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魔王に花束を  作者: 猫宮めめ
第3章
57/86

57「甘言」

 夜も更け、空が闇の呑まれる頃、ルヴィはベッドに腰掛け、己の手をじっと見つめていた。


 本来、共寝するはずのイリティアはいない。ルヴィが避けるように、自室のベッドを使っているからである。

 王位を継いで以来、夫婦共同のベッドを使うようにしており、己が理由に異なるベッドを使うことは初めてのことである。

 それだけ先の出来事がルヴィにとって衝撃的なものだったのだろう。


 イリティアの手を弾いたその手を、得体の知れないもののように見つめるルヴィ。

 ルヴィを思って伸ばされた手を弾いたのは本人の意思ではなかった。その事実が周囲に救いを齎す反面、当事者に得も言われぬ恐怖心を与える。


 自分の意志とは関係なく、体が動くことへの恐怖はシラーフェにも覚えがある。

 それは、メイーナが死したあの洞窟での出来事である。意識が途絶えた数分の間、シラーフェが手を下したとしか思えない死体がいくつも転がっていた。


 記憶のない間、無意識に自らの体があのおぞましい光景を生み出したのかと考えるだけでも恐ろしくて堪らない。

 あれは〈復讐(フリュズ)の種〉と共鳴した結果なのだと今なら分かる。


 自分の怪物性への恐怖は薄れたが、自分を怪物とする存在が内にある恐怖は未だ健在だ。

 これ以上、他者を傷つけることがないよう、自分を遠ざけるルヴィの気持ちはよく分かる。


「……誰だ⁉」


 じっと己の手を見つめるばかりであったルヴィが不意に声をあげた。

 声と同じく鋭さを宿した赤目が扉へと向けられる。そこに人影があった。

 すらりと細長い影。トラストのものとは明らかに違うそれは、不安定にゆらりゆらりと揺れながら歩み寄る。


「お悩みのようでございますなあ」


 嗄れ声が慇懃無礼の言葉を紡ぐ。


 王の寝室へ許可なく足を踏み入れる不敬など、意識にない様子で男が近付いてくる。

 幽鬼を思わせる足取りの男は、正体を隠すように黒いローブで全身を覆っていた。フードを目深に被り、体形すらも覆い隠し、声でのみ男と分かる状態である。


「父上の珍玩が何用だ? 許可もなく寝所に訪れるなど不敬であろうが」


 敵意を剥き出しに投げかけられた声。隠しもしない態度は、男の正体が悩みの種である例のまじない師と言えば、頷けるものがあるだろう。

 睨みつけられてもなお、まじない師は飄々とした態度を崩さない。


「これはこれは失礼を」


 恭しく頭を下げていながらも、謝罪に誠意は感じられない。

 アルミダとは別種の得ないの知れなさを持っている。こんな男を、先王はどうして取り立てているのか、直接相対すればするほど分からなくなってくる。


「思い詰めた気をしているものですから、気にかかってしまったのですよ」


「くだらぬことをほざくな。息巻いて口を回したところで、余は先王のように騙されはせぬ」


「騙すなどと……そのように恐れ多いこと、とでもじゃありませんができませんなあ」


 大仰に振る舞い、身を震わせる姿をルヴィはただ睥睨する。それすらも実に白々しい。


「無意味に言葉を交わすつもりはない。疾く去ね」


 向けられる敵意も、嫌悪も飲み込み、まじない師はフードの中に隠された口元をにやつかせる。


「そのように突っぱねられては傷付きますなあ。そのお心を開いて、お話になってみてはいかがです? お父上やイリティア様のように」


「貴様……イリティアにまで手を出したのか⁉」


「手を出したのは果たして、私奴の方なのでしょうか?」


 静かな問いかけにルヴィは声を詰まらせる。その脳裏にはイリティアの手を弾いたときのことが映し出されているのだろう。

 我が意を得たりとまじない師は口角をさらに上げる。


「おやおや、鎌をかけただけでしたのに、本当に手を出したことがおありで?」


 今日のことがあった手前、ルヴィは否定を口にすることができない。

 沈黙を肯定として受け取るまじない師は寄り添うようにルヴィへ歩み寄る。

 痛いところを突かれたと身を固くするルヴィに、まじない師はただ口角をあげた唇を開く。


「ルヴィ様ほどの気高い心の持ち主がお妃様に手を出すなど、普通のことではありません。深い事情がおありなのでしょう? 一度、私奴にお話しくださってはいかがでしょう?」


