48「奇妙な紋様」 挿絵有
「原因の調査と言っているけれど、原因自体は分かっているのよ」
そう口火を切ったラピスの続く言葉が必要ないくらい明確に肌を逆撫でる感覚が伝えてくる。
ラピスの指し示す方向にあるものが与える不快感は実に形容しがたい。
角を通して伝わるマナの気配に胸がざわつく。〈復讐の種〉を前にしたときほどの強さはないものの、それに近い不快感と嫌悪感がある。
「あれは……なんなんだ」
「それが分かっていないからこその調査、よ」
まだ距離が離れているせいか、その正体を掴み取ることは難しい。伝わってくる不快な気配への心当たりはシラーフェの中にはない。
「うちは戦闘に特化してる子が少ないから、なかなか本腰を入れて調査できなかったのよねぇ」
水の精霊は防御や治癒などの補助的な能力に特化している者が多い。
水が含むマナが補助魔法に特化したものであることが理由だろう。
シャトリーネほどの実力者ともなれば、攻撃魔法も達者に使えるだろうが、補助魔法の方が得意なのは変わらないだろう。
「だから――」
ラピスの視線がシラーフェを通り過ぎて、その奥を見る。
視線をなぞるシラーフェの目に映るのはサクマとその横を楽しげに泳ぐロキンだ。表情を見るにある程度考えは纏まったようだ。
「あんたたち二人が落っこちて来てくれてこっちは助かったわけ」
二対の視線を受け、サクマは不思議そうな顔で合流する。
「考える時間くれてありがとな。お陰でちゃんと整理がついたよ。……で、何の話?」
「勇者とま……魔族が落っこちて来てくれて、アタシたちは助かったっていう話よ」
「それなら落ちた甲斐があったかもな」
冗談めいた口調で返すサクマはすっかり元の調子を取り戻している。
「勇者とま、魔族が揃って現れるなんて幸運ってヤツよね」
うんうんと頷く。言い淀んだのはきっとシラーフェのことを『魔王族』か『魔王』と呼びそうになったのだろう。
シランと名乗り、素性を隠しているシラーフェに配慮してくれたのだろう。心中で感謝を告げる。
「んで、あんたたちには、ここの奥にあるものが何なのか見てきてほしいの。可能なら排除、無理ならすぐに撤退して、状況を報告すること!」
話を聞きながら意識は不快な気配を届けるものへ向ける。
先にあるそれに角が警戒を訴える。正直近付きたくないが、水精の女王への借りをすぐに返す機会を与えられた以上、我が儘は言っていられない。
それに角が激しく警戒を訴えるものが、この美しい海の中に在り続けることは許容できない。
シラーフェが動くことで、この状況を改善できるのならば、不快な場所に飛び込むことへの理由としては充分だ。
「この先には活性化した魔獣がうじゃうじゃいるんだから、気をつけなさいよ。アタシも補助はするけど、危険だと思ったらすぐに撤退するからね!」
「承知した」
「分かった」
それぞれの返事も受けるラピスは大きく数回頷いたのち、両手を広げた。
周辺のマナがラピスの意思に応えて揺れ動き、青く光り輝く。水の精霊を思わせる輝きに満たされる空間に思わず魅入られる。
「精霊の加護を。ウィシュア・アキュア・ピテュア」
瞬くマナがシラーフェとサクマを包み込み、その身に水の護りを与える。
「精霊の祝福を。ティンクルヴォルスター、アキュアリカバネーシュン」
さらにマナが二人を包み込み、二つの魔法がかけられる。身体強化魔法と自動治癒魔法だ。
上級魔法をこうも練度高く、三つも展開させてなお、ラピスは涼しい顔をしている。さらに複数の魔法を行使する余裕すらありそうだ。
「さて、行くわよ」
小さくも偉大な精霊に支えられ、シラーフェとサクマはその先へ踏み出す。
ラピスの魔法で軽くなった体の感覚を確かめ、二人はそれぞれ剣を抜く。
片や、虹色の輝きを備えた漆黒の剣。龍の息吹を纏う魔龍剣アルスハイルムリフ。
片や、他の寄せ付けない光を魅せる純白の剣。聖国の勇者に受け継がれる聖剣アスペンテリコス。
白だけを映す輝きにシラーフェの中に種が疼く。サクマとともに間に慣れつつある先祖の主張はもはや戦闘の邪魔になり得ない。
「へえ、シランの剣、かっこいいな」
「カザードで打ってもらったものだ。俺も気に入っている」
「悪くない剣ね。アタシも好きよ、その剣」
愛剣が褒められ、悪い気はしない。危険な場所に踏み込むにはやや緊張感の欠けるやりとりではあるが、思いつめるよりも強く意識を向けられる。ラピスの身体強化と別の意味で体が軽い。
意識せずとも角が周辺のマナの状況を伝えてくれる。相も変わらず、不快感を与えるマナがざわつかせるよう肌を撫でる。
強いて言うなら澱んだ空気が与える感覚に似てはいるが。
