54「花も一時」
刃は重ねる特有の甲高い音が森の中に響き渡っている。鋭い響きは互いが本気であることを窺わせ、容赦のない剣撃が何度も何度も打ち合う。
場所は森。それも開けた場所ではなく、木々が生い茂る中である。
地面には、いつのものか分からない枯れ葉がそこかしこに積もり、その隙間から草も覗いている。
障害物が多く、滑りやすい環境下ながら、剣を交わす二人の動きに迷いはない。
と言っても、シラーフェの視点は剣撃を振るう側で固定されており、はっきりと目にできるのは相手のもののみだ。
金髪碧眼の青年が純白の剣を巧みに操ってシラーフェに迫る。
言うまでもなく青年はルーケサ聖王国の勇者、アッシュ・イアンである。
シラーフェが初めて目にした、リラックの花畑のときよりも成長し、すっかり精悍な顔立ちとなっている。
幾度か、ルヴァンシュの記憶の欠片として見てきた姿に程近い。
「こんなもんか、ルヴィ⁉」
「はっ、そんなわけないだろう!」
挑発的に振るわれる剣撃にルヴィに吠える。勇者の相手をするのは、アンフェルディア国王の第一王子、ルヴァンシュ・フリュズ・アンフェルディアであった。
勇者と王位継承者である魔王族が本気で剣を交わしている。字面だけでみれば、非常事態を思わせるものだが、現在行われているのは単なる手合わせである。
実戦に近い手合わせを希望するアッシュの意思を尊重する形で行われているのが、この森の中の手合わせである。
シラーフェがルヴィの歩みを見守ることとなってから月日は流れ、三年ほど経っている。
ルヴィは無事に成人を迎え、今年で十六となる。その手に握られるのは成人祝いとして、カザードから贈られた剣である。成人の儀を迎え、ルヴィが手にする特注の剣を目にしたアッシュが申し入れた日から二人の手合わせは顔を合わせるたびに行われている。
成人し、王位継承者として役目の増えたルヴィはこれまでのように頻繁が城下を歩き回ることはできなくなった。
アッシュも三年の間に準冒険者が正冒険者に昇格し、何かと忙しくしている。
二人が顔を合わせる機会は三年の時を経て少しずつ減っていっている。会わない時間を埋めるように交わされる剣撃はどこまでも雄弁で、互いの心を交わす。
「机に齧りついてばっかで体が鈍ってるんじゃねえか?」
甲高い音を響かせて、ルヴィの攻め手が弾かれる。生まれる隙が見逃されるわけがなく、交戦的に踏み込むアッシュにルヴィは体勢を崩した状態でなお、剣を振るう。
再度甲高い音が響く。わずかに目を見開き、ルヴィは口の端をあげる。
「誰の体が鈍っていると?」
アッシュに負けず劣らずの闘争心を纏った声音だ。
かつて純真さを纏い、育ちのよさ漂う風情であったルヴィも、アッシュの影響を多分に受けた振る舞いを見せるようになった。特に手合わせ――戦闘の面ではそれが顕著に表れる。
「ただ机仕事に忙殺されているだけではないのだ。舐めてくれるな」
王位継承者としての仕事をこなす合間に、ルヴィは騎士たちの鍛錬に混ざるようになっていた。
実力のある騎士たちに指南を求める熱心さで、遊び惚けているとさえ言われていたルヴィの評価を改める臣下も増えてきている。
偏に強くなることを望み、アッシュに勝つための努力がルヴィだけではなく、周囲の評価も変えていく。アッシュとの出会いは間違いなく、ルヴィに良い影響を与えている。
「確かに強くなってるな。でも…」
剣身を滑らせながら、アッシュは身を屈めてルヴィの後ろに回る。
我流を極めたが故に生み出される変則的な動きにも、ルヴィは必死に食らいつく。
咄嗟に振るわれる剣をアッシュは笑みに持って躱し、地を蹴った。すぐ傍に生える木の幹を駆け上がり、アッシュは木の上から斬りかかる。
この動きには対応しきれないルヴィは無防備に首を晒す。そこへアッシュが剣を突き立てた。もちろん、寸止めである。
「オレの勝ちだ」
「まだ……届かないか」
幾度も行われているアッシュとの手合わせ。その一度としてルヴィはアッシュに勝てたことはない。
鍛錬を重ねてもなお、冒険者として実戦の中に生きるアッシュには届かない。今回も今までと同じ結末を辿った。
エーテルアニス神の加護を抜きにしても、アッシュには戦闘の才能があるようだ。
ルヴィも随分強くなったが、アッシュはそれ以上に実力を伸ばしている。特定の人物を師として仰ぐこともなく、ほとんど独学で極めるなんて誰にでもできることではない。
「アッシュ様、お兄様、お疲れ様です」
離れた位置で二人の手合わせを見守っていたセニアが声をかける。
