幕間「トラスト・ツェル・ラァーク」
引き裂かんばかりに絶叫に揺り動かされ、トラストは目を覚ました。
無理矢理に起こされた故、茫々とした意識が時間をかけて状況を理解し、震えた意識を零した。
今回、アンフェルディア王国とルーケサ聖王国の和平条約の調印式のため、トラストは主であるルヴィとともにルーケサを訪れた。聖王からの正体を受ける形で、国境近くにある町を訪れたのだ。
もてなしは盛大ながら調印式自体は密やかに行われ、その差に訝しんでいるうちに、何者かに意識を奪われた。
気を失ってどれだけの時間が流れたのだろうか。目を覚ましたとき、一変した状況にトラストは強い後悔を抱いた。
「っ私は……なんという失態を」
状況のすべてを理解したわけではない。
しかし、聞き間違えようもない主の絶望声だけで、己の愚かさを後悔するには充分であった。
ルーケサを、敵国を訪れる以上、最大限警戒すべきだった。そもそも来訪すること自体、真剣に吟味するべき事柄で合ったはずだ。
調印式の話が出たとき、何故自分は忌避感の一つも抱かなかったのか。
主の思いがどうあれ、守護者たる身としてあらゆるものへ警戒を抱いて然るべきであったのだ。
それが欠片の警戒も抱かず、来訪を許してしまった怠慢は何よりも罪深い。この恐ろしい状況を生み出した愚かさに打ち震える。
「なんだよ、目を覚ましたのか、トラスト。ある意味、良いタイミングだぜ」
親しげに話しかけるアッシュは邪悪に笑いかける。透き通るようとセニアが称していた碧眼は状況を楽しむようにトラストの視線を誘導する。
慟哭を響かせる主、ルヴァンシュ・フリュズ・アンフェルディアの方へと。
ルヴィの手には血に濡れた剣が握られており、傍らにはセニアと思われる遺体が倒れている。身に纏うドレスや体格からセニアだとは分かるが確証を得るための頭部がない。
首から先が斬り離されており、主の剣が血濡れている事実に嫌な予感を過ぎらせる。
視線を少し動かせば、リスティがあられもない姿を晒して倒れており、トラストは己の無力さを痛感する。
同時に目の前で笑う邪悪への憎しみが奥の底から絶えず湧いて出てくる。
「アッシュ、イアン……アッシュ・イアンっ‼」
睨みつける赤い目を涼しい顔で受ける金髪碧眼の青年。かつて主の友人の座にいたはずの男は、見る影もない邪悪な有り様を晒している。
今まで我々を騙していたのかと思うと激しい感情が奥底から湧いてくる。普段は冷静に努める心は取り繕う余裕もなく、感情を剥き出しにする。
「アッシュ・イアン‼」
「うるせぇな。そんな何度も呼ばなくても聞こえてるっつの」
感情のままに叫ぶトラストの意思に応えて、アッシュの傍に影がうねる。影人の力により操られた影は鋭利さを持ってアッシュに襲い掛かる。それをルーケサの勇者は一瞥すらくれず、剣で弾いた。
「たかだか影ごときがオレ様の相手になるかよ。そこで寝とけ、役立たず」
影を弾いた姿勢のまま、アッシュは聖剣を振るう。軽い一振りから放たれる剣圧を、トラストは己の影を縫い留めることが吹き飛ばされまいと必死に耐える。それこそアッシュとトラストの差であった。
耐えることしかできないトラストへ、それ以上興味を向けることなく、アッシュは聖剣をルヴィへと向ける。
「無能は主が無様に死ぬ様子でも見とけよ。お似合いだぜ?」
吐き捨てられた嘲笑を最後にトラストは再度部外者の位置を押しやられる。
怒りを燃料に己を奮い立たせるものの、先程の剣圧が効いているのか、膝は折れたままだ。
肝心なところで役に立たない情けない自分自身に、相手に向けるものよりも強い怒りを注ぐ。
「なんで……私は、こんなにも…っ……ルヴィ様っ」
悲嘆に囚われた主を祈るように見つめる。守るべき相手の盾にもなれう、容易く気圧された身を歯痒く思う。
