46「飛花落葉」
光量の足りない照明が淡く空間を照らしている。
最低限掃除は行き届いているものの、年季の入った壁や天井は隠せない。時刻は夜を回っているというのに他の客は見当たらない。
隙間風吹く寂れた酒場でライは一人、酒の入ったグラスを傾けていた。
一行は一先ず旅を続け、予定通り経由地であるこの村で宿を取った。
ライはいつもそうしているように夜中にこっそり宿を抜けてきた、わけではなく、今回はきちんとソフィヤに一言告げてきてから出てきた。
川に落ちたシラーフェの安否は未だ分からない中で、さらに不安を重ねる真似はしたくない。
オディスを含めた騎士たちは護衛の任を果たせなかったことへの責任で揺れ、ユニスとエマリもまた不安で揺れている。不安定な空気は些細なことで決壊してしまうことだろう。
一番不安定なエマリのことは同じ女性であるソフィヤに任せてある。
「あんた、旅行者だろ? こんな寂れた酒場に来るなんて物好きだねぇ」
二杯目となるグラスを置いた店主に声をかけられ、思考を現実に引き戻す。
この店の従業員は恰幅のいい女性店主一人だけのようだ。店内はライと女性店主の二人きりの状態だ。
質の良い服を纏った男が、場末の酒場に来れば、興味を持たれても仕方がないだろう。
「美人な店主と二人きりで話せるんだ。来るには充分すぎる理由だろ?」
「こんなおばさんが美人なんて、もう酔ってんのかい?」
「年齢は美しさを損なう理由にゃならねぇぜ。刻まれた皺だって、重ねてきた時間を歌う美しい装飾だ。お姉さんの年の重ね方はオレの心を囚えてやまないほど美しい」
グラスを置くその手を見ただけでも、彼女が仕事を捧げてきた時間が分かる。働き者の手だ。
手入れの行き届いた綺麗な手も美しいが、水仕事が多く荒れたこの手も美しく思う。
「褒めたって何もでやしないよ」
「当然の事を口にするのに褒美はいらねぇさ……と、もう一杯」
琥珀色の液体を喉に流し、空になったグラスを差し出す。
安い酒だ。風味なんてあったものではなく、アルコールの味が濃く舌先に残る。
味の質が悪くとも、好みに齎す熱は同じ。味わうのではな酔いたいライには安酒がちょうどいい。
「ペースが速いんじゃないかい?」
「男には無茶な飲み方で酔いたいときもあんのさ」
「なんだい、女にでもふられたのかい? あんたほどの色男ならすぐに次が見つかるさ」
事情を話すわけにもいかないので、「そんなところ」と曖昧に頷いて次のグラスを傾ける。
実際はまったくの見当外れ。そもそもライは女性にふられて落ち込むことはない。
本気の愛を与えてやれないライの傍にいるより、心底愛してくれる者に行った方が彼女たちは幸せになれる。
王族としての立場がある以上、ライは女の子たちに楽しい時間を与えるくらいしかできないのだから。
「飲める量は分かってるから、安心してくれていいぜ。迷惑はかけねぇよ」
言いながら、おかわりを求めれば、疑いの視線を向けられる。
酔っ払いのその手の言葉は往々にして信用してもらえないものである。
とはいえ、今回のライの言葉に嘘はない。時折、量を見誤って泥酔することもあるが、今回は嘘はない。
なにせ、どれほどアルコールを喉に通そうとライの冷静さを消えていない。
酔いたいときほど、安易に酔えないものである。小さく息を吐く。
「まあ、ゆっくりしていきな」
ライの様子にそっとしておくべきと判断して、店主はそれだけ言って静かに離れていく。
女性を話す時間もライにとっては憩いなので、このまま話してもよかったが、気遣いは無碍にはすまい。
酒を喉に落とし、同時に思考を内に向ける。一人で寂れた酒場を訪れたのはこれが理由だ。
自分を知る人から離れ、周りを気にせず、一人で考える時間が欲しかった。
ライの脳裏にあるのは、シラーフェが川に落ちたときのことだ。
騎士の中に裏切り者がいる。その考えを肯定するように騎士の誰かが放った魔法が被弾して、シラーフェは川へ落ちることとなった。
あの場では誤射として片付けられたが、実はそうではないとライは考えている。
あの瞬間、ライは“誤射”した騎士の姿を確認していた。
アンフェルディアから発つ前、ライは同行する騎士のことは把握している。その記憶から件の騎士の所属を引っ張り出し、浮かんだ可能性。
有り得ないと切り捨てられないのが難儀なものだと。
誰の予想も裏切って、次期王に選らばれたシラーフェ。まだ公にはなっていないながらも、現時点で把握している者の仲にも、それを快く思っていない者もいる。