セニアは十三となり、その美しさはさらに輝くものとなっていた。
大人らしさを欠片として纏いながらも、また幼さの残る顔立ちはどちらともつかない年頃特有の曖昧な美しさを映し出している。
ルヴィは今日も負けてしまい、きまり悪い気分で一瞥をくれたままセニアの方を向こうとはしない。代わりに、とアッシュがセニアの前へ立つ。
「むさい男が戦っている姿なんてプリンセスが見ても退屈だろ。先に町の方に行ってもいいんだぜ」
「まあ、意地悪なことをおっしゃいますのね。お二人抜きで町歩きをしても、それこそ退屈ですわ」
この三年でアッシュとセニアの関係も深いものとなっている。
かつては妹としてセニアを見ていた碧眼に別の色が混じる。それはセニアの方も同じで、ふっくらとした頬には朱色が射し込んでいる。交わす瞳が慕情を宿す。
シラーフェの目には確かに想い合う二人として映し出される。その視点の主であるところのルヴィがどのように思っているかは分からない。
そもそも二人の関係性の変化に気付いているのか、怪しいところだ。シラーフェもあまり人のことを言えないが、ルヴィは他者の感情の機微を察することが苦手な性質らしい。
今は先程の手合わせの反省に忙しくしているようだ。
「それにお二人の手合わせが退屈なんてありませんわ。剣のことはわかりませんけれど、勇ましく見事な身のこなしを、素晴らしいものと拝見させてもらっていますわ」
控えめながらも、満面の笑みでセニアが称賛する。はにかむように笑んで、
「お二人の手合わせ、とてもかっこいいですから」
と、そっと付け加える。
その頬は先程よりも濃い色に染まっている。真正面から恋する乙女の幸福を受けるアッシュもまたおの頬を色づかせる。
「セニア姫ったら、かっこいいのはお二人ですかあ?」
「リスティ……茶化さないでください。もうっ、アッシュ様もお兄様も、どちらもとてもかっこいいお方ですわ」
「ええ、ええ。分かっていますわ。でも、かっこいいの意味が少し違うのですよねえ」
乙女を茶化すのはセニアの影であるリスティだ。以前の話にあったように町歩きに同行するように影は悪戯めいた表情を主に向けている。
対するセニアは赤く色づいた頬を膨らませ、リスティに抗議をする。その姿もまた愛らしい。
「ルヴィ様、お疲れ様です」
リスティが同行しているとなれば、ルヴィの影――トラストも当然同行していた。
先程の手合わせを反芻し、次へ生かすための反省を巡らせているルヴィを労う。
不安を抱く心を裏切って、ルーケサの勇者と親しくしている事実に対し、トラストが苦言を零すことはなかった。
リスティほど親しみを持って接することはないにしても、敵意を向けることもない。
主の知人という距離感でアッシュと接するトラストの心中までは分からないが。
「ルヴィ様は充分強くなっておいでです。あまり根を詰め過ぎませぬよう」
三年の間にルヴィとトラストの関係性にも変化が訪れている。適切な距離感を互いに理解したというのが近いだろう。
感情のすれ違いが減り、ルヴィのトラストへの苦手意識が大分解消されている。
「強くなることは所詮手段だ。俺はあいつに、アッシュに勝ちたい」
何事にも一歩引いたところのあるルヴィがただ一つ熱を燃やすもの。
思考を内に向けながらも、ルヴィの心はどこまでも真っ直ぐにアッシュへ向けられた。
一点をただ見つめるルヴィの横顔を、トラストはこれまた真っ直ぐに見つめている。向けられる張本人であるルヴィは気付いていない視線を、シラーフェだけは気付いていた。
シラーフェにも身に覚えのある、ユニスが向けるものに近い視線をトラストはルヴィに注いでいた。
「ルヴィ、そろそろ反省タイムは終わったか?」
「お前……」
セニアとの話が落着したらしいアッシュがルヴィへと声をかける。
勝者が敗者へかける言葉ながら、そこに嫌味は感じられない。あけすけな態度に、ルヴィを開く感情を抱いている様子はなく、物言いたげな視線を寄越すのみ。
「ほら、終わったんなら早くしろよ。我らがお姫様がお待ちかねだぜ」
ルヴィとアッシュの手合わせの後にウォルカの町を散策するのが慣習となっていた。
リラックの花畑で待ち合わせ、森の中を舞台にルヴィとアッシュが手合わせを行い、最後は城下を辿る。それがこの三人が集まったときの、いつもの流れであった。
男二人にとって妹姫を案内することこそ、この集まりの主要部という認識である。
ルヴィは呑気なアッシュの文句は後回しに、セニアの方へ歩み寄る。
