61「地下の術式、その真相」
巨大化したロキンの背に乗り、シラーフェとサクマ、ラピスの二人は頭上にある穴を目指す。
数倍の大きさとなったロキンの体は三人が乗ってもまだ余裕はある。
イルカの背に乗るのは初めての経験で、悪くないものだと一人感心する。ロキンが気を遣ってくれているのか、揺れも少なく、不安定感は薄い。
「すっげ、もうあんなに遠い……」
同じく、初体験を味わうサクマが興奮気味の声を零す。瞳まで輝かせる姿は幼い子供を思わせる。
無理もない、と同じ興奮を内に抱えるシラーフェは心中で同意を示す。
宙に浮くという感覚は龍の谷に次いで二度目の景観下ある。龍族の船、スキーズニズルとはまた違う感覚は、二度目と言えども違う感覚を届ける。
大きく表情には出していないものの、赤目はサクマと変わらない輝きを宿している。
「まったく、二人とも子供なんだから。こんなことではしゃいじゃって」
ロキンの上昇に合わせて、精霊石の光が近付いている。強くなる光に思わず目を瞑った刹那、ロキンがいっそう強く宙を蹴った。
一気に上昇した感覚があり、目を開けば美しい青の空間が視界を染めた。
思わず感嘆の息を零すシラーフェの横で、サクマが「すげぇ」と言葉を零す。
周辺のマナに反応して光を纏う精霊石は幾度目にしてもやはり美しい。
「ここまで来たらもういいかしらね。ロキン」
もうすでに地下空間は抜けており、三人はロキンの背から降りる。
三人が降りたことを確認したロキンはくるりと回り、元の大きさに戻った。
巨大化の際に使っていたと思われるマナが粒子となって散り、精霊石がいっそうの輝きを増す。
精霊はマナで構成されている存在だ。その体の変化も、本人や周辺のマナを変質させたものなのである。
ロキンの場合、自身のマナを変質させた上で、足りない分を周辺のマナで補っていたのだろう。
「ここからはあたしが案内するわ。キリキリついてきなさい!」
シラーフェが口を開くより先に、案内役としての役割に専念するようにラピスが声をあげる。
言うが早いか、先を行くラピスをシラーフェとサクマは慌てて追いかける。
青く輝く精霊石が示している通り、すでに青籃宮の中に入っているのだろう。迷いなく進むラピスを追いかけて、シラーフェは上へ続く階段をのぼっていく。
「うへぇ、全っ然先が見えねぇんだけど……これ、何段あるんだ?」
上を見上げても、終わりが見えない階段を前にサクマが弱音を零す。
龍の谷の地下で、終わりの見えない階段は経験済みのシラーフェは懐かしさの方が先立つ。
もっとも龍の谷は上りではなく、下りであり、最後はミグフレッドの力で一気に駆け降りる形となってはいたが。
水精の女王が住まう青籃宮へ続く階段、と非常事態が起こりようのない状況である分、落ち着いた心持でいられている。
「あんたねぇ、勇者なんだからこれくらいの階段、ひょいひょい上りなさいよ」
「宙に浮いてるヤツに言われてもなー」
常に浮遊しているラピスには長い階段など関係ない。
いつものように宙を泳ぐだけでいいラピスを羨む視線をシラーフェは注いでいる。
「神社の階段とか、こんな感じなんかね……」
「じんじゃ? とは何だ?」
「あーと、俺の地元、の神殿……みたいなもん、かな? 千段以上の階段があるとこもあるんだよ」
「ふむ……空が近ければ、神に近くなるという思想はこちらでもそう珍しくないものだな」
特に風の神、フィルドシルフを信仰する者の中では強く信じられている考えである。
マナ信仰や精霊信仰の中にも空――天を尊ぶ教えはある。
「や、そこまでは分かんねぇけど」
「ここは千段もないから安心しなさい。余裕よ、余裕。何のために加護を受けてるのよ」
「絶対にこのためじゃねぇだろ」
すでにそれなりの段数を上っているものの、サクマに疲労の色はない。
それは勇者に与えられているというエーテルアニス神の加護があらゆる身体機能を向上させる故のものだ。
サクマが零す弱音はほとんど精神的なものが理由である。
ちなみにシラーフェの方は、マナ濃度が高い場所は魔族と相性のいい場所であり、疲れにくいという副次効果を受けている状態だ。身体強化も施しているので、サクマよりも楽に上れていると言えるだろう。
「ほら、ほら! ちんたら歩いてたら女王が待ちくたびれちゃうでしょ」
先を行くラピスに急かされたこともあって、一行はそれほど時間をかけずに階段を上り切った。
シラーフェ、サクマ、共に疲労の色はない。
ラピスの言葉通り、千段以下だったのかまでは分からないが、龍の谷の地下よりも短かった体感だ。
「さあ、女王が待っているわ」
休憩もそこそこに、変わらずラピスの案内で水精の女王シャトリーネが待つ謁見の間へ向かう。
なんとなくラピスの顔が緊張を含んでいるように見える。女王と対峙することに緊張しているというより、己の失態への叱責を恐れているのだろう。
