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魔王に花束を  作者: 猫宮めめ
第3章
59/88

58「七花八裂」

 それは水に落ち、溺れる感覚に似ている。必死にもがいて水面を目指すが、纏わりつく何かが四肢の動きを邪魔する。それでも必死にもがき、シラーフェは闇の中を上へ上へ目指す。

 苦悶を表情に描きながらも、諦めることを知らないと必死に腕を動かした。


「っは……」


 どれだけの時間もがいていた頃だろうか、不意に闇を抜けた。


 纏わりつき、動きを阻害していたものが急に消失し、全身が軽くなる。

 突然の光に目を瞑り、再度見開いたときには景色は一変した。戻ったという表現の方が正しいか。


 一時的な空白の時間を経て、シラーフェの視界はルヴィのものに再度重なる。


 途切れる前、ルヴィがアルミダと話していたところまでは覚えている。

 あれからどれだけの時間が経ったのか。最後の光景とはまるで違う景色、それこそ一変している。


 宵闇に包まれていたはずの世界が、眩しいくらいの陽光に照らされている。

 場所もシュタイン城から見覚えのない地に変わっている。そもそもアンフェルディアではないようだ、と視界に収まる景色の雰囲気にそう結論付ける。


「ルヴィ様、どうなさいましたの?」


 纏わりつくような甘い声が不気味に鼓膜を震わせた。

 耳の中を虫が這っているような不快感が駆け抜け、ルヴィは反射的に声の主を見た。

 ただ唯一、視界が途絶える直前と変わらぬものとして、ルーケサ聖王国の聖女アルミダ・フォン・ルーケサウスがそこにいた。


「ほら、早くそこに署名を」


 嫌に艶めかしいことに促され、何気なく手元に視線を落とす。

 大仰な台の上に乗る書類の文言に目を通し、驚きを露わにする。


 アンフェルディア王国とルーケサ聖王国の和平条約の文言が目の前にある紙に綴られている。


 その文言は、和平とは名ばかりの不平等条約であった。

 アンフェルディアはルーケサに領土の大半を差し出したのちに壁を築き、互いの土地を不可侵領域と定めること。

 そして、ルーケサでのアンフェルディア国民の奴隷売買の許可など、アンフェルディアが不利となる文言が並んでいる。


 まともな精神状態であれば、まず署名するわけがない条件である。

 事実、ルヴィの手は署名をする直前で止まっている。それをアルミダが不思議そうな顔で覗き込んでいる。


 魔性の瞳がルヴィの瞳をじっと見つめ、瞬きをした。色っぽく息を零す。


「あら、術が解けてるわね。流石、魔に魅入られた種族なだけあって耐性があるのね。忌々しいことだわ」


 極々普通な口調でアルミダが呟く。シラーフェも、当事者として聞かされているルヴィも、その言葉の意味を理解するのに時間を要した。

 一変した状況への理解に努めていた頭を無理矢理にアルミダの方へと切り替える。彼女の言う術に心当たるものがあった。


「俺を……余を洗脳していたのか?」


「何のことかしら? 言いがかりはやめてくださいな」


「触るな!」


 馴れ馴れしい笑みを浮かべて、擦り寄るアルミダの手をルヴィは振り払う。

 少し前まで親しみを向けていた相手へ、憎悪に近いものを向けている。


 視点となるルヴィの意識が変わったせいか、術が解けていたせいか、シラーフェの目にもアルミダが邪悪なものとして映し出されている。


 妖しさを奏でる笑みへ、好感よりも不快感の方が勝った。

 おぞましい怪物と相対している感覚で、アルミダへ険しい視線を向ける。


「まあ、怖い顔」


 わざとらしく怖がる姿にさえも、ただ嫌悪が込み上げる。険を宿す赤目に身を震わせるアルミダは不意に表情を消し、酷く冷えきった顔をルヴィに向けた。

 人はこうも表情を変えられるものかと思わせられるほどの豹変ぶりである。


「異教徒ってだけでも耐え難いのに、邪神を崇める種族と和平を結ぶなんて、天地がひっくり返ったとしても有り得ないわ。ほんっと、同じ空気を吸っているだけでも虫唾が走る」


