7「選王の儀」
アンフェルディア王国において、もっとも高貴な者が暮らすシュタイン城。その食堂にもっとも高貴なる兄弟が集まっていた。長兄フィルクリービア・ルシフィア・アンフェルディアを覗いた六人が各々の時間を過ごしている。
第一王女、リリアーナ・アスモディア・アンフェルディア。その影、メリベル・ツェル・ラァーク。
この場において最年長であるリリィは魔国一と名高い美貌を笑みで飾り、愛おしそうにその視線を弟妹に向ける。メリベルは騎士然とした様子で、リリィを席へとエスコートする。誰よりも絵になる二人である。
第二王子、スキラーニュアナ・サタニア・アンフェルディア。その影、ティリオ・ツェル・ラァーク。
リリィとはまた別種の穏やかな空気を纏うキラは、遅れて現れた弟二人を安堵した表情で迎え入れる。その後ろに控えるティリオは相も変わらず無言無表情で、何を考えているのか分からない。
第三王子、カナトイアータム・レヴィニア・アンフェルディア。その影、レナード・ツェル・ラァーク。
不機嫌に扉の方、遅れてきた弟を睨みつけるカナトは苛立たしげに席に着いた。レナードもまた扉の方を見遣って鼻を鳴らし、およそ従者らしくない高慢さを見せる。
第四王子、ライディアリオ・ベルフィア・アンフェルディア。その影、ソフィア・ツェル・ラァーク。
少々遅れたことになど気にも留めず、へらへらと笑うライ。酒気を帯びた姿に怒るソフィヤは、ライにからかわれてさらに怒りを露わにする。あれでいて他の主従と同じくらいには信頼しあっているのである。
第五王子、シラーフェンヴァルト・マーモア・アンフェルディア。その従者、ユニス・ラァーク。
ライと同じく遅れて現れた形となったシラーフェはキラへの謝罪もそこそこに、早々に席に着く。目立つことを嫌う主を尊重するようにユニスはただ付き従う。
第二王女、ネリーレイス・ベルゼビア・アンフェルディア。その影、リーカス・ツェル・ラァーク。
ネリスは誰よりも早く席に着き、上機嫌に笑顔を覗かせている。その後ろに立つリーカスは手鏡を見ながら、執拗に前髪を直している。末っ子らしいマイペースを感じさせる二人だ。
呼び出した張本人不在のまま、席に着いた六人のもとに食事が運ばれる。フィルが事前に指示していたのだろう。
「フィル兄さまはいらっしゃらないのですね、残念ですわ」
久しぶりに兄弟揃っての食事だと心から楽しみにしていたネリスは分かりやすく肩を落とす。
フィルは公務、キラはその補佐で、リリィは外交、カナトは騎士団の遠征に付き添い、それぞれ不在なことが多い。ライもライで出歩いていることがほとんどで、いつもいるのはシラーフェとネリスくらいだ。
いつもは空席が目立つ食堂の中に、今日は兄弟たちが揃っていると思うと感慨深いものがある。
六人揃っても窮屈さを感じさせない広さの食堂で、二人きりの食事というのは字面以上の寂しさがあった。
その日々を思えば、一人不在のフィルのことを惜しく思うネリスの気持ちも理解できる。
「呼び出した張本人がいないんだもんな。キラ兄はなんか聞いてんの?」
「俺は何も。兄上からはみんなを食堂に集めるようにしか言われていないよ」
てっきりキラは多少なりとも話を聞いていると思っていたが、本当に何も聞かされていないらしい。
しかし、この場にいる全員が感覚的にその理由を悟っていた。今、このタイミングで、フィルが兄弟全員を呼び出す理由など一つしか思い浮かばないのだから。
「遅刻してきた奴がいっちょまえにそんなことを気にするのか?」
「遅刻つっても、時間指定あったわけじゃねえだろー? 細かいことをネチネチ言ってっとモテねえぞ」
「低俗なお前と一緒にするな」
「カナ兄ぃ、オレのがモテるからって僻むなよ」
向けられる侮蔑を物ともせず、一切届いていないことを示すようにライは笑う。嚙みつかれようとも、中身を見せないライらしい笑い方に、カナトは苛立たしげに鼻を鳴らす。
シラーフェの記憶にある頃からずっと、この二人はこんな関係性であった。ここ数年はカナトの刺々しさがより強くなっているように見えるが、ライの態度は常に変わりない。
そのお陰か、二人のやりとりに険悪さはあまり感じられない。ライが上手く崩しているのだ。
「二人とも仲良くお食事しないとダメよぉ」
強さのないリリィがこの場を支配しているように思えるから不思議だ。柔らかな声一つで容易く主導権を握ってみせる。
