5「月に叢雲、花に風」
翌朝、シラーフェは昨日と同じく平服を纏って、町の方へ足を向けた。
今日はライとは遭遇しなかった。あの兄は結局いつ帰ってきたのだろうとぼんやり考えながら歩く。
と、門の近くで二つの人影を見つけた。門衛と何やら話をしているその人はシラーフェのことに気付いて目元を穏やかに和らげた。纏う空気も穏やかで、全身から人の良さが滲み出ている。
門衛へお礼を言い、その人はシラーフェへと歩み寄った。
「よかった、まだお城にいたんだね。今ちょうど門衛に聞いていたんだ」
どうやらシラーフェのことを探していたらしい。見た目の印象を裏切らないふくよかな声が、柔らかく鼓膜を震わせた。
第二王子であるスキラーニュアナ・サタニア・アンフェルディア。その後ろに立つショートカットの女性はティリオ・ツェル・ラァーク、彼の影である。ティリオは無言、無表情で兄に付き従っている。
「キラ兄上、俺に何か……?」
「うん。兄上から伝言を頼まれていてね、町に行く前に会えてよかった」
キラが兄と呼ぶ人物は一人しかいない。父に代わって国を治める第一王子・フィルクリービア・ルシフィア・アンフェルディアだ。フィルは多忙を極める身であり、実の弟であるシラーフェであっても、そう簡単に会うことはできない人だ。
キラはフィルの補佐をしており、今回の伝言とやらもその一環だろう。
「俺に、ですか?」
思い当たる者がなく見返すシラーフェにキラは温和に頷いてみせる。
「うん。夕食の時間に大事な話があると。遅れないよう、町歩きは程々にね。まあ、シフィのことはあまり心配していないんだけどね」
冗談めいて笑うキラはきっとライのことを言っているのだろう。了承を示すシラーフェは微笑し、「ライ兄上に会えたら、俺からも言っておきます」と同じく冗談めいて答えた。
どちらもライが時間に遅れると本気で考えているわけではない。あの人は自由を愛しているが、無責任な人ではないから。
ただ軽口の材料として名前を使いながら、二人は笑い合う。
「じゃあ、気をつけて。危ないことはしないんだよ」
「はい、分かっています」
そう言葉を交わしたのを最後にシラーフェは歩みを再開させる。いつものように認識阻害の術をかけて、いつものように門を出て、いつものように町の中を歩き、いつものように賑やかな市場へ足を踏み入れた。そこで、いつもと様子が違うことに気が付いた。
妙に落ち着きのない市場の人々と、やけに少ない人の数。開いている店も心なしか少ない気がする。
店に立っているのは女の人ばかりで、男の姿が極端に少ない。それが意味することをシラーフェは知っている。
「何かあったのか?」
手近にいた者に尋ねれば、相手は息を呑み、迷うように視線を揺らす。
それは何かを期待しているようで、同時に何かを恐れているようでもあった。シラーフェを認識し、言うべきか迷って、しかし王族の質問を無視することもできず、相手は口を開いた。
「その……昨日からメイーナちゃんが帰ってきてないらしくて。今、男の人たちで探しているんです」
「メイーナが……⁉ いつから帰ってきていないんだ?」
「昼に出掛けて、それっきりって話です。日が落ちるまでは姿を見たって人が何人かいるみたいですけど」
シラーフェが家に送り届けてから、また出掛けていたらしい。細い水路の近くで本を読んでいる姿を何人か目撃しているらしいが、その後帰っている姿は誰も見ていないという。
日が落ちてもメイーナは帰ってこず、男衆を中心に探しに出ている最中なのだと。
一夜明けてもメイーナは見つからず、誰もが嫌な可能性を脳裏に描きながら、まだ消えていない希望に縋るように今尚探し続けている。
「俺の方でも探してみる」
期待が宿り、わずかに晴れた表情はシラーフェの協力を心から歓迎していた。
王族の力を借りられるとなれば、という期待だ。向けられる瞳が求めるほどの力は持っていないが、全力は尽くすつもりだ。