少なくとも二人は心当たりがある。その心当たりと騎士の所属と重なるものがあったからこそ、ライの心中に苦いものを落とす。ライにとって、もっとも優先すべきは弟妹のこと。
二人を守るためなら、他を切り捨ててもいいすら考えている。けれど、それは兄として己に課している役割ゆえであり、他をどうでもいいと思っているわけではない。
弟妹に注いでいるのと同じ情を、ライは他の家族にも抱いている。脳裏に描く人物を思い、湧き立つ複雑な感情を酒とともに呑み込む。
長兄に報告するべきか、確証を得るまで胸に秘めているべきか。
理性で縛られることよりも、情に踊る生き方をしてきたライは狭間で揺れる。
「いらっしゃい」
来客を告げる店主の声に我に返る。
何気なく扉の方を見たライは驚きで目を見開いた。
「リオン様、こちらにいらっしゃったんですね」
立っていたのはユニスだ。外であることを配慮してか、ライが普段使っている偽名を口にする。
驚きを映し出していた顔にすぐに笑みを乗せたライはグラスに残る酒を呷る。
「迎えが来たみてぇだからお暇すんぜ。釣りはいらねえから」
数枚の金貨を置いて立ち上がる。そのまま、ユニスの方に手を回しつつ、店主へ手を振る。
「ちょっと、流石に多すぎるよ」
「美人と話せたお礼だよ。んじゃ、またね」
ひらひらと軽薄に手を振りつつ、半ば強引にユニスを店の外に連れ出す。
冷たい夜の空気に酒の熱に浮かされた体を晒しながら、肩を組んだまま歩く。
「んで、なんか問題でも起こったか?」
しばらく歩いたのちに問いかけた。
焦った様子はないので、火急の用事というわけではないだろう。表情的に厄介事が起こったわけでもなさそうだと仄かに抱いていた緊張を解く。
「いえ、そういうわけではなく……」
ユニスはらしくもない態度で、言葉に迷って言い淀む。ユニス自身にも、ライの許を訪れた理由は分かっていないらしい。迷子の幼子のような姿に口元も緩める。
普段のユニスは同い年とは思えないほど、しっかりしており、今のユニスは同い年に思えないほど幼く見える。
「シフィのことか?」
問いにユニスの赤目が大きく揺れる。
言葉よりも多弁に感情を映し出す瞳には確かにシラーフェの存在があった。
いや、わざわざ言葉にする必要もなく、ユニスの中はシラーフェの存在で埋め尽くされているだろう。
だからこそ、傍にいない今、迷子のように不安そうな顔をしているのだ。
「シラーフェ様はご無事でしょうか……」
「前も言ったろ? 心配はいらねぇ、シフィはマナに愛されてるからな。それに」
迷いの末、ようやく口にされた問いへの返事をライは一度切った。
ユニスの視線を感じながらも、あえてそちらには目を向けず、平静に努めて続ける。
「それにシラーフェを死なせはしないだろうさ」
何がとまでは口にはしなかった。
〈復讐の種〉の存在は選王の儀に参加していた者――王族のみが知っている情報だ。影たちにすら詳細は知らされていない。
ライの一存で話していいものではないだろうし、勘づいてはいるユニスにあえて暈す表現を用いた。
「まあ、ユニスが本当に心配してんのはそこじゃねぇんだろうけどさ」
「ベルフィア様も気付いておられるんですね」
「ユニスには負けるけど、オレもシフィを見守る会の一員だからな」
選王の儀以来、シラーフェは変わった。あのことがあってから目的を失い、当てもなく彷徨っているようであったシラーフェが進むべき道を見つけた。
それ自体は喜ばしいことではあるのだが、今のシラーフェを見ていると不安の方が先立つ。
「私は恐ろしいのです。いつか、シラーフェ様が遠くに……誰の手にも届かない場所に行ってしまうのではないかと」
ユニスが感じていることを、ライもまたずっと感じていた。
水洋都市へ向かう道中、シラーフェと話したことが思い出される。
魔族と人族が分かり合うに共通の敵を用意するのが手っ取り早いとライは語った。今思えば、間違いだった。
あの話をしたのはシラーフェを慰める意味合いが強かった。
長年、シラーフェが掲げている夢を成す難しさを説き、実現しない今を仕方のないものだと語り聞かせるのが目的だった。
しかし、ライは見誤った。あの日、ライはシラーフェの覚悟の後押しをしたのだ。後押ししてしまったのだ。
「……それがシフィの望むことなら、それでもいいとオレはそう思ってる」
絞り出すようにそう言った。否定したい気持ちを、何が何でも止めたい気持ちを押さえて言った。
シラーフェの抱えたものを知っているライにはあの優しい弟がしようとしていることがなんとなく分かる。
あれは後世に受け継いでいいいものではない。それを理解していて、感情だけで止めることはできない。