「せっかくみんな揃っているのだし、楽しいお話をしましょう。そおねえ、みんな、今日はなにをしていたの?」
「俺はいつも通り兄上の手伝いですね。相も変わらず、書類の相手だよ」
「……俺は新しく入った騎士候補生の訓練の視察を」
「二人ともお仕事がんばって偉いわぁ」
表情を愛しさで崩すリリィ。食事中でなければ、キラやカナトに抱きつき、その頭を撫で回していたところだろう。
弟妹を愛し、それを全身で表すことに余念ないのが、リリィという人なのだ。
「わたくしは魔法の練習をしていましたわ。昨日よりも上達したんですのよ」
「ネリスちゃんもお勉強がんばってて偉いわぁ。後で練習の成果を見せてちょうだいね」
尊敬するリリィに褒められて、ネリスは上機嫌に最後の一口を口に入れる。舌先に広がる味が齎す至福も相俟って、愛らしい顔が笑み崩れている。
「オレは町ぶらしてただけだかんなあ。みんな、がんばっててすごいなー、ってくらいだぜ?」
「あら? ライちゃんも充分偉いわよぉ。そうやって繋がりを作るのも簡単じゃないでしょう?」
なんてことのない口調のリリィにライは少し目を見開いた。それから一拍ほど置いて、見慣れた軽い笑みを浮かべた。何かを隠すような笑みは少しだけバツが悪そうだった。
いつも飄々と中身を見せない態度を貫くライが素の表情を見せるのは珍しい。流石、リリィと言ったところだろうか。
「シフィは? 今日は何をしていたの?」
「俺、は……」
脳裏に過ぎったのはメイーナのこと。聖女となった初恋の少女のこと。この場で口に出せるような楽しいことはなく、続けるのに正しい言葉が分からない。迷うシラーフェはリリィは穏やかに見つめる。
形の整った唇が弧を描き、リリィはそっとナイフとフォークを置いた。赤い瞳は刹那、キラと視線を交わし、その唇は小さく息を吐く。
「みんな、頑張り屋さんでお姉ちゃん、うれしいわぁ。撫でてあげられないのが残念ね」
「後で好きなだけ撫ででやってください」
「あら、他人事みたいに言うわねぇ。キラちゃんのこともちゃんと撫でてあげるわよ」
嫣然とした異性を魅了する微笑みも、キラはただ弟として受け取って少し困ったような表情を見せる。
年長二人の助け舟にシラーフェは心中で感謝しつつ、小さく息を吐いた。
キラとカナトが最近の情勢について話し、ライがモテテクとやらを語り、ネリスが練習中の魔法についてリリィに聞く。シラーフェは時折話を混じりながら、ほとんど聞くに徹していた。
食事も終わり、呼び出した張本人も現れず、やや手持ち無沙汰な時間もまた談笑して過ごす。
いつになったら現れるのか。そんな考えが過ぎり始めた頃、父王が座しているはずの最奥の席、その後ろに掲げられた巨大な絵画が、音を立ててへこんだ。驚き、会話を止めた面々の注目を集めながら、絵画を起点に壁が二つに分かれ、扉が現れる。
隠し扉、その奥から長身の青年が現れる。橙を帯びた白髪の隙間から生えるのは漆黒の角。
精悍な顔つき、鍛え上げられた引き締まった体つき、それらから放たれるのは国の長たる者の威厳。
第一王子、フィルクリービア・ルシフィア・アンフェルディア。病床の父王に代わり、アンフェルディア王国の実権を握る人物である。
呼び出しておいての、遅い登場でもその姿を見れば、言及する口を閉ざざる得なくなる。
眼光鋭い赤目が集った弟妹を順繰りに見る。フィルの視線を受け、それぞれに身を固くする中でも、リリィだけは微笑みを絶やさない。
「遅かったわねぇ、お兄様も一緒にお食事なさればよかったのに」
「生憎、多忙の身でな」
短い返答を体現するようにフィルは早々に口を開く。体の向きをわずかに後ろの扉の方へ変えながら、
「地下室まで案内する。ついて来てくれ。影はここで待機するように」
有無を言わさない語調でそれだけ言って、フィルは踵を返して扉の奥へ進んでいく。シラーフェたちもその後に続く。扉の先は地下へと続く階段があり、魔法灯が淡く照らす中を下っていく。
あんな隠し扉があったことも、シュタイン城に地下が存在していたことも初めて知った。それは他の兄妹たちも同じようで、仄かな緊張感を孕んだ一行は無言のまま、階段を下りていった。
やがて広い空間に出た。奥に魔族の神、アポスビュート神を模した像が屹立している。
その前、豪奢の椅子に痩せこけた男性が座っている。アンフェルディア王国、現王ロワメーレウス・ルキファ・アンフェルディア、その人である。