「……貴様なぞに話せるものか」


 絞り出すような声ながらも、示される拒絶。

 まじない師は引き下がることを知らぬとでも言うように、親しげな距離を保つ。


 馴れ馴れしく不快感を与える距離がある。ルヴィは拒絶を示しながらも、自ら離れることはしない。

 口だけは強く、その態度は実に弱々しいものであった。


「では、誰に話せると言うのでしょう? もっとも近しくあるお妃様にも、長年連れ添う従者にも、その心根を零すことさえできぬ在り様。貴方様を救うのは誰なのでしょう?」


 聞き苦しい嗄れ声が流れるままに紡ぐ言葉は不思議を耳心地が良い。

 形だけの拒絶を口にすることさえできず、ルヴィは沈黙を守っている。


 作られる状況の歪さを、部外者として立つシラーフェだけが気付いていた。


「王という立場は実に孤独なものです。些末な悩みすら容易く口にはできませぬ」


 まじない師は同じ甘言で先王にも取り入ったのだろう。

 他人事として見るシラーフェに気付けることも、当事者たるルヴィにどこまで気付けるものか。

 同じ位置に立てば、シラーフェも犯され、曇った景色ばかりを見せられる。その状態で気付ける自信はあまりない。


「……くだらぬ口舌だ。余の心を解そうと努めても叶わぬ。孤独を説いても、戯言でしかない。貴様なぞを頼らずとも、この胸の忌まわしき物思いの種を吐き出す者はいる」


「随分と強がるもので」


 甘い囁きをここまで突っ撥ねられるだけで、充分な功績であろう。

 まじない師は意に介さない様子で、笑声すら零している。


「それは聖国の勇者のことを言っているので? それとも妹姫のことでしょうか?」


 図星を突かれた気分で、ルヴィは息を詰める。返答がないことを肯定と受け取るまじない師はさらに言葉を重ねる。


「勇者様は結局、ルーケサを優先なさるでしょう」


「アッシュは……そのように狭い範囲で判断する男ではない」


 召喚されてすぐ、ルーケサを離れ、一人冒険者として活動していた経緯がある。

 ルーケサに戻ったのはほんの数週間前の出来事であり、滞在していた時間だけで言えば、アンフェルディアの方が長い。


 アッシュの心は安全にルーケサに染まっていない。正しきを突きつけるため、様々な土地に渡り歩いたアッシュは、国なんて小さな枠組みではなく、もっと大きく広く世界を見ている。


 十年以上となる付き合いの中で、その為人を見てきたルヴィは、アッシュの心を信じている。信じているはずだった。


「では、我らが国王陛下は、聖女様との関係をどうお思いで?」


 急所を突く問いかけだった。一度顔を合わせただけの女の顔が鮮明に思い出された。

 艶めかしい微笑が目の前にあるかのような存在感で、脳裏を染め上げていた。


「アルミダ様は他者の心を支配することに長けているなんて話も耳にしたことがありますなあ」


「……アッシュが聖女に支配されていると言いたいのか?」


 数週間ぶりに会ったアッシュの姿には違和感があった。シラーフェにも微かに感じられた違和を、より近くにいたルヴィならば鮮明に感じられたはずだ。

 故に純真に信じることに引っ掛かりを覚え、その正体をまじない師が明かした。


 いや、可能性だけならアルミダと顔を合わせたときから気付いているはずだ。ただアルミダと言葉を交わすたびに、生まれた可能性がルヴィの中から消えているのをシラーフェは感じ取っていた。

 それこそ、アルミダの術中、人の心を支配することに長けていると言われる所以なのだろう。


「……あいつが容易く女に絆されるとは思えない」


「女の武器を上手く使うのもそうでしょうが、聖女ともなれば別の術も使えるでしょうなあ」


「勇者は神の加護を受けているはず……いや、そうか」


 勇者はエーテルアニス神の加護を受けており、精神系の術も含め、いくつかの魔撃に強い体制を持っている。 

 アルミダが魔術で洗脳したところで本来ならば、アッシュには効果がないはずだった。


 聖女であるアルミダの扱う魔術は、エーテルアニス神の系譜だ。それどころか、聖女もまたエーテルアニス神の加護を受ける存在だ。

 聖女の使う魔術ならば、勇者の受ける加護をすり抜ける可能性は充分ある。


「お分かりいただけたようで」


 否定する材料を持たないルヴィは黙して肯定を示す。認めたくない感情が強く現れた沈黙を楽しむようにまじない師は歪な笑みを二つに裂く。


「聖女の手に堕ちているとなれば、下手に口を滑らせるわけにはいかない」


 ルヴィの心根を嗄れ声が音にする。もっとも弱いところを撫でられる。


「勇者殿を恋い慕う妹姫様を思えば、寄りかかることもできない」


 誘われ、ルヴィは微かにセニアの名を呼ぶ。

 アッシュが冒険者をしていた頃、セニアとは恋仲に近い関係であった。互いの立場から、契りを交わすことまではしていなかったが、深く想い会っていることは傍から見ても明らかなものだ。