案内役を任さられておりながら、シラーフェとサクマを見失うという失態。あれは不可抗力であった、とこちらからも進言しようと心中で決める。
「――みんな、おかえりなさい。遅いから心配したわ。大きな怪我はなさそうね」
笑顔のシャトリーネは見送りのときと変わらない様子で三人と一匹を出迎えた。
何も知らない様子ではあるが、水が含むマナを通じて世界の事情に通じている彼女が、自らの領域で起こったことをまるで把握していないということはないだろう。
「さて、何があったか聞かせてちょうだいな」
内心を悟らせない笑顔が妙に恐ろしく感じられる。口調も表情も穏やかなまま、気迫を纏っている。
ラピスの緊張にあてられた心がそんな印象を抱かせるのだろうか。
「魔獣の活性化に関する調査、並びに原因の破壊、無事に完遂いたしました」
その後、青籃宮の地下に飛ばされたことを思えば、無事とは言い難い部分もあるが。
ただ同行した面々に大きな怪我もなく、青籃宮に戻れたことは間違いないので無事と称した。
「活性化の原因となっていたのは赤い石でした。浅学の身故、詳細までは分かりませんが、紅い石を媒介として、魔獣を活性化させる術式が行使されていたようです」
「んで、その赤い石を俺とシランで壊した。魔術は止められた、んだよな……?」
最後の最後、自信なさげに疑問符をつけるサクマ。破壊した直後に起こったことを思えば、魔術陣の停止を疑いたくなる気持ちはよく分かる。
そして発動した魔術によって、サクマとともに転移することになったシラーフェは、自信なくつけられた疑問符への答えを持ち合わせていない。
代わりに答えたのは、
「魔術はちゃんと止まっていたわ。残った余波を受けた魔獣はあたしが対処したわ」
場に残されることになったアピスであった。
発動した魔術に寄り、シラーフェとサクマが突然行方を晦ました衝撃はあっただろうに、精霊な対処は流石年の功か。
今も、先程見た緊張の顔を失くし平静さで、女王と相対している。
「そう。急なお願いだったけれど、無事に完遂してくれたようで嬉しいわ。今日は疲れてるだろうから休んでちょうだい――」
三人から報告を受けて、微笑んだままのシャトリーネが流麗に告げる。
上がった頬が濃藍の瞳を和らげ、慈愛を映し出す。
「――というわけにはいかないようね?」
悪戯めいた問いかけに知らず背筋が伸びる。シャトリーネから頼まれた調査の報告はほんのついで、と語る姿はシラーフェの心中を表しているようであった。
ここに来るまでの会話をシャトリーネが把握していてもおかしくはない。
「媒介の破壊後、転移魔術が発動したわ」
口火を切ったのはラピスだ。
真剣な面持ちで女王と向かい合い、隠し立てすることなく己の失態を明かす。
シャトリーネ相手では隠したところで無駄になる。潔い姿はラピスの責任感の強さを思わせる。
「魔術が発動することは誰にも分からなかった。そこに責があるというのであれば、媒介を破壊する判断した俺にも責はありましょう」
「そんでもって、一緒に破壊した俺にも責任はあります」
「……貴方たちの気持ちは分かったわ。ラピスと仲良くなってくれて嬉しくも思う。でもね、お咎めなしとはいかないの。精霊は自由な存在である分、最低限の秩序が必要なのよ」
精霊には精霊の世を守るために必要なきまりがある。これ以上は越権行為にあたる。
サクマに正体を明かしていない身ではあっても、シラーフェは魔王族、それも王位継承者であるシラーフェには心情だけを理由に無理を押すことはできない。
「大丈夫。ちょーっと厳しめにお説教するだけよ」
けれどそれは、感情で訴えても無駄という話とは違う。
シラーフェとサクマの意見を受け止めてくれる信頼が彼女はある。
「魔術が発動するとき、周辺のマナの状況はどうだったのかしら?」
「マナが掻き乱されてはいたけれど、あの手の魔術が発動するときは普通のことだわ。その裏で何かあったとしても、あそこまで乱されてちゃ、あたしにも分からないわね」
転移魔術のように空間に作用する魔術に周囲のマナにも大きな影響を及ぼす。
いくら高位の精霊と言えども、乱れたマナの中から詳細な情報を得るのは難しい。
失態を明かして間もないこともあって、ラピスは心なしが元気のない様子で答えた。
「強いて言うなら、使われていた媒介が変わったものだったくらいかしらね。一応、集めた破片は持ってきているわ」
言いながら、ラピスは指を鳴らす。その音に合わせ、赤い欠片をいくつも含んだ小さな泡が現れる。
媒介として使われていた赤い石を含んだ泡は、シャトリーネの傍まで浮遊する。
シャトリーネがそっと手を差し伸べれば、泡は割れ、赤い欠片が露わになる。
「これは……そうね。魔石にいろんなものを混ぜて、特殊な方法で加工したものね。一部の地域で好んで使われる者よ」