 今度は本当に身を震わせるアルミダは嫌悪を煮詰めた視線を注ぐ。


「これでも譲歩している方よ? 感激に咽び泣いて調印するところではなくて?」


「このような条約、認められるものか」


「土壇場で撤回するだなんて、本当に魔族は信用できないわね。嘘吐きで、心まで醜悪あなんて救いようがないわ」


「嘘も何も、貴様が洗脳して言わせた言葉であろう⁉」


「嘘吐きな上に言い掛かりまでつけるの? 本当に醜悪な種族だわ」


 白々しい態度のアルミダには妙な余裕がある。ルヴィが洗脳されるに至った前後の出来事を振り返ってみても、アルミダ――ルーケサは何年も前から周到に準備していたことが窺われる。


 まじない師がルーケサの手の者であることは最早疑いようもなく、彼がアンフェルディアの中枢に入り込んだときからすべてが始まっていた。

 長い時間をかけた計画が、ルヴィの洗脳が解けた程度で破綻するわけがなく当然別の手も用意しているのだろう。


 ある意味、ルーケサへの信頼を注ぐようにシラーフェは警戒を向ける。


 〈復讐(フリュズ)の種〉誕生にまつわる決定的な出来事が、覚悟もなく始まったことへの動揺はなんとか押しやり、状況を集中する。シラーフェは不平等な和平条約が最終的に結ばれることを知っている。

 どのような流れをもって、条約が為されることとなったのか、嫌な予感が胸をざわつかせる。


「思い出させてあげましょうか」


 艶めかしい声が這うように鼓膜を震わせた。

 産毛が逆立つ感覚に、動かせる体を持たないはずのシラーフェも思わず身震いをする。


「何を……」


 ルヴィが最後まで言い終わるよりも先に、何かが傍に放り捨てられた。

 それは人の形をしていた。無造作に放り投げられてなお、苦悶の声すらも零さないところを見るに意識を失っているのか、それとも――。


 最悪な事態が脳裏に過ぎるほど、それは無残な姿を晒していた。

 癖のある灰色の髪は乱れ、青い角は両方とも折られている。服は切り裂かれ、女性らしい起伏に富んだ体はあられもなく晒されていた。剥き出しとなった肌には切り傷や打撲痕が至る所にあり、髪や服が大量の血で汚されている。


