42「一分咲き」
すぐ傍で爆発音が響き、車体が大きく揺れた。恐怖のままにしがみつくエマリを庇うように抱き締めて衝撃をやり過ごす。それで終わりならばよかった。
車体が一際大きく揺れ、傾く。どうやら先程の爆発で地面が崩れたらしい。
片側の車輪が宙に投げ出されてしまっているらしい。ちょうどシラーフェがいる側の車輪であり、足元が宙に浮く不安定さを味わう。
一歩踏み出しただけでも、辛うじて保っている均衡が崩れてしまいそうだ。
馬車は軋む音を奏で、その身が少しずつ川の方へ傾いていることを感じ取る。
「ユニス、エマリを」
少しでもこちら側の重量を減らすためにエマリをユニスへ渡す。
車体の揺れに合わせて慎重に動いたつもりだったが、重心を変えたのがまずかったらしい。
なんとかエマリは受け渡せたものの、足元が一気に下がる感覚があった。
「シラーフェ様も、早くこちらに」
「いや、今動けば、みな落ちてしまうだろう」
差しのばされた手を拒否すれば、見開いたユニスの瞳が揺れた。
感情を露わにする姿は珍しいと考えながら、下を一瞥する。この高さで、下が水ならば、死ぬ事はないだろう。
「エマリのことを任せた」
「シラーフェ様……っ」
それが最善と信じて、シラーフェは自ら川へ飛び下りた。
「ウェンド」
風魔法で落下の勢いを消しながら着水する。完全に消しきれなかった勢いの中、シラーフェの体は深く水の中に沈んでいく。
水を吸った服が重く、絡みつく水のせいで上手く動けない。
ただえさえ重い貴族服が水を吸ってさらに重くなり、少しでも身軽になるために上着を捨てる。
足を纏わりつく上着がなくなり、少し身軽になったのを良いことに水面を目指して泳ぐ。
水面に出たところで崖を上るのは難しいが、一度呼吸を整えて状況の確認をしたい。
上を目指すシラーフェの体を横から奔流が吞み込んだ。循環流にでも巻き込まれたか、強い水の流れに為す術もなく、シラーフェは翻弄されるしかない。
最初の勢いに口から息が抜け、酸素を求めて飲み込んだ水で噎せる。
咳すらまともにできない環境で、さらに息が抜ける。苦しみ喘ぐシラーフェを嘲笑するように奔流に踊らされ、意識が途切れた。
〈……え、応え〉
地を這う憎しみの声が脳を揺らす。ここ数ヵ月ですっかり聞き慣れた声とともに胸の奥が疼き、心臓とは違う拍動が存在感を増す。
朧気な意識の隙を突いて、シラーフェ自身を奪おうとする存在に奮い立たされ、覚醒する。
「……っ…は、はぁ……っ息が、できる」
未だ水中だというのに陸地と変わらず呼吸ができる。訝しむ視界に青い光がちらついた。
「お前たちが助けてくれたのか?」
肯定するように青い光――水の精霊たちが点滅する。
呼吸できるようになっただけではなく、体が軽い。水に絡みつかれるような感覚がなり、踏みしめる地面がないことを除けば、陸地にいるときと変わらない姿で佇む。
そのすべてが周辺を自由に泳ぐ水の精霊たちの計らいだ。
「感謝する」
お礼に、と角からマナを排出する。その中にもマナは潤沢にあるので、魔臓の残量を気にせず、多めのマナを吐き出した。
その間、視線を巡らせ、周囲の状況を確認する。
物らしい物はなく、どこまで流されたのか判断することはできない。どちらに行けば、元の場所に戻れるかも分からない状態だ。
目印のない場所を下手に動けば、状況を悪化させるだけだ。
「シャトリーネ様のもとへ案内してもらえるだろうか」
この辺りの水域は水精の女王、シャトリーネ・アムフィ・シレーヌの領域だ。
意図しない形とはいえ、突然の訪問への謝罪と挨拶。そして、ライたちと合流するための助力を求めたい。
シラーフェの申し入れを受けると点滅で示す水の精霊が先を行く。
