55「忘れ咲き」
月日はさらに流れ、十年の時の経てルヴィは二十六となった。
十年もの時間が流れれば、人が置かれる環境は変わっていく。
王位継承者としての仕事も増え、ルヴィは順調に多忙を極める身となっていた。
以前のように城下町を散策する時間も取れず、アッシュはもちろんのこと、セニアと会う機会も確実に減っていた。多忙を理由に距離が離れていく二人の様子は、先の未来を知っているシラーフェに複雑な感情を与える。
このままルヴァンシュがアッシュを憎むに至る出来事が起こるのかという不安に駆られるのだ。
尊く微笑ましい三人の関係が離れていく代わりというわけではないが、ルヴィの評価は上がっている状況だ。
成人前は立場も弁えず、責任を果たさない放蕩王子と揶揄していた上流貴族も、誠実に役割を果たすルヴィの姿に評価を改めていっている。
そのこと自体は喜ぶべきだと理解しながらも、シラーフェの中には一抹の寂しさがある。
時を経て、関係性が変わるなどありふれた出来事だ。そこへ覚える寂寞の感情は未来を知っているのが故の身勝手さだろうか。
「父上が退位を表明しただと……⁉ それは事実なのか?」
「本日行われた評議会で表明されたとのことで……」
先王の退位表明は前触れのない、突然の出来事であったと記録にも残っている。
己が立場を煩わしく思っていたとか、秘して病を抱えていたとか、様々な説が語られている。
多くの学者が頭を悩ませている事柄の真相を知ることができる機会は垂涎ものであろう。
「何故そのようなことを……」
シラーフェも含め、多くが他人事と悩ませる出来事も、当時を生きる者からすれば只事で鼻内。
特に空いたくらいに座する立場にあるルヴィに与えられる衝撃は誰よりも大きく、混乱を表に出すことを咎められるものはいない。
「やはり、あのまじない師か。影たちはまだ何も掴めていないのか?」
「実に巧妙に隠しているようで、未だ何も。不甲斐ない結果が続いていること、影の一族の代表して謝罪いたします」
ルヴィの言う影は、王族の影武者の役割を持つ「ツェル」のものではなく、王家直属の諜報部隊のことである。
数年前から父王が重用するようになったまじない師を怪しみ、ルヴィは諜報部隊に調査を依頼していた。
結果、ヒューテック領の北方にある、メギストリス魔道王国内にある魔術学校出身である以上の情報は掴めていない状態だ。
実力主義の研究気質なメギストリス魔道王国は人族が統べる国ながら、アンフェルディアと友好関係を築いている。研究第一なかの国は種族間の問題は関係なく、魔族という貴重な種族との繫がりの方が重要を考えている。
故にヒューテック領内にある国の中で数少ない信用できる国と言える。
その名を出されてしまえば、怪しいと言う理由だけでまじない師を糾弾することはできない。
父王が重用していることもあり、下手な手は打てないともどかしい思いを抱えて日々を過ごしていた。
その果てに起こったのが父王の突然の退位表明である。
直接の関わりが証明できない以上、まじない師が原因と断定できない。
「……ルヴィ様、王位をお継ください。最早、貴方様の他にこの国を導ける方はおりませぬ」
言外に父王の説得を諦めるよう告げるのはトラストである。
まだ身軽な身でいたいという願う心を叱咤する言葉に赤目が交差する。
トラストはすぐに我に返り、深々と頭をさげる。
「出過ぎたことを申しました」
従者の身には過ぎた事を口にしたと謝罪を口にするトラスト。真摯さを奏でる頭に、ルヴィは混乱を落ち着ける時間を持って、よくやく口を開く。
「いや……」
一音一音、確かめるように音にしながら、ルヴィは己の覚悟を口にする。
「俺が王位を継ぐ。甘言に流される父王にこの国を任せてはおけぬ」
甘さを脱ぎ捨てるように紡がれる覚悟を、シラーフェは知らずざわつく心を抱えて聞いていた。
先の未来を知っているシラーフェには、ここでのルヴィの覚悟が正しいものだと思うことはできない。
ただ国を思い、決断した心を間違っているとも言えず、中途半端な心を抱えていた。
シラーフェが何を思うが、過去の出来事を変えることはできない。大きな転機を迎えつつあるこの世界の行く末をただ見守っていることしかできないもどかしさを今更ながら思った。
ルヴィはすぐに王位を継ぐことを正式に表明し、シュタイン城は王位継承の儀に向けた準備で忙しなくなる。