「――右から来る」
マナから捉えた気配を捉えた気配を伝えれば、サクマが剣を構える。
剣を始めたての、ほとんど素人の構えだ。師匠辺りの教えを忠実に守りながらも、自分がやりやすいように上手く崩している。剣は使い慣れてなくとも、生来の運動神経の良さが窺える。
シラーフェはサクマに遅れて構えを取る。周囲のマナの質が悪いせいか、魔龍剣の纏う虹光が弱い。
「――」
聞き覚えのある咆哮が聞こえ、圧縮されたマナが放たれる。
先に動いたのはシラーフェだ。水を強く蹴って飛び出し、マナ砲を前に立つ。
迫る気配に意識を向けることなく、己の感覚だけに任せて剣を振るう。
一息で切り裂かれるマナ砲の横をサクマが駆ける。散り散りとなったマナの欠片の中を駆け、サクマはその先にいる存在へ刃を浴びせる。素人丸出しながら、不思議と見せられる剣撃である。
「っ――」
やはり聞き覚えのある絶叫が聞こえ、周囲の水が大きく波打つ。
攻撃を受けた者が痛みで身を捩っているらしい。
「スィコルソ」
ラピスが生み出した水の流れが押し寄せる波を相殺する。
二つの勢いがぶつかり合う余波を受けて態勢を崩すサクマの体を支える。
「わりっ、ありがとな」
「攻める。援護しろ」
要点だけ伝えて、サクマの返事を聞くより先にそれと向かい合う。
その背にはサクマの信頼を負い、その瞳は敵を見据える。赤目をわずかに開き、小さく笑う。
「そうか。通りで聞き知った声なわけだ」
瞳に収まるのは鮫の魔獣である。鮫の魔獣自体はそう珍しくはない。
ただ背びれを切り落とされ、片目を潰された鮫の魔獣は一体しかいないだろう。
落水した日、サクマを襲おうとしていた鮫の魔獣であった。
「まだ生きていたとはな。ここで会ったのも何かの縁だ。俺の手で引導を渡してやろう」
深く息を吐き出し、構えた剣の先で鮫を見据える。鋭い目と見つめ合い、同時に仕掛ける。
シラーフェは漆黒の剣を振るい、鮫は鋭い歯を見せて迫る。
「スィロウア」
機を見計らったラピスの魔法が鮫の動きを遅くさせる。的確な援護に感謝しながら、シラーフェは淡く虹色の光に帯びる魔龍剣で鮫を斬った。出血が美しく水の中に流れる。
一先ずサクマとラピスをこの位置に待機させて、先にシラーフェが確認のために動く。
常に角で周囲のマナを読み取り、慎重に歩を進める。一歩、一歩、異変があれば、すぐに退けられるように回避の方に意識を向ける。緊張感が胸を占め、長く感じる短い距離を歩き、終わる。
不快感が増すばかりで、他に異変が起こることはなかった。
「これが魔獣を活性化の原因か。魔石に似てはいるが……」
思考を回すのは中断し、待機したままのサクマの方へ目を向ける。
「一先ず来ても問題はなさそうだ。慎重にな」
頷きで応えるサクマはシラーフェがそうしたように慎重な足取りで合流する。
こちらもまた問題は起きず、無事に合流できた。マナの動きにも不審な点はない。
「これが原因……? ただの綺麗な石っぽいけど」
「精霊石や魔石の類じゃないわね。少なくとも自然に生まれたものじゃない、造物ね」
視線の先には、何の変哲のない赤い色の石が岩に嵌め込まれていた。
赤い石が嵌め込まれる部分は不思議な形で削られており、意思に翼が生えているように見える。
自然に削られたとも、人為的に削られたとも見える。ただ石を嵌めるのは誰かの手によるものであることは疑いようもない。ともあれ、魔道具や魔術陣の類があると想像していた身としては少々拍子抜けである。
「マナをぶつける。念の為、防御姿勢を取れ」
観察しているだけでは埒が明かないと魔龍剣を構える。掌を通して剣にマナを送り込み、帯びる光を刃に変えて、赤い石に不可視の斬撃を放つ。
斬ることよりも、マナをぶつけることに重きを置いた一撃は赤い石にぶつかり、マナを散らした。
星屑を思わせる輝きを残して消えるマナの動きを注視する。特に不審な点はないように見える。
確認の為にラピスの方へ視線を遣るが、彼女も同じ意見のようであった。
強いて問題点をあげるとするなら、シラーフェの剣撃を受けても傷一つついていないことだろうか。
それも強固な防御がかけられていたとすれば、すぐに消える不審だ。
この赤い石を、誰かが特殊な目的を与えて配置しているのだとしたら、害されないような仕掛けを施していることは充分に有り得る。
「俺もぶつけてみていいか?」
「そうだな……」
種族の違い。回数、何らかの作用が働き、変化を生み出す可能性を考えながら頷く。
目で見ても正体が分からないのであれば、多様な接触の仕方を試すのも一つの手である。
「はぁ!!」