ルヴィへ、純白の剣をきらめかせるアッシュは複雑に笑う。
「セニアと同じ場所に逝かせてやるよ」
「……まが、貴様がセニアの名を軽々しく口にするな!」
純白の剣閃が弾かれる。赤目に暗い光を強く宿したルヴィが、セニアの血に濡れた剣を構えた。
一心に向けられる憎悪を楽しむようにアッシュは口の端をあげる。
剣を構え向き合う二人の姿は幾度と目にしてきたものである。アッシュの表情だけ見れば、親しき者として重ねた手合わせのときと変わりなく思える。
光を鮮明に映し出すアッシュとは対照的に濃く闇を映すルヴィがかるてを黒く塗り潰す。
「殺す……殺してやるっ!」
聞いた事もない声で吠えるルヴィが地を蹴る。剣を汚すセニアの血を散らしながら、憎しみに満ちた剣撃をアッシュへ振るう。
「貴様を殺す! 貴様も……そこの女もっ! ルーケサの者は残らず、根絶やしにしてくれる!」
「ははっ、威勢がいいな」
アッシュの態度だけが記憶の日々と変わらず、胸を複雑にさせる。
かけ離れた状況を生み出した張本人の変わらなさは実に不器用なものがある。
憎しみのままに振るわれるルヴィの剣をアッシュは易々と受ける。かつての手合わせを思い出す態度で、殺意を宿した剣撃を巧みに捌く。
甲高い音を激しく響かせながら、手合わせとは違う剣の交わりが繰り広げられる。
ルヴィはひたすらに怨嗟を吐き出し、アッシュはただ笑みを零す。
対照的な表情を見せる二人の剣舞はそう長くは続かない。結局のところ、ルヴィの剣はアッシュには届かない。
追い縋るような剣撃の隙を達者に見抜き、聖剣は次々にルヴィの身を赤く彩る。
聖剣が右足の腱を裂き、ルヴィは膝をつく。力の入らない足を無理にでも動かそうと力を込めるルヴィを嘲笑するようにアッシュがルヴィの肩を貫いた。
そのまま、アッシュは空いた方の手でルヴィの体を押さえつける。馬乗りの状態になってようやく肩から抜かれた聖剣に、ルヴィは苦悶の声をあげた。
「これで終わりだ」
「終わりなど……来ぬ。たとえ、この命尽きようとも、我が怨嗟が、この身を焦がす炎が必ず貴様らを燃やし尽くす。それまで終わりなど、永劫に訪れはせぬ」
燃え盛る憎悪を宿す赤目に、血濡れの白剣が冴え冴えと映し出される。
終わりを齎すために振りかぶられた剣の輝きを、トラストは不吉な者として映し出す。
ここで主を終わりにするわけにはいかない。情けない身を奮い立たせる心に応えたのか、ルヴィは力任せに振るった剣で政権を弾き飛ばす。
力の入らない手での咄嗟の一撃で、ルヴィの握る剣もまた宙を走る。
甲高い音とともに二本の剣が舞い、二人は無手で向かい合う。
「はっ、油断したぜ。まさか、あの無能に邪魔されるとはな」
「トラストは……我が影は無能ではない。相手の力量すら見抜けぬとは愚昧な目を持っていることよ」
ほとんど間もなく返された主の声。鼓膜を震わせる音はトラストにとって何よりの誉れであった。
快く思われていないことは自覚しており、嫌われてさえいると思っていた。それが思わぬ評価を受け、場違いにも目頭が熱くなる思いを抱える。
「言ってろ」
嘲笑で一蹴するアッシュは主従の間に通う想いなど気にもかけない。
武器を失ってなお、優位な立場は変わらないアッシュ。その手をルヴィの首にかける。
ゆっくりと人族とは思えない膂力で絞めあげられる首。呼吸器を圧迫される苦痛を零しながらも、ルヴィはその目で真っ直ぐにトラストを見つめていた。
「……っ…トラスト、命を……下す」
絶え絶えの呼吸の中でルヴィは告げる。魅入られるように主の最後を見つめるトラストの内にその声は重く響。
何ものにも代えがたいものとして、一音も漏らない思いで傾聴する。
嫌な音を立てて、ルヴィの音が圧し折られる。瞬間、その体から黒いものが溢れ出る。