 知らぬ仲であっても、胸を痛める有り様の中で、灰色と青い角――影人の特徴を持つ者が見知らぬ仲であるはずがない。

 抱く動揺は心臓を鷲掴みにされる感覚に近く、息が乱れる。


「リスティ、か……?」


 震える声が倒れる女性の名を呼ぶ。

 リスティ・ツェル・ラァーク。ルヴィの妹であるセニアの影である女性だ。

 おっとりとして穏やかにルヴィたちを見守っているお姉さん的立場の彼女が今、身動きすらせず倒れ伏している。


「生きて、いるのか?」


「さあ、どうかしらね。あまりにも邪魔臭いから、騎士たちに遊ばせてたら動かなくなっちゃった」


 悪びれもせず、笑みすら持ってアルミダは答える。そこにリスティに対する情は欠片も籠っていない。

 向ける視線は道端に捨てられたゴミを見るようで、冷酷で無感動なものだ。


「角を折ったのがいけなかったのかしらね」


 口調は壊れたおもちゃを前にしているときのようだ。

 事実、アルミダにとって魔族はゴミやおもちゃと同じなのだろう。残酷な口振りには特別な感情は何も含まれていない。


「……っ…何故このようなことを…。っ、セニアは! セニアは無事なのか⁉」


 影であるリスティが無惨な姿を晒すこととなっているのなら、主であるセニアは今どのような状況に置かれているのか。

 リスティがセニアを守りきった状況を願うルヴィの問いにアルミダは笑った。不吉な笑みだ。


 怖気が全身を駆け巡る。弧を描く唇がおぞましく、不気味なもののように思える。

 アルミダは言葉を返すより先に、指で合図を出す。誘われるように向けた視線は、アルミダの指示を受けて現れた二人の人物を映し出す。


 半ば引き摺られるようにして連れてこられたセニア。

 四肢を縛られて、服に多少の汚れは見えるものの、無体を働かれた形跡はない。


 リスティに比べれば、段違いに綺麗な姿である。ただ美しい顔にくっきりと残る涙の痕が痛々しい。

 髪も乱れ、普段からは考えられない痛ましい姿を晒すセニア。見る人が揃いも揃って胸を痛める有り様の妹姫よりも、ルヴィの目を奪うものがその後ろにあった。


「アッシュ……」


「よっ、元気……ではねぇか」


 状況を理解しているとは思えない気安い様子で、アッシュが声をあげる。

 いつもの花畑で顔を合わせたときとまったく同じ調子である。同じ調子で、セニアを引き摺って現れたのである。


「アッシュも洗脳されているのか……?」


「っぷ、はははは、くくっ、いや…ここまで騙されてくれるとちょっとうれしいな」


 零れた問いにアッシュは噴き出す。理解が及ばず、怪訝な顔を見せるルヴィにアッシュはさらに笑声を重ねた。

 アッシュは口元を歪め、


「オレが、勇者様が魔族と友人になるわけないだろ。本気で信じてたのか?」


 嘲笑を込めた声がルヴィの心を貫いた。驚きに見開く赤目もまたアッシュは笑う。


「きつかったぜ? お前らの信頼を勝ち取るためとはいえ、魔族の中に混ざるのも、好い仲を装うのも、すっげぇしんどかった。やっと解放されて清々したぜ」


「まあ、アッシュ様ったら、あまりあけすけは言っては……ご覧なさい。いっそ可哀想なほどの驚き様ですわ」


「事実なんだから仕方ないだろ」


 親しげに、心を通わせた男女を思わせる様子で、言葉を交わすアッシュとアルミダ。

 ルヴィはまだ混乱から抜け出せず、信じられない思いで二人を見つめる。


「顔が良いのが救いってもんだぜ」


 言いながら、アッシュはセニアの類を持ち上げる。

 泣き腫らした赤目で碧眼が向かい合う。アッシュは口角をあげ、セニアの唇を奪った。

 貪るようなキスはこれまでのセニアを慮るものとは違う身勝手さで、最後鮮血が落ちた。


 セニアの唇が噛みちぎられ、血を滲ませている。アッシュは唇についた血をそのままに笑う。

 絶句するルヴィは時間を置いて、思い出したように笑みを乗せる。



「貴様……っ」


「ねえ……それで思い出してくれた?」


 ルヴィの言葉を遮ってアルミダが問いかける。

 焦れた苛立ちを覗かせるアルミダは切れ長な目をセニアへと向ける。


「また思い出せないのかしら? なら、面倒だけれど、手伝いをするだけ」


 セニアに危害を加えることを暗に告げるアルミダ。

 最愛の妹を人質に取られ、ルヴィは大きく揺れる。国と最愛、簡単にどちらかを選べるものではない。


「お兄様、いけません」


 こんな状況でも机上に振る舞うセニア。その気高さに背を負わされ、熱鉄を飲む勢いで決断するルヴィを、


「やっぱり手伝ってあげなきゃいけないようねえ」


 艶めかしい声が嘲笑する。

 アルミダは視線のみで指示を出し、それだけですべてを理解したようにアッシュは剣を抜く。

 聖剣アスペンテリコス。ルーケサの勇者だけが使える剣がその白い剣身を晒した。


 純白の剣を迷いなくセニアの角を斬り落とす。


「づ……っああああぁぁあぁああああぁ」


 つんざくような悲鳴が脳を揺らす。