聖剣の切っ先から斬撃が放たれる。ぱっと見は同じでも、細かく言えば、シラーフェのものとは経路の違う斬撃。
純白の光を纏う斬撃が齎す結果はシラーフェが放ったものを大きく変わらない。
同じように細かな光を散らして消え去る。赤い石に小さな傷を与えて。
「……なんの変化もねえな」
「一度触れてみる」
得体の知れない者に触れる事への忌避感はあるが仕方がない。
ラピスの魔法に守られている状況ならば、最悪の事態に陥ることはそうないはずだ。
慎重に赤い石へ近付き、慎重に手を伸ばす。不気味に輝く石へ触れる直前、赤が瞬いた。
咄嗟に距離を取り、赤い石の動きを注視する。石自体に変化はない。
「シラン、大丈夫か?」
「問題ない。……あれは魔術陣、いや、もっと奇怪な……」
赤い光を帯びる線が赤い石の周辺に伸びている。それは魔術陣に酷似しているが、別物が混ざっているのか、より複雑な紋様を描いていた。シラーフェは魔術に明るくない。
この魔術陣に与えられた役割も、別に混ざる奇怪な紋様の意味も読み解くことはできない。
「ラピスはあの魔術陣を読み解けるか?」
「んー、アタシたち精霊が使うのは魔法陣の方だから……。女王様なら別だけれど」
魔族よりも感覚的に魔法を使う精霊にも、魔術陣を読み解くのは難しいらしい。
「サクマはどうだ?」
魔術に関して、魔族も精霊も専門外である。
魔術は人族が生み出した技術であり、異世界人であるサクマもその一端に触れてはいるだろう。
「魔術を使ったことはあるけど、感覚的つーか、神の加護のお陰で意識しなくても使えちまうんだよな」
エーテルアニス神の加護は様々な面で勇者の力に補正を与えるもののようだ。
魔術は術式を陣として組み立ててから発動するものという話だが、サクマは術式を組み立てる工程を飛ばして魔術を行使しているらしい。感覚的に言えば、魔法に近いのだろう。
こちらに来て日の浅いサクマが達者に読み解けるとも思っていなかったので落胆は薄い。
「俺の知ってる魔術陣とは違うってくらいことしか……変な模様が入ってる気が、する。多分……」
「お前もそう思うか」
自信がないのか、サクマの声は尻つぼみになっていく。
シラーフェの呟きに消えかけの自身が刺激されたサクマの表情が晴れる。
「やっぱ、そうだよな! てか、シランもちゃんと魔術陣に詳しいじゃねえか」
「詳しくはない。数度目にしたことがある程度の知識だ」
「俺も同じようなもんだからいーんだよ。俺が知らなさすぎなんだけどさ」
言いながら、サクマは展開された魔術陣に目を凝らす。
「流派とかで微妙に変わるって話は聞いたことあるな。その違いか?」
人族の生み出したと言われる魔術は今や、他種族にも浸透している。種族の違い、人族の中にも国の違いによって術式の構成や使う文字が異なるという話だ。
今回の模様に関しても見慣れない流派のものだとも考えられる。
「流派というより時代の違いかしらね。だいーぶ前に似たような紋様を使っている時代があったわ。今じゃほとんど見かけることはないから、あんたたちが見覚えなくても仕方ないわね」
「いや……見覚えはあるな」
引っ掛かりを覚える感覚で、ラピスの言葉に否定を返す。
見覚えはある。それも近い記憶の中で。
その正体を探るように内側に意識を向ける。選王の儀で選ばれて以来、怒涛の勢いで流れていく日々の中から微かな欠片を見つけ出すのに難儀する。
光る魔術陣はその時間を与えてくれる気はないらしく、陣の中に新たな紋様を描く。光量も強くなり、術式を展開させようとしていることが窺える。
「サクマ、合わせろ!」
考察は後回しに、シラーフェは咄嗟にサクマに呼びかけた。今は展開される術式を阻止することが先決だ。
ほとんど同時に剣撃に放つ。剣先から放たれる不可視の刃と純白の刃。
互いに本気を込めた一撃は赤い石に当たり、その身を砕く。赤い石は粉々に砕け散り、魔術陣の動きも同時に止まる。
嵌め込まれていた岩の方はかなり強固のようで、二本の跡を残しただけだ。
ともあれ、本気である赤い石は砕かれ、角が感じ取る不快感も消え失せている。
「一先ず目的は果たせた。一度戻って……」
踵を返し、砕けた赤い石に背を向ける。瞬間、一際強い赤が放たれ、景色が塗り潰される。
反射で振り返るシラーフェを前に砕けた赤い石が浮かび上がる。
未だ消えない魔術陣の中に配置されていく姿に、シラーフェは再度剣を構える。
その姿を嘲笑するように魔術陣がまた新たな紋様を描き出した。
「シラン!」
サクマに腕を掴まれたと同時に体が大きく下がる。地面が下がったのだと認識するよりも早く、シラーフェの体は宙に投げ出される。