突然のことで避けることもできないアッシュを呑み込み、黒い霧は広がっていく。
「これが……ルヴィ様の遺志ですか」
広がる黒霧はセニアとリスティを呑み込んで、傍まで流れてくる。トラストは呆然と手を伸ばした。
馴染みのある気を触れた指先から感じ取り、類稀な宝物として胸を抱く。
黒霧は生き物を思わせる動きで、やがてトラストの手の中に集っていく。蠢くそれを抱く掌の中で形を成すのは黒い種であった。
生み出された種をそっと見つめ、トラストは主の遺志を紡ぐ意思を瞳に宿す。
もう己を奮い立たせる必要はない。
「アッシュ、そこの羽虫もついでに潰しておしまいなさいな……アッシュ?」
立ち上がるトラストを見たアルミダは吐き捨てるように命じ、返ってこない応答を訝しむ。
眉根を寄せた瞳を勇者の方へ、すぐに険を宿してトラストの方へ戻した。
「貴方、いえ、そのおぞましい物体かしら? アッシュに何をしたの?」
勇者アッシュ・イアンはルヴィの憎悪から生み出された黒霧に呑まれた後遺症に苛まれている。
頭を抱えて蹲り、喘ぐような言葉を零している。悪夢でも見せられているのか、要領を得ない言葉ばかりが漏れ聞こえる。
トラストの興味は地に伏す勇者にはなく、零れる言葉をいちいち拾う気もない。
「勇者のことなどどうでもいい。私は私の役目を果たすのみ。貴方がたが出る幕はない」
惨劇を生み出したアルミダとアッシュの憎しみは絶えず燃えている。しかし、トラストには主から授けられた命令がある。
肝心なときに何もできない不甲斐ない身が、何のためにここにいるのか。
名誉の挽回よりも、主の思いに応えることこそ使命と、トラストはアルミダと向かい合う。
改めて見れば、警戒を抱かずにはいられないほどに怪しい女。何故、こんな女に気を許してしまったのか。
「どうする気? 私を殺すの? それともアッシュと同じように心を犯して弄ぶのかしら」
「これ以上、言葉を交わすつもりはない。もう二度と貴方の術に嵌まる気はありません」
勇者に対してそうであったように、聖女への興味も最早ない。
胸に抱く主の遺志だけが唯一心に留めるものとして、トラストは己が持つ影人の力に呼びかける。
影人だけが扱える、影に干渉する魔法。己の影を体の一部として、含むマナに命令を下した。
「影よ、ルーケサの者どもを縫い留めろ!」
それは一時、アッシュの動きを止めた技であった。
トラストの影が含むマナが地面を通し、他者の影に染み出して動きを縫い留める。
長くは持たないが、トラスト一人がこの場から逃げ延びるには充分な時間は稼げる。
十数秒程度の静止の時間を利用し、マナ強化した体が駆ける。
たった十数秒ではルーケサの地を出ることまでは叶わない。この調印式会場を出る事だけを目的として、血を蹴る足に力を込める。
「弱虫」
背中に聞こえるアルミダの侮蔑の声。這うように鼓膜を震わせる声を、トラストは内心で肯定する。
そうだ。トラストは弱虫だ。肝心なときに何の約にも立たない。弱くて、情けない存在である。
調印式のために形ばかりに設営された会場を抜ける。影の気配を読み取り、人が少ない方を目指して走る。
ヒューテック領、特にルーケサで魔族の姿は目立ちすぎる。普通に歩いていてはすぐに追っ手に気付かれてしまうだろう。
ただトラストは影人だ。普通ではない方法で移動することができる。
人目のない場所で一度身を潜め、近場の影の中に潜む。
影人だけが使える影に纏わる魔法の中に影と同化するというものがある。アンフェルディアの諜報部隊が得とする魔法を、トラストは移動のためだけに使う。
影から影へと移ることで、身を潜めた状態でアンフェルディアへと戻る。