「セニア、退屈させてしまったようだな。すまない」
至極真面目な口調で謝罪するルヴィにセニアは可愛らしく笑声を零す。
鈴を転がすような妹姫の笑い声を訝しみ、ルヴィはやはり生真面目に眉根を寄せる。
「すみません。お兄様も、アッシュ様も同じことをおっしゃるからおかしくて」
笑声混じりにそう紡いだセニアは薄紅色の唇で弧を描く。
「お二人ともよく似ていらっしゃいますね」
「……似てはいない」
「よく似ていらっしゃいますわ。どちらもとても頼りになる殿方です」
ルヴィはセニアに弱い。か細い否定の言葉も満面の笑みで断言されてしまえば、呑み込むしかない。
返す言葉に迷うルヴィはわざと話題を逸らすように、「ほら、町に行くぞ」と背を向けて歩き出す。
素っ気なくも見える兄の態度にセニアはただ笑みを深めるばかりだ。
「おいおい、姫君を置いてってどうすんだよ。プリンセス、お手を」
呆れた口調のアッシュがセニアの手を取り、二人並んでルヴィの後に続く。
その後ろを影二人、トラストとリスティが続く形だ。もっともルヴィの視点で見るシラーフェにはそれを確認することはできないが。
気恥ずかしさから後ろを見ることができないルヴィは先へ先へと視線を向けていつもの道を辿る。
慣れた道筋を先行して進むルヴィは先の景色を見て微かに息を零した。
いつもの町が仄かに熱を帯び、行き交う人々の気配が浮かれているのが分かる。シラーフェにも身に覚えがある気配は知らず、胸を高揚させてくれる。
「あらあら、行商が来ているなんて良いときに来ましたわねぇ」
仮設の店舗が立ち並び、賑やかしく人々が言葉を交わす。
楽しげな気配と珍しい品々に目移りする面々はそれぞれ表情を緩ませる。
シラーフェほどではないにしろ、たびたび城下で忍び歩きをしているので、行商を遭遇するのは初めてではない。それでも非日常的な気配は胸を高揚させる。
「あちらで催し物をしているようですね。お兄様、アッシュ様、行って参りましょう!」
いっそう賑やかな場所がある。人だかりの咲きで軽妙な音楽が聞こえる。
今回の行商は旅芸人の一座も来ているらしい。客寄せの声に誘われているようにセニアは嬉々として輝く瞳をこちらに向ける。
まだまだ幼さを感じさせる姿に付き従う者たちは仄かに笑む。
「旅芸人ってヤツか! オレもまだ見たことないんだよ。ルヴィ、セニア、最前列で見ようぜ」
行商自体は珍しくなくとも、旅芸人の一座と巡り合う機会はそう多くない。
定期的に一座を招く都市もあると聞くが、冒険者として短い期間で様々な地を渡り歩くアッシュには運の要素が大きいのだろう。
旅の一座ともなれば、自国ではお目にかかれない芸も多くあり、目新しく楽しませてくれる。
シラーフェとしても滅多に巡り合うことのできない存在に期待を疼かせる。
「まったく、子供が二人だな」
はしゃぐセニアとアッシュに、ルヴィは呆れた口調で零す。
大人ぶってそんなことを言っているルヴィも、二人と同様に高揚したものを抱えているのが分かる。
シラーフェはルヴィと視点を共有している。故に、ルヴィの姿を視認することはできない。
ただこのときばかりは、先行く二人と同じ表情をしているルヴィの姿を幻視した。
嗚呼、と。映し出される景色に別のものを重ねて、胸を震わせる。
もし。もしも、彼らと同じように町を巡ることができたのなら、どれだけ素晴らしいことだろうか。
魔族など、勇者など、聖女など、粗末事として共に笑い合うことができたのなら。
目の前の尊い光景に、自分がそこにいる、ありもしない世界を見て奥の奥の感情を震わせる。
彼女と結ばれることは叶わないとしても、隣に立ち、気安く言葉を交わせる機会が得られることだけでもシラーフェにとっては贅沢なものだ。
一目見ることすらできず、膨れ上がった想いがうるさいくらいに訴える苦しみに息を零す。
烏滸がましく、重ねて見てしまう心を払拭するべく、努めて平静に息を吐き出した。
どれだけ経っても消えるどころか、存在感を増す感情を切り離すことは難しく、精々遠ざけることで映し出される幻想を消し去素。
サクマとリナリアではなく、アッシュとセニアが笑い合う光景を正しく映す。
「こういうのも悪くはない、か」
『……そうだな』
計ったようなルヴィの呟きに見開き、その感慨を味わう時間を持って首肯する。その声がルヴィに届くことはないが、構わないと思える。
誰に届けるでもなく呟かされた言葉を、たった一人でも聞いている者がいたとシラーフェだけが知っている。その事実があるだけで充分なように思えた。