複数の青い光が彩る道を辿る。すぐ横を光が美しく飾る光景は壮観で、エマリが見たらきっと喜ぶだろうと薄く笑う。
精霊たちが水の抵抗を減らしてくれたお陰で、難なく水の中へ進めている。
精霊たちは下へ下へと進み、青い軌跡を辿って同じく下へと進んでいく。
と、不意に疼いた気がした。シラーフェが意識を取り戻すきっかけとなった存在がいつもと違う疼きを届ける。四〇〇年間、蓄えられた憎悪が一気に膨れ上がる。
シラーフェを染めるのではなく、ルヴァンシュへ怒りが堪えきれずに溢れたという表現が一番近い。
普段とは違う様子に思わず止まるシラーフェの周囲を精霊が不思議そうに漂う。
「すまな……」
謝罪を口にしようとしたシラーフェの脳裏に赤が過ぎる。
まるで誘われるように視線を向けた先に漂う赤い液体を見つける。水の中、至る所にいる水の精霊があの辺りだけ一匹たりともいない。
「少し寄り道しても構わないか?」
精霊たちの返答を聞くよりも早く、シラーフェは赤い液体が漂う方へ向かう。
液体の正体は血液だ。考えるまでもない答えは近くに負傷者がいる証。流石に無視はできなかった。
この出血量で、長く水に晒されるのはまずいと急くように進む。
負傷者はすぐに見つかった。力なく水中を漂っている、あれは少年だろうか。
服装から察するに冒険者のようだ。戦闘中に落ちたといったところか。
「まずい」
気を失っているらしい少年に迫る影がある。漂う血の匂いに引かれてきたのだろう。
「ウェンド」
巻き起こした風で少年を包み込み、迫る影から引き離す。
その間にシラーフェは剣を抜いて、斬りかかる。精霊たちが施してくれた祝福は剣にも有効のようで、水中でも剣撃を邪魔する感覚はない。
「浅いか……」
水には邪魔されなかったが、硬い皮膚に止められた。
少年に迫っていた影は鮫であった。その皮膚の硬さはただの鮫とは思えず、魔物か魔獣のどちらかだろう。
これだけ精霊が多くいるのだから、魔獣がいても不思議はない。
魔物化した魔獣でないことだけ願いながら、魔龍剣を握り直す。
「――――」
鮫が大きく口を開く。鋭い歯が並ぶ口の奥から、圧縮されたマナが撃ち出される。
攻撃性を持ったマナの塊は水の中を高速で駆け抜ける。当たれば重傷は免れない攻撃を、シラーフェは魔龍剣で真っ二つに斬り裂いた。
二つに斬られたマナの塊は役目も果たせず、水の中に溶けていくはずだった。
「これは……」
斬ったマナの塊がそのまま魔龍剣に吸い込まれていった。
アルベと手合わせしたときもそうであったように、マナを吸い取った魔龍剣は漆黒の剣身を虹色に輝かせる。
水の中で、また違った輝きを見せる剣を振るう。
放たれるのは先程吸収したばかりのマナを使った不可視の刃だ。
水の流れでのみ、存在を知らせる刃が鮫の体に赤い線を描く。
痛みで身を捩る鮫の動きに合わせて周囲の水が大きく揺れ動く。
その勢いは凄まじく、近くにいたシラーフェを呑み込んで渦を巻く。剣を手放さないことだけを意識に、水の流れに翻弄される。
足場が不安定なせいで、踏ん張ることもできない。
「……これはミズオルムのときと一緒だな」
龍の谷を訪れたとき、この身が高く吹き飛ばされ、不安定な中をミグフレッドに襲われた。
あのとき、足場を確保するためにしたことを思い出し、口元を緩める。
水の流れの不安定さに踊る中で、シラーフェの目は水の精霊を見る。
「力を貸してくれ」
瞬きで答える水の精霊が周囲を舞い、作られた足場を踏みしめる。
魔管にマナを通して強化した足で蹴り、渦巻く自ら脱出する。
その勢いを消さないまま、鮫へ斬りかかる。掌を通してマナを吸い上げ、輝く魔龍剣を振るい、背びれを斬り落とす。
「っ――――」
絶叫をあげる鮫の口から、マナの塊が立て続けに放たれる。