表情や言葉には出ていないが、シラーフェの中には荒れ狂う感情が存在していた。
シラーフェはメイーナのことを年の離れた友人のように思っている。家族以外で気を許し、対等に話せる存在はメイーナ意外にいなかった。
代えがたい彼女のことを思い、不安と恐怖が激しく渦巻いている。
しかしながら、その片鱗すら表情には宿らない。王族として己を律しているという以上に、シラーフェは感情を表に出すのが苦手な性質なのだ。
「ありがとうございますっ」
いっそ冷たさすら感じさせる表情で謝礼に応え、シラーフェは一度市場から離れた。
心当たりがあった。もしかしたら、という程度のものではあったが、この感覚は決して無視できない。
「流石に姿は消しているか」
足を向けたのは、昨日、視線を感じた場所だ。
視線の主がいたと思われる場所に立ち、その姿を探すが、影も形もない。
そもそも長居する理由がない。視線の主の素性を思えば、同じ場所に留まるのは好ましくないだろう。
姿がないとはいえ、手掛かりがまったくないわけでもなく、残ったマナを探る。瞑目し、周辺に意識を集中させる。
魔族は角を通して恒常的に周囲からマナを取り入れ、過分のマナを吐き出している。一度魔臓を通ったマナはその者が気をわずかに含んでおり、言わば見えない足音を残す形となる。感知能力が優れているものであれば、辿ることも難しくない。
シラーフェは辿ることまではできないが、漂うマナを感じ分けることはできる。多くが通り過ぎる中で長く留まった者のマナを探る。所用時間は数分程度、複雑に混じり合ったマナの中で、より多く存在する同種のマナを探り、小さく息を吐いた。
「やはり……ここにいたのは人族か」
ほとんど口だけで呟いた言葉はメイーナが行方知れずとなってから、誰もが脳裏に描いているものを現実に近付ける。
魔族が行方不明となって、真っ先に思い浮かべられるのは人攫いだ。それも人族による人攫いである。
ここ王都ウォルカはアンフェルディア王国の中心都市であると同時に人族の領地――ヒューテック領の国境に位置する。
これは四百年前の戦で大半の領土を奪われたことを原因とするものだ。
それ故、冷戦状態と言えども、アンフェルディア王国の王都は常に敵国の脅威に晒されている。
同じく四百年前に締結された不戦協定により、直接的な被害はないものの、人族による人攫いが横行しているのが、ウォルカを中心にアンフェルディア王国が置かれている現状だ。
警備強化など、対策を講じても、犯罪者はあの手この手と抜け道を探し、被害を完全に失くすことはできないでいる。
何せ、魔族の奴隷はヒューテック領では高く売れる。多少のリスクを負ってでも、手に入れたいものなのだろう。
理性的にそう分析する裏で、感情的に不快感を募らせる。
「ここにいた人族の気を辿ってくれ。報酬は弾む」
何もない宙に向けた言葉に応えて、淡い光がいくつもシラーフェの周囲に集う。
精霊と呼ばれる存在だ。食事としてマナを摂取する精霊と、呼吸のようにマナを集めて排出する魔族は非常に相性が良い。アンフェルディア王国には多くの精霊が暮らしており、魔族は自然の恵みの一つとして精霊と共存している。
「好きなだけ食べるがいい」
己の体内に存在するマナの流れに意識を向け、角からマナを多めに輩出した。
魔法を行使するときと少しだけ感覚が似ている。違うのはマナを魔力に変換する工程があるか、ないか。
集う精霊は緑の燐光を散らしながら、周辺に漂うマナを己の糧とする。
精霊にも好みというものがあるらしく、シラーフェの気は特別美味しく感じるらしい。
質の高いマナをより多く摂取すれば、精霊としての霊格があがる。そのため、王族の排出するマナを好んでいるのだろうとは考えているが、兄弟たちの中でもシラーフェは特に精霊に好かれやすい。
充分、マナを摂取できたのか、精霊は何度か明滅し、先を行く。ついてこいと言っているような明滅に応じて、美しい燐光の軌跡を追う。