病の影響を隠せもしない様相でありながら、その姿からも不思議と衰えを感じさせない。フィルも遥かに上回る威厳と風格を持ち、病で痩せた体が一回り以上大きく見える。
「座るがよい」
嗄れた声が低く紡ぎ、円形に置かれた椅子を示す。ライですら軽口を叩くことなく、促されるままに全員が席に着く。
中央に台座があり、黒光りする水晶が鎮座している。その水晶を目にした瞬間、胸の奥にある何かが疼いた気がして、シラーフェは微かに息を詰める。
「シフィ、どうし――」
「これより、選王の儀の始める」
シラーフェの異変に気付いたライの声に遮って、メーレ王が厳かに告げた。
たった一言で場の空気は張り詰めた緊張感を纏う。
呼吸すら躊躇う空間を支配するメーレは、その手を胸に当てる。苦悶し、呻き声を零すレウスの胸から何かが引き抜かれた。
全身が粟立ち、胸が圧迫される。角が震え、おぞましい気配に脳が警鐘を鳴らす。
あれは何だ。いや、あれは駄目だ。ここに、この世にあってはならないものだ。
存在を否定する心中に反して、シラーフェの魂が快哉を叫んでいる。
嗚呼。嗚呼。ようやくこの目で見ることができた。あれが欲しい。この胸に収まるべきだと本能が訴えている。
自分が自分以外に侵食されていく感覚。それはすでに何度か覚えのある感覚であった。
「これは〈復讐者の種〉だ」
「フリュズというと……ルヴァンシュ・フリュズ・アンフェルディアのことですか?」
問いかけたのはキラだ。
フリュズと聞いて、この国の者が思い浮かべるものは一つ、四〇〇年前に存在した王族、ルヴァンシュ・フリュズ・アンフェルディア。一〇〇〇年以上続くアンフェルディア王国の歴史に、汚名として名を刻んだ人物。
四〇〇年前、ルーケサ聖王国の奸計に嵌まり、領土の大半を失った張本人。挙句、和平条約を結ばれ、四〇〇年もの長い年月を過ぎても、枯れた土地に追いやられたままとなっている元凶。
人族を信じてはいけない、と語り聞かせる際に必ずと言っていいほど、名前を出される人物である。
人族のおぞましさ、非道さの証明たる人物の名前。それが王位継承の儀の際に出てきたのか。
嫌な予感を肯定するように、レウスの内から取り出されたばかりの黒い塊が大きく脈打った。
「ルヴァンシュ王が汚名としてその名を刻むと同時に、この地に産み落とされた種だ。歴代王の憎悪と命を養分とし、四〇〇年間育まれてきた。この種に選ばれし者こそ、次期王である」
掌に乗せた黒い塊を、メーレはさも素晴らしいもののように語る。見るもおぞましく、空気を濁すくらいマナを撒き散らすそれを、シラーフェはとても褒め称えるような代物には思えない。
今すぐにでも消えてしまった方がいい、と訴える理性を押さえつけて増幅する染められた本能。
おぞましい黒を、醜き憎悪を肯定してしまう自分にはなりたくない、と辛うじて残る理性で否定を重ねる。
「選王の儀を、始める」
先程よりも重い声に、黒い塊が大きく脈打った。
どくん。どくん。心臓を思わせるその蠢きに、シラーフェは釘付けになる。
必死に保とうとしていた理性が散り散りになり、赤い瞳は一心に心の塊――〈復讐者の種〉へ注がれる。
呼吸と種の鼓動が重なる。心臓の鼓動が――重なる。
「種よ、次なる宿主を選ぶがよい」
ぐにゃりとその姿を歪ませた種は一直線にシラーフェの許へと向かう。
避ける間もなく、いや、避けるという選択肢すら浮かばせず、種はシラーフェの中に吸い込まれる。
心臓が一際大きく跳ねた感覚を自覚した瞬間、
「っあ、あああっぐっ……あ゛あああああああぁぁぁあ、あっ」
激痛が全身を駆け抜けた。胸を押さえ、人目もはばからず、叫び声をあげる。
視界が激しく明滅し、耳は遠く、内側を暴れる存在に意識を奪われる。呼吸の仕方すら忘れ、己が立っているかも、座っているのかも分からず。
「受け入れろ。さすれば苦痛も快楽へ変わる」
遠くに聞こえるメーレの声が救いのように響く。その方が楽だ、と委ねたくなる。けれど。
脳裏に赤髪の少女が過ぎった。こちらを見つめる紫の瞳を思い出した。
視界を埋め尽くす美しい花畑があって、その向こう側から「シラン」と呼びかける幼い少女の声が蘇る。
最期の微笑みが浮かんで、それを失いたくないと願い、自我を崩す黒に抗うことを決める。
歴代王の思いなど知らない。四〇〇年前の無念など知らない。誰の憎悪も継ぐ気はない。シラーフェはシラーフェである。
否定を決意し、今もなお、シラーフェの中を暴れるものと向き合ったとき、意識が途切れた。