 魔族の角の根元には様々な神経が複雑に通っており、切断されるとこの世のものとは思えない痛みが伴うという。


 シラーフェの兄、ライも片角を欠損しているが、半ばから折れる形なのでそれほど痛みはなかったという話だ。

 あの兄のことだから、シラーフェを前に強がっていた可能性もなくはないが。


「セニア……っ、貴様、セニアに何を」


「あらあ、まだ思い出せないのかしら。それじゃあ、仕方ないわねえ」


 言い募るルヴィを前にアルミダは再度視線をアッシュへ遣る。応えるアッシュは見せつけるように純白の剣を構える。


「まだもう一本残っているものね。ああ、魔族って角を失うと衰弱死するんだったかしら?」


「まっ、待て。分かった……書く、署名する…から、セニアにはもう手を出すな」


「おに……さま、だめっ」


 痛苦に耐えるセニアの声には耳を貸さず、ルヴィは和平条約に塗油インした。

 ルヴィの名はマナの光を帯び、魔術的な力を持って、アンフェルディアとルーケサの不平等な和平条約は為された。

 ルヴィが不名誉に歴史に名を残すこととなった事柄はまだ終わらない。


「さて、これからどうしましょうね。アッシュ、貴方はどうしたい?」


「……は?」


 解放してもらえる期待を込めて調印したルヴィの心を裏切って、アルミダは問いかける。

 呆気に取られるルヴィのことなど、眼中になく、アッシュは悩ましげな表情を見せる。


「あー、さっきのはよかったな。この顔だけ女の悲鳴は小気味よかった」


「は、話が違う。署名したら手を出さないと」


「あ、いいことを思いついたわ。未来の旦那様のお願いを叶えてあげるわ」


 そこでようやくアルミダはルヴィを視界に入れる。

 目的を果たし、用なしとして意識の外に置かれていたルヴィは再度配役される。嗜虐的に笑う瞳が不吉にルヴィを収める。


「滴る雫は神の繰り糸。五体捕えて、我が意に応えよ」


 歌うように紡がれるのは魔術の詠唱だ。艶美な声が魔力を孕んで、ルヴィの身を捕らえる。

 体の支配権を奪われる感覚はシラーフェにも感じられた。

 不快な感覚は、動かせる体を持たない不自由さとは比べられないものであった。


「ああ、よかった。こっちはまだちゃんと効くわね。時間の問題でしょうけれど」


 満足そうな表情を見せるアルミダは赤目と目を合わせたまま、うっそりと笑う。

 色香を濃密に纏う身体がルヴィに近付き、甘く甘く耳元で囁いた。


「ねえ、私を楽しませて」


 鼓膜を犯す声に応えて、ルヴィの体は動き出す。腰に佩いた剣を抜き、緩慢に妹姫の前に立った。

 ルヴィの意思に反して、固く柄を握る手がその剣先をセニアへ向ける。


「お兄様……」


「や、やめろ……っやめてくれ!」


 震えるセニアの声。震えるルヴィの声。

 魔族の兄妹は互いに涙を滲ませた瞳を合わせる。セニアは覚悟を瞳に宿し、ルヴィはただ必死の懇願を繰り返す。

 二人の感情が複雑に入り混じる中、アルミダは構わず口を開く。


「切って」


「ぃやっ、嫌だ。やめっ……っああああああああ」


「ぃ、やああああぁぁあぁああああああ」


 ルヴィの剣がセニアの、一本だけ残った角を根元から切断する。

 最愛の妹の角をこの手で切断する感触にルヴィは叫声をあげ、激痛に絶叫するセニアの声が重なる。

 二人の絶望を高尚な音楽のように聞くアルミダは甲高く笑い声をあげる。


 悪意に満ちた笑い声に耳を傾ける余裕など、今のルヴィにはな。第三者として見るシラーフェだけがこの地獄絵図をまざまざと見せつけられる。

 何もできない身であることをこれほど深く後悔したときはないほどに、この悪夢のような状況が早く終わるようにと願う。


「そおだ、いいこと思いついちゃった」


 悪夢はまだ終わらないと突き付けるようにアルミダはルヴィへ歩み寄る。


「大切で大切な、大好きな妹なのだものね。貴方の手で終わらせてあげなさいな」


「まっ」


 見開いた赤目は、意思に反して動く腕が振るう切っ先を凝然と見つめる。

 目端からは絶えず涙が零れ落ち、拒絶の言葉が掠れて零れる。

 切っ先はセニアの体を斬り裂く。角を斬るのとは違う生々しい感触が柄越しに伝わってくる。


「おに……」


「あら、まだ死んでないわよ。ちゃんと殺しなさいな、大切な妹なのでしょう?」


「や、だ、いやだいやだいやだいやだいやだ」


 震える指先が剣を落とす。失望するアルミダの声を、ルヴィは安堵とともに聞く。

 これで、このままなら妹を殺さずに済むのなど、刹那の安堵を胸に抱くルヴィの眼前でセニアの頭が落ちた。


「もういいよ、アルミダ。そろそろ飽きたわ」


 聖剣でセニアの頭を落としたアッシュはそう言って、ルヴィの方へ目を向けた。

 体から離れ、まさに目の前へ転がったセニアの頭を呆然と見つめるルヴィの視界は真っ黒に染め上がる。

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