この行為は無駄なもので、この先にメイーナがいないことを強く願いなら追いかける。
町を抜け、シラーフェは数年ぶりにも森の中に足を踏み入れた。
幼い頃、何度も通ったこの道を辿るのはあの日以来だ。あの日、ライの角が折れた日以来。
沸き起こる複雑な感情はこの場では無視した。
この道を抜けた先に何があるのか、よく知っている。あれから数年の時を経ても、それは存在していた。
聳え立つ巨大な壁に空けられた穴。子供が通れる程度のサイズだったものが広げられ、成長したシラーフェでも容易に通れるようになっていた。おそらく、この数年のうちに人攫いが広げたものだろう。
先に穴の向こうへ出た精霊がシラーフェを急かすように明滅している。
壁の外は人族の領域。手続きもなく壁を越えることの意味を今のシラーフェは正しく理解している。
深く息を吐き出した。連れ去れたかもしれないメイーナを助けることができるのなら、どんな裁きを受けても構わないと一歩足を踏み出した。一度越えてしまえば、もう後戻りはできない。
ヒューテック領へ足を踏み入れ、燐光を追って、今も記憶に残る花畑とは真逆の方向へ駆ける。
今、考えるべきはメイーナを見つけ出し、共に帰ること。それ以外は些事だと一点だけに意識を集中させる。
どれくらい森の中を進んだだろうか。短くも長くもない時間の果てに、シラーフェは洞窟を見つけた。
精霊はその洞窟の先を示している。ここが人攫いの拠点の一つなのだろうと、シラーフェは一度身を潜め様子を窺う。
人攫いの戦力は分からないが状況で、安易に突入するわけにもいかない。
「中を探ってくれないか」
頷くように明滅し、精霊は洞窟の中に入っていく。
その間、シラーフェは自身のマナに命令を加え、即席の剣を作る。土魔法で生み出しただけの、形だけ整えただけの代物だ。刃はなく、叩き潰すことしかできないものだが、ないよりはマシだろう。
土で作った剣に風魔法でも纏わせれば、相手を切り裂くこともできるはずだ。
やがて偵察を終えた精霊が戻ってきた。明滅と起こした風で散らす葉で中の状況を教えてくれる。
「助かった。お前はもう帰っていいぞ」
そう告げれば、少し名残惜しそうにしながらも、精霊は去っていった。
一人になったシラーフェは認識阻害をかけ直し、足を向ける。洞窟の中へと。
気配を潜め、足音を殺し、洞窟の中を進む。少し進んだ先に見張りらしき男が二人立っていた。
その態度は気怠いもので隙だらけ。侵入者が来ることなど、欠片も想像していないようだ。
好都合、と土の剣を構え、瞬きの内に見張りへと迫る。薙いだ剣を右側の男に叩きつけ、気付かれるより先に左側の男を柄で昏倒させる。ほとんど同時に倒れる二人を横目に先を急ぐ。
意識を奪っただけ。相手が犯罪者であったとしても、無闇に血を流したくなかった。
今のシラーフェの目的はメイーナを見つけて連れ帰ること。この犯罪組織を壊滅させることにない。
それは他の者の仕事だ。何より不法にヒューテック領に侵入している身で目立つことはできない。
なるべく誰にも目撃されず、目的を果たしたらすぐに帰るつもりだった。
慎重に歩を進め、障害になりそうな者は気付かれるよりも先に無力化する。そうして洞窟の最奥、いくつもの牢屋が並ぶ空間へと辿り着いた。
牢屋の中には、どこからか連れてこられたらしき人々がそれぞれ入れられている。
横になったまま微動だにせず、生きているのか死んでいるのか分からない者。全身痣だらけで痛苦に喘ぐ者。人攫いにバレないように押し殺して泣く者。絶望した目で座り込む者。
種族は様々、共通しているのはみな、亜人であることだ。
捕えられた人々を注意深く見て、メイーナがいないか探す。
中には魔族も少なくない人数が捕らえられており、胸に痛痒を覚えた。身に覚えのない、おそらくウォルカ以外から連れてこられた者だろうが、守るべき民が受けた痛苦を思い、胸が軋む。