民たちは突然の事態に驚きながらも、新たに誕生する王への期待を膨らませている。
期待を向けられる側のルヴィはただ忙しく、周囲の視線を意識する余裕はないらしい。
共に受けるシラーフェばかりが注がれる視線を身の引き締まる思いで受け取る。
シラーフェもいづれ王位を継ぐ身と考えると決して他人事に思えないものである。
「お兄様!」
公務と王位継承の儀の準備の合間、一息つくルヴィへ駆け寄る影がある。
スカートの裾を華やかに揺らす可憐な姫君。すっかり大人の色香を纏うほどに成長した妹姫、セドウニア・リニカ・アンフェルディアである。
久しぶりに兄と話せる機会に、傾国とつけるべき美貌は笑顔が花開いている。
綻ぶ華顔は兄を前にしてのことか、美しさの中に幼さを含んだ愛らしさも混ざっている。
駆け足気味に駆け寄るセニアはわずかに乱れたドレスの裾を直して、ルヴィに向き直る。
「ルヴィお兄様、お久しぶりでございます。ご多忙のことと存じますが、お変わりありませんか?」
取り繕うようにかしこまった様子はむしろ愛しさを掻き立てるものであった。
成長し、と大人びた色を纏っていようとも、幼い頃から見てきた身としては妹への情が勝る。
それはルヴィも同じようで、吐き出す息の中に笑声が混じる。
「駆け寄ってきた時点で台無しであろうに」
「そこを黙って受け流すのが紳士というものですのよ。そのように心無い振る舞いをしていらっしゃるとお義姉様に愛想をつかれてしまうんですから」
「愛想など疾うにつかれているだろうよ」
王位継承第一位ということもあり、ルヴィには早い段階で契りを交わした婚約者がいた。
仲は良くも悪くもなく、契約上の恋人同士という印象が近い。ルヴィは色恋よりも、セニアやアッシュとの気兼ねない関係の方に心惹かれる性質で、婚約者とは最低限に留めていた。
王位の継承が正式に決まり、夫婦という形に変わっても、二人の関係は義理の色が濃い。
「そんなことはありませんわ。イリティアお義姉様は心からお兄様を慕っております」
ルヴィの婚約者、今は妻であるイリティア・スカーバ。今はアンフェルディアの姓を継ぐかの女性と、セニアは積極的に交流を重ねているようだ。
実の夫よりも知っていると言わんばかりの強い口調で兄に告げる。
「お兄様のお力になりたいと思っておいでです。そう邪険にしないげくださいまし」
「そう、だな。今のは俺が悪かった。謝罪する」
イリティアを疎んでいるというより、女性への苦手意識から放たれた言葉であった。
誰よりもルヴィの為人を理解しているセニアは懇願以上の言葉は重ねず、拗ねた息を吐いた。
「もう、こんなことを言うはずではありませんでしたのに」
己の愚痴として呟くセニアはすぐに強い瞳でルヴィに向き直った。
「わたくしも、ルヴィお兄様のお力になりたいと思っている一人です」
微笑み、ルヴィの手を取る。
「王位を継ぎ、国を背負う立場ともなれば、軽はずみに他者を頼ることも難しくおなりでしょう。話せぬことがあっても構いません。重なる苦難の一欠片でも、わたくしにお預けくださいまし」
今の時点でも、ルヴィが思い悩む種は少なくない。心を許した数少ない相手であるセニアとアッシュに会えない時間が長く、気を張ってばかりの日々であった。
不用意に他者を頼ることのできない中で、差し出された手をルヴィがどう思ったか。
表情すら見ることのできないシラーフェには読み取ることはできず、ただ感銘に震える心のまま、凛々しさを纏う姫君の顔を見つめる。守るべき妹を侮ることのできない強さが宿っていた。
「お兄様、どうぞ必要であれば、いくらでもわたくしを使ってくださいまし」
「使うなどと、そのようなことは……」
「構いません。わたくしは自分の価値を理解しております」
傾国の、枕詞をつけるべき美貌を持つ少女は事実として言葉を重ねる。
セニアは誰よりも己の美貌の勝ちを理解し、己の果たすべき役割を理解している。
「わたくしは王族です。ならば、民のため、果たすべき役目をありましょう。お兄様、どうかそのときは遠慮など決して……決してなさらないでくださいな」
「それは……まだ、分からぬことだ」
妹を手放したくない思いからか、ルヴィは暈すように口に下。
その心は妹の幸福を願い、その脳裏にはきっと。
セニアと話をしたその日、すっかり日も落ちた時分、ルヴィの執務室に微かな物音が落ちた。
この書類だけは目を通したいと、揺れる炎のわずかな光の中で仕事を行っているときのことである。
