「いえ……何でもありません」
明らかに普段と様子の違うユニスに、何もないとは思えなかったが、敢えて追及はやめる。
きっと何かあれば、ユニスの方から言ってくるだろう。
「何かあればいつでも言ってくれ」
最大限の信頼を込めてそれだけ言うに留めた。