言葉を選ぶようにシャトリーネは紡いだ。一部の地域と暈してはいるが、それは間違いなくルーケサのことを言っているのだろう。
気遣いを纏うシャトリーネの様子と、四〇〇年前の記憶で見たものを照らし合わせて確信に近い推測をする。
ラピスが持ち帰った赤い石はこの海が――水精の女王が支配する領域が晒された脅威の元凶を指し示す証拠となる。
ルーケサは、大国であるカザードだけではなく、水精の女王まで敵に回すことになる。
いくら勇者を召喚したと言っても、一人の強者では立ち打ちできる相手ではない。
内心を読み取らせない美貌がルーケサに対してどう考えているのが問いたい気持ちはあるが、サクマがいる手前、口を噤んだ。 わざわざ暈していた以上、ここで問いかけたとしても、シャトリーネは答えないだろう。
「転移魔法が発動した理由は分からないままです」
「転移先は青籃宮の地下だったわね。そこで何か変わったことはあったのかしら? 聞かせてちょうだい」
マナを通じて把握しているとは言っても、広大する領域のすべてを細かく把握しているわけではないのだろう。
続きを求める声に応じて、シラーフェとサクマは転移された後のことを話した。
周辺の魔獣を倒しながら進んで先で、ゴーレムに遭遇し、二人で打ち倒したこと。
「ラピスがもとに戻るとは言ってたけど、俺ら、核を破壊しちまってて……」
「うちのゴーレムはロキ、地の神が造った特別製だもの。大丈夫よ。一応、後で私の方でも確認しておくわ」
ゴーレムの破壊に対するお咎めはないようで、二人それぞれに胸を撫で下ろす。
サクマは分かりやすく体を弛緩させ、シラーフェは心中で息を吐く。対照的名反応を笑うようにシャトリーネは口角をあげる。
「ゴーレムは倒したってことはその先の部屋にも行ったのね」
「やはり、ゴーレムはあの部屋を守っていたんですね」
ゴーレムが何を守っていたのかはシラーフェの中にあった疑問の一つであった。
あの部屋に守るべきものがあるようには見えなかった。けれども、ゴーレムは確かにあの部屋を守っていた。
ゴーレムを配置した張本人であるシャトリーネならば知っている、と赤目を真摯に向ける。
雰囲気の変わったシラーフェの眼差しを、シャトリーネは和らいだ瞳で受け取る。
「シャトリーネ様……あの部屋、あそこに描かれていた術式はどのような効力を持つものなのでしょうか?」
もっとも気になっていた疑問をぶつけた。
シラーフェに四〇〇年前の記憶を見せた者の正体と、その理由を知りたかった。あの魔術に一体、何の意味があったのか知りたい。
「残念だけど、あの術式の効果は私にも分からないわ」
「あの部屋はシャトリーネのもんなんすよね? シャトリーネ様が組んだ術式じゃないんすか?」
まさか、シャトリーネも知らないとは思っておらず、その返答に呆気に取られる。
知王を一時白で埋めたシラーフェに代わってサクマが問いかける。
「あの術式はエニスが組んだものよ。あの部屋も、エニスに頼まれて、私が預かっているの」
思わぬ告白に再度、シラーフェは呆気に取られた。
今回ばかりはサクマも驚きを露わにしており、見開いた目で凝然とシャトリーネを見つめている。
「女王なら術式を読み解けるんじゃないの?」
「そうね。でも……する気はないわ」
「どうして?」
「あの子が残したもの、その想いを不躾に触れることはしたくないの」
エーテルアニス神――古い友人へ深い情を注ぐシャトリーネを見れば、意思に背く行為を頼むこともできない。
あの術式の意味は分からずとも、記憶を見せた者の特定はできた。より謎が積み重なったとも言えるが、大きな収穫ではあろう。
「もっとも、あの術式を読み解くことにあまり意味はないでしょうけれど」
「それはどういう……」
「あの部屋にはいくつもの紋様が描かれているわ。それは貴方たちも見たでしょう?」
床、壁、天井に至るまで刻まれた奇怪な紋様。術式の知識を持たぬ者が見れば、細やかな意匠と見間違うほど、隅々まで空間を飾り立てていた。
「マナを流す順番によって、様々な魔術が発動するようになっているわ。部屋の中にある彫像が中心になっているはずよ」
言われて、意識を失う前の状況を思い出す。
シャトリーネの言葉通り、二神の像を中心に空間内の紋様に光が灯った。美しい光の景色に魅入られているうちにシラーフェは意識を失ったのである。
「術式の発動は誰にでもできるものなのですか?」
「いいえ、エニスにしかできないはずよ。同格の存在なら、介入できるでしょうけれど、術式の中身を知らないんじゃ、そんなことをする理由はないはずよ」
道理である。あの魔術を発動し、シラーフェたちに四〇〇年前の記憶を見せたのは、エーテルアニス神と考えた方がいいだろう。
その事実はシラーフェよりも、傍らにいる異世界の少年に大きな衝撃を与えるものであった。