窓に何かがぶつかるような音が規則正しく鳴った。誰かが小石でも投げているような、あるいは鳥がくちばしでつついているような音である。
「確認してまいります」
訝しみ、手を止めたルヴィが口を開くより先にトラストがそう申し出る。
警戒を最大限に、懐のナイフに触れながら、トラストは音がした方、窓の方へ歩み寄る。
継承の儀を日開けた現在、警備が強化されている城内に易々と入れる者がいるとは思えないが、例のまじない師の件もある。
予想だにしない方法で、脅威が仕掛けられている可能性は充分にある。
「そこにいるのは分かっています。出てきなさい」
影の気配から潜む存在に見抜いたトラストが鋭い声が投げかける。
ルヴィもまた警戒を宿した瞳で、窓を見つめる。微かに震えるマナが、二人が臨戦態勢を整えていることを伝える。害を受けない身であるシラーフェもつい警戒を持って見てしまう。
「降参、降参。ちょっとした悪戯のつもりだったんだけど、そう睨まれちまったらたまんねぇ」
聞き覚えのありすぎる声にトラストとルヴィは同時に眉を顰める。それは予想外な珍勇者の正体へ呆れを多分に混ぜた表情である。数秒に比べて、かなり砕けた雰囲気である。
トラストが視線で問いかけ、ルヴィが複雑な表情で首肯する。これを受けるトラストは窓を開ける。
決して大きくない窓から窮屈そうに入ってきたのは金髪碧眼の青年、アッシュ。イアンである。
ルーケサの勇者でありながら、未だ冒険者として各地を転々と渡り歩いている青年は、無遠慮にアンフェルディア王国の中枢に足を踏み入れる。
「……警備を見直す必要があるな」
ルヴィがそう呟くのも無理はないだろう。
今は自由の身に興じてはいるが、他国の主要戦力にこうも容易く侵入されては堪らない。
それも相手がアッシュ・イアンという規格外の男では仕方ないと諦めざる得ないが。
「今のままで充分だと思うぜ。他に比べりゃ、全然入りにくかったしな」
「侵入されている時点で、何も慰めにもならぬ」
「セニアの協力がなけりゃ、このオレも攻めあぐねてたレベルだぜ? むしろ、誇ってくれていいぜ」
慢心を思わせるアッシュの発言も、その実力を知っていれば、否定はできない。
実力の一端しか知らないシラーフェですら、頷く以外の方法を持たないほどだ。
同じ勇者と言えど、サクマではここまで気軽に侵入することはできないだろう。エーテルアニス神の加護を受けている共有事項も本人の才覚によって大きく変わる。
「それでセニアを誑かしてまで、何の用だ?」
「人聞き悪いこと言うなよ」
おどけるような調子で返すアッシュへ、ルヴィは冷たい視線を寄越す。
疎ましく思っているというよりは、付き合いの深さを思わせる視線にアッシュは肩を竦める。
「王になるんだってな」
「ああ」
余計な言葉で着飾ることのない短い肯定が雄弁に語る。
「いやあ、びっくりしたぜ。出先で噂を聞いて、慌てて戻ってきてやったところだ」
「貴様が戻ってきたところで、何が変わるわけでもあるまいに」
「照れ隠しはいらねえよ。ホントは嬉しいんだろ?」
「ぬかせ」
軽快に交わされる言葉にはそれぞれに含みを持って紡がれる。
一度言葉の応酬が止み、二人は視線を交わす。シラーフェが見えるのはアッシュの瞳のみで、澄んだ碧眼の美しさにただ魅入られた。
感情らしい感情を灯さない瞳でも、ルヴィは何かを読み取ったようで、微かな笑いを零した。
「継承の儀は最前列で見てやるよ」
「聖国の勇者が最前列を飾れるわけがあるまい。弁えろ」
あしらうルヴィに、大袈裟に不満の声を出すアッシュはふと表情を引き締める。
珍しく真面目な表情を見せるアッシュに呆気に取られて見つめる。
普段と違い過ぎる雰囲気は精悍な顔立ちがいっそう際立つ。
「ルヴィ、お前の継承の儀が終わったら、オレはルーケサに帰るよ」
それは突然のことであった。十年近い年月、ルーケサの追っ手を巧みに躱し続けていたところにこの発言だ。
ルーケサに戻る気がないとさえ、想わされる態度を貫いていたアッシュの考えを誰も知らない。
言葉を失ってただ見つめるルヴィの反応を気にも留めず、アッシュは続ける。
「充分、世界は見た。オレはこの世界での役割を果たすとするぜ」
「役割……」
セニアからも聞いた役割という単語を、ルヴィは確かめるように音にした。
反芻する声に頷くアッシュは意気揚々に告げる。
「オレは勇者、だからな!」