至近距離で放たれるそれらをすべて斬り裂き、剣でマナを吸収する。
いっそう輝きを見せる魔龍剣を前に突き出し、鮫の目を貫く。
再度、高い声をあげる鮫は大きくその身を捻り、シラーフェは振り落とされるように離れる。その隙を突いて鮫は後ろへ泳ぎ行く。
「逃げたか」
追うほどの執着心は持たないシラーフェは呟きとともに欲を見送る。
いづれにせよ、あの傷では長く生きられない。手負いは自然の中で最初に淘汰されるのだ。
「む、連れてきてくれたのか」
戦闘に巻き込まれないよう、風魔法で遠ざけた冒険者の少年を、水の精霊が連れてきてくれた。
こうして会った以上、捨て置くのも忍びない。水精の女王へ連れて行くのがいいだろう。
仲間の許へ帰してやることはできないかもしれないが、陸地には帰してやりたい。
自分も同じ立場であることを他所に、シラーフェはそんなことを考える。
「流石に出血が多いな。一度、どこかで休んだ方がいいか――っ」
言いながら、少年の顔を改めて見たシラーフェは小さく息を呑む。
「この顔は……」
知っている顔であった。見たのは一度きり、それも暗闇の中ですれ違っただけの人物である。
普通ならば、すぐに記憶が消えてもおかしくない刹那の邂逅。にも拘わらず、シラーフェの脳裏に刻み付けられた人物の顔。
心臓とは別のものが痛いほどの拍動を届ける。
「聖国の勇者か……これはまた数奇なものだ」
シラーフェが向かっていた水洋都市リントスには勇者が来ているという話を聞いていた。
道中、会うことがあるかもしれないなんて冗談交じりに話していたが、まさか現実になるとは思いもしなかった。
〈勇者を助ける気か?〉
憎しみを煮詰めた声が低く問いかける。内に潜む者が絶えず、「殺せ」と訴えかける。
〈捨て置けばよい。その出血ならば、幾ばくとせず命尽きるであろう。そなたが手を下したことはならぬ〉
「今日は随分饒舌だな」
〈これでも譲歩しているのだぞ……っ〉
シラーフェの態度にじれたように〈復讐の種〉の大本、ルヴァンシュが言葉を重ねる。
彼の言い分は、確かに勇者を討ちたくないというシラーフェの心情に沿ったものである。
ここでシラーフェが見捨てたとして、少年が必ず死ぬとも限らない。
きっと探しているであろう仲間たちに運良く見つけてもらえるかもしれない。
エーテルアニス神の加護を受ける勇者ならば、この状態でも生還する可能性は充分にある。
シラーフェも仲間とはぐれた身で、他者を助ける余裕はなかったと言えば、言い訳にはなる。
だが――シラーフェはループタイを外して、止血する。
少年が怪我していたのは腕のようで、どうにかループタイを使って止血できる場所であった。
これで気休めくらいにはなるだろう、と少年の体を抱えあげる。
〈正気か⁉〉
「苦しんでいる者がいれば、力を貸す。困っている者がいれば、手を差し伸べる。それは悩むまでもなく当然の行いだ」
〈相手は勇者なのだぞ⁉ 国に仇なす我らの敵だ!〉
「何者であるかは関係ない。助けるべき相手を選んでは、真に弱き者を救うことはできまい」
勇者だと言われても、今、シラーフェの手の中にいるのは普通の少年だ。
怪我を負い、出血量から顔を青白く染めた少年。死を傍らに置く姿を見て、見捨てることなどできはしない。
助けるべき相手の素性など粗末事、そんなことを考えては肝心なときに動くこともままらない。
手を差し伸べたときに手遅れであるより、敵を助ける方がずっといい。
「それに――この者がアンフェルディアに仇なすかは分かるまいよ」
〈人族の醜悪さを知らぬから、悠長なことを言っていられるのだ。そなたは何も分かっておらぬ……っ〉
「ああ。俺には何も分からぬ。故に知ることを希求する」
憎しみとは別の感情を滲ませた内なる声に、