努めてそこから目を逸らしながらも、余裕があれば、彼らのことも助けようと胸に誓う――。
「っ……!」
それを目にした瞬間、冷静に努めて考えていたことがすべて吹き飛んだ。
見開いた赤い瞳が複雑な感情を宿し、伸ばした指先から魔力が揺れる。牢屋の鍵が壊れると同時に中へ駆け込む。冷たい地面に横たわる小さな体に駆け寄り、抱き上げる。
「メイーナ……っメイーナ、俺だ。シランだ……助けに来たぞ、メイーナ」
その肌には痣や擦り傷がいくつも刻まれ、愛らしい顔立ちには痛々しさが目立つ。
シラーフェが結い直した髪は乱れ、片方はほどけてしまっている。そして――乱れた髪の隙間から生えているはずの二本の角が根元から切り落とされていた。
魔族の角は魔力向上の薬として高値で取引されている。奴隷として商品にならない者は角を折って、最安値で売るのだとか。
「シラン…さ、ま。たすけに、きて……くれたの?」
微かに鼓膜を震わせた声に息を呑んだ。感情の波で揺れる瞳に、メイーナは力なく笑いかけた。
儚げな笑みに嫌な予感が過ぎり、思考が上手く纏まらない。乱れた感情は冷静さを奪い、紡ぐ言葉を迷わせる。
結局、口に出せたのは「ああ」というなんとも情けない頷きだけだった。
「シラ、さま……あのね、おねがいが、あるの」
「なんだ? 何でも言ってみろ。俺が叶えてやる」
早鐘を打つ心臓から意識を逸らすように口早にそう言った。
その裏で本能が告げている。聞いては駄目だ。聞いてしまえば、必死に意識を逸らしているものが現実になる。
狂おしいほどの確信が鳴らす警鐘は、メイーナが見せる恐ろしいほど美しい笑みに搔き消されてしまう。
「ゆめ、かなえて…ね。みんなが、しあわせな……世界。シラン様が…幸せな、世界。…っ……やくそく、だよ」
「何を、言ってるんだ。メイーナも……っメイーナも幸せになるんだ。これから……ずっと、誰よりも幸せにっ」
「う、ん。わたしは、いっぱい……いっぱい幸せだよ。シラン、様……だいすきぃ」
メイーナは笑った全身に刻まれた傷など感じさせない、幸福を詰め込んだ無邪気な笑顔だった。
今まで何度も見てきた笑顔。これから何度も見るはずだった笑顔。
「さいごに、会えて…よか、った……ぁ。シラン、さ…は……わた、しの……騎士様、だよ」
「最後じゃない……最後じゃない、だからっ」
「えへへ、みんな……に、自慢……」
「いくらでもすればいい、メイーナ……ぁ、っ」
メイーナの体に力が失われる。薄暗い牢屋の中でさえも、明るく照らす笑顔を浮かべて、それきりメイーナは動かなくなった。
目を逸らし続けてきた感情が溢れ出し、目頭を熱くする。メイーナを思う心が熱となってじんわりと赤目を濡らし、反するように胸が冷えていく。
〈憎くはないか?〉
何故、メイーナが死ななければならないのか。どうすれば、メイーナは死なずに済んだのか。
後悔に苛まれ、理不尽への疑問に蝕まれる。
何が悪いのか。誰が悪いのか。ふと過ぎった疑問に打ち震える何かが奥の奥にあることに気付いて――
〈彼女を殺した者に報復を。人族に復讐を〉
ああ、そうだ。人族が憎い。メイーナを殺した奴らが憎くて堪らない。
シラーフェの心を満たす笑顔が永遠に失われたという事実に疼く感情。それに呼応した何かがシラーフェを黒く染め上げる。
〈憎い。憎い。憎い憎い。憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い、憎め!〉
噴き出すのはシラーフェのものではない何か。
メイーナの死に動揺した隙を突いて、暗く澱んだものがものが心を満たしていく、
生の温かさがどんどん失われていくメイーナの体。実感させれる死が呼び起こされた声に抗うことをできなくさせる。そんな意識すら湧かずに沈んでいく。
〈人族を滅ぼせ!〉
低い呼び声に誘われるようにシラーフェは意識を手放した。