「オレは最後までシフィの味方でありたい」
「それは……私もそう思っております」
「んじゃ、オレとユニスはシフィの味方同盟の仲間っつうことで」
組んだままの肩を引き寄せ、ライは悪戯っぽく笑う。ここだけの話、ライは諦めが悪い。
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濃藍の瞳は物思いに伏せらせ、長い睫毛が影を作る。
この青籃宮を訪れた二人の客人は用意した部屋で休んでもらっている。
落水してすぐは水に翻弄され、その後も不慣れな水の中を長いこと泳いでこの宮殿まできた。そうは見えなくても、体力をかなり消耗していることだろう。
明日から頼み事を果たしてもらうためにも、体力を万全に回復してもらうことが先決であった。
「それにしても、まさかシフィがあれを受け継ぐなんてね」
呟き、シャトリーネは瞼を微かに震わせた。
アンフェルディアで選王の儀が行われたことは、水のマナを通じて知っていた。
誰が選ばれたかまでは分からず、他国のことと正式な通達が来るまでは知らぬことと振る舞うつもりだったが、こんな形で知ることになるとは。
無垢な魂に寄り添う黒き澱み。対比する輝きとそれを縛るものの存在は確かにシャトリーネの脳裏に残っている。
「ディウマテージ・アムアンマ」
口にしたのは魂を縛る魔法の詠唱だ。無論、魔法を発動させるために口にしたのではない。
シラーフェの魂と四〇〇年前から受け継がれている種を結び付けている魔法がそれだ。
練度が低く、魔法は中途半端な効力しか発揮できていない。
あれでは魂を縛ることはできても、肉体にまでは及ばない。死せば、魂は次の器に受け継がれる、シラーフェの魂とともに。
「それこそ、あの子の狙いなのかしらね」
きっとシラーフェは四〇〇年続く因縁を終わらせるつもりなのだ。
縛魂の魔法は保険だ。魂を消滅させる算段をつけるまでにシラーフェが死したときへの保険。
次代へ受け継がれたとき、シラーフェの魂が寄り添い、子孫を守れるように。
「アビス、貴方はどうして、優しいあの子を選んだの?」
問いに応えはない。それもそのはずで、問いをぶつけた相手はすでにこの世に亡い。
千を超えるほど昔、想い合っていた二人は殺し合い、片方が命を落とした。その遺体は彼を信仰する者に埋葬され、墓標の代わりに城が築かれた。
死してなお、彼の魂は信仰者の子孫へ寄り添い、生き続けている。
神としてずっと見守り続けている。それはエーテルアニスも同じ。
「世界が変わろうとしている。二人の意思がどれほど介在しているか分からないけれど……私はあの頃と同じ、最後まで見守るわ」
四〇〇年ぶりにルーケサとアンフェルディアを取り巻く運命が大きく動こうとしている。
過去と重なる流れにシャトリーネは次代の魔王と今代の勇者を思い浮かべる。
種に侵されていない魔王と、この世界に染まっていない勇者。偶然が重なり、邂逅を果たした二人。
ここで生まれた繫がりがこの先の未来をどう導くのか、今はまだ分からない。
けれど、まだ少し見ていたい。故に二人に頼み事をした。
「ラピス」
小さな呟きに応えて、周囲のマナが揺れて形を成す。
それは掌に収まるほどの小さな少女だ。シャトリーネと同じ色の髪と宝石のような瞳を持つ活発そうな少女である。
「あたしに何か御用かしら、女王様」
スカートの裾を摘まみ、小さな少女――ラピスは恭しく礼をする。
使いに出したイオスとピネルと三姉妹である彼女は、大きな目でシャトリーネを見上げる。
「貴方に案内役を頼むわ。シフィとサクマのこと、お願い」
「ああ、あの二人ね。マナは上等だけれど、アタシの好みじゃないのよねぇ。ほら、なよなよしてるじゃない?」
「お願いよ。貴方にしか、頼めないことなの」
あまりにも遠慮のない言葉に苦笑する。
精霊は自由な存在だ。女王たるシャトリーネでも完全に従わせることはできない。
精霊は自ら望むものにのみに忠実に従う。それは時として、本人にしか分からない感覚的なものであったりもする。
「分かっているわ、女王様。あの子たちの魂の、ずっと奥の方にある輝きは私も嫌いじゃない。女王様の考えもちゃあんと分かってる」
そう言ってラピスは魅惑的に微笑む。
シャトリーネの手足として動いてくれる精霊たちの中でも、付き合いの長いラピスはすべてを理解していると笑う。
最後は「仰せのままに」と恭しくお辞儀する。そこへ白い影が飛び込んできた。
「ロキン、貴方も行きたいのね」
高く鳴き声をあげて、白イルカは肯定する。
余程、あの二人を気に入ったらしい。微笑み、同行を許可する。