影人とし不出来なトラストがどこまで持つのか、賭けの要素が強いものだが、完遂するという気概だけはある。
たとえ、この身が尽きようとも、主の最期の命令を完遂するという覚悟がある。
「皮肉なものだな……リスティ」
呟くのは、トラストが抱える主の遺志に呑まれて消えた幼馴染の名前である。
トラストの親世代は子に恵まれず、同世代の影人は少なかった。その中でも王族の影、「ツェル」の称号を得るに足る人材はトラストとリスティくらいのもので、自然一緒にいることが多かった。
リスティは優秀な女だった。普段はおっとりと構えて、気儘な振る舞いばかりを見せる自由人だと言うのに、何をやらせても人並み以上の結果を残す。一族の大人たちはみな、リスティばかりを評価していた。
トラストは努力を重ねて、ようやく結果に繋がる性質の人間であった。
劣等感はあった。リスティの気儘さを恨めしくも思っていた。けれど、それ以上に憧れであった。
「優秀なお前が死に、私が……俺が一人だけ残ることになるとは考えもしなかったよ」
殺しても死なないような人だと、彼女だけは強かに最後まで残っているだろうと思っていた。
元々ルヴィの影になるのはリスティであった。第一王子、王位継承者の影ともなれば、勇者の方が選ばれるものだ。
トラストもそれが当然と、悔しいとすら思わなかった。それなのに。
『私は可愛らしいお姫様に使えると決めているので、ごめんなさいねぇ』
大人たち相手に悪びれもせず、そう言い放ったリスティのことを今でもはっきり覚えている。
あまりにもはっきりと断るものだから、トラストの方が大人たちの反応への不安を募らせたものだ。
結局、大人はみな、リスティの意思を尊重し、ルヴィの影にはトラストが選ばれた。
同性の方がなにかと都合がいいなんて話だったように思う。その後、リスティがセニアの影となり、腐れ縁の日々は続いた。
悪くない日々であった。良い日々であった。もう存在しない幸福な日々を思い起こし、途中で加わる金髪碧眼の青年の姿に疼く憎悪とともに懐古は断ち切った。
トラストの内に燃える感情に呼応して、胸に抱えた主の遺志が脈打つ。心臓を思わせる拍動に似ている。
第二の心臓とも言えるそれを大切に抱え、重なる思いにより一層使命感を燃えがらせる。
「ルヴィ様」
初めて見た印象は幼く無垢で、優しい方であった。月日が流れても、その印象は変わらない。
いつまでも幼さが消えず、夢見がちに世界を見る主の姿は庇護欲を掻き立てるものであった。
変わらず成長することを願い、立場や周囲がそれを許さないことに歯噛みしたものだ。
どうにかルヴィの評価を改めたくて、あの方がどれだけ素晴らしいのか知ってほしくて厳しく接していた時期もある。
あの頃は思いが空回ってばかりで、思い返すだけでも気恥ずかしい。
王位を継ぎ、否応なく大人にならざる得なかった今を思えば、あの頃だけでも幼い心を守っていればよかった。
思い返せば、後悔は尽きることなく湧いてくる。
「……どこで間違ったのだろうか」
たった一人残ったトラストは込み上げる感情で声を震わせる。
影を伝い、アンフェルディアを目指す心は真っ直ぐに最期の命令へと向けられている。
もっとも幸福だった時間を共有する三人の遺体も呑み込んだ黒い塊を胸に抱いて。
「どうすれば、あの日々はもっと……」
どれだけ使命感で塗り潰そうとも、喪失感は消えず、後悔ばかりが口をつく。
足りない己が身を呪い、幸福がいつまでも続く未来を願い、すべてを壊した存在への憎悪を膨らませる。
忌まわしき勇者の事を思い出す。おぞましき聖女の事を思い出す。
抱える黒い塊にトラストの思いをも焚べ、この先の未来に思い馳せる。
「ルヴィ様の遺志よ、〈復讐の種〉よ、どうか……」
最後の願いは口にはせず、主が生み出した種へ注いだ。