 アッシュに寄り添う聖女アルミダを見て、セニアはどう思うのか。


 妙に距離が近く、仲睦まじい二人の姿が脳裏に浮かぶ。

 勇者と聖女は婚約関係にあり、二人が親しくしていること自体、問題はない。けれど、長くアッシュの隣にいたのはセニアの方だ。

 計り知れないセニアの悲嘆を思えば、己の弱さを吐露することなどできるはずもない。


 そもそも兄として、セニアを守る者として、生きてきたルヴィには妹に弱さを見せることはできないだろう。

 兄としての矜持がある。シラーフェもネリスには弱いところを見せることはできないと思える。


「ならば、そのお心を煩わせる一端でも私奴にお話しされてはいかがでしょう?」


「どれだけ言葉を重ねようと、貴様に絆されるつもりはない。疾く去ね。これ以上の会話は無意味だ」


「そのようですなあ。いやはや、力不足のようで」


 弱い部分を擽られてもなお、ルヴィはまじない師を突っ撥ねる意思を貫き通す。

 強い意思とは違う頑なさを見てるルヴィに口元をにやつかせながら、まじない師は立ち去る。

 諦めたか、と疲労を色濃く吐き出し、ルヴィは緊張の糸を緩めた。


「やはりことはお譲りしましょう」


 去る間際、まじない師の微かな呟きはシラーフェ以外に耳にした者はない。


 一体、誰に。まず、その疑問が浮かんだ。


 次に歪に弧を描いたまじない師の口元と、同じ形を描く蠱惑的な口元が重なる。

 アルミダ・フォン・ルーケサウス。妖しい美貌を持つ、ルーケサの聖女の姿が脳裏で笑っている。


 やはりまじない師はルーケサの人間だったか、と一人確信をおとした。シラーフェの密かな確信を肯定するように、ルヴィの胸元で赤い石が光っている。


『ルヴァンシュ、どこに行くんだ⁉』


 シラーフェの声はルヴィには届かない。

 咄嗟に口をついた問いに当然返ってくる声はなく、シラーフェは変わる景色に困惑するばかりだ。


 時刻は深夜、城内のほとんどが寝静まった時間帯に、ルヴィは独りで廊下を歩く。

 他に人の気配がないせいか、ルヴィの足音が妙に響いて聞こえる。


『庭、か』


 辿り着いたのは中庭だった。まじない師と言葉を交わし、湧き立つ感情を抑えるため、外の空気を吸いに来ただけのようだ。抱く不安を宥め、シラーフェは安堵の息を零し――


「――あら、ルヴァンシュ様もいらしたの? 奇遇ですわね」


 鼓膜を震わせる美麗な声にシラーフェは吐いた息をすぐに飲み込んだ。

 少し前まで耳にしていた嗄れ声とは対照的に耳が喜ぶ音がいじらしく鼓膜を震わせた。ルヴィが訪れた中庭には先客がいた。

 すらりといた影がこちらを振り返り、艶やかな表情を見せている。


「アルミダも来ていたのか……」


「少し寝つきが悪かったもので。外の空気を吸いたくなったのですわ」


 仄かな警戒を抱くシラーフェに対して、ルヴィは自然な様子で声をかける。

 アルミダは他者の心を支配することに長けていると話に聞いたばかりにも拘わらず、警戒する素振りがまるでない。


「国が違えども、胸を満たす空気は変わりませんのね」


 独り言のように零れた言葉がまだいじらしい。派手さのある外見とは違う、しっとりとした雰囲気が新しい魅力を奏でる。

 纏う薄手の寝巻もまた、執務室で会ったときとは別の印象を与える要素となっていた。


「こうして見上げた空もまた同じ。自らの愚かさを突きつけられている気がしますわ」


 長い睫毛に縁取られた瞳が酔い知れるように空へ注がれている。

 月明かりの中、物思いに空を見上げるアルミダの姿は、絵に残したくなる美しさを灯している。

 ルヴィは声もなく、目の前の幻想的な光景を見つめていた。


「ルーケサも、アンフェルディアも、何も変わりはしないのだと。人族も、魔族も、何も変わりはしないのだと。アンフェルディア憎し、魔族憎しと生きてきた過去のわたくしが哀れでなりません」


「……気付けたのならば、充分であろう。気付けたのならば、この先、如何様にも変われる」


「ええ……ええ! わたくしもそう思います」


 哀惜漂う表情から一変、美貌は晴れやかに彩られる。声の勢いのままに距離を詰めて、アルミダはルヴィの手を取った。

 色香が濃く匂いたち、鼻腔を奥の奥まで染め上げる。


「わたくしはよりいっそう、ルーケサとアンフェルディアの関係を変えたいと思うようになりました。お願いです、アンフェルディア様。この胸が抱く、この想いを叶えさせてくださいまし」


 潤んですら見えるアルミダの瞳に見つめられ、ルヴィは微かに喉を鳴らす。

 シラーフェは固唾を飲んで、二人の様子を見つめる。それしかできないことがもどかしい。


「……分かった。ルーケサとアンフェルディアの和平の話を呑もう」


「まあ! 嬉しいですわ」


 歓喜のままにアルミダはルヴィに抱きつく。噎せ返るほどの色香にめまいを覚え、反射的に目を瞑ったまま、シラーフェの意識は一時途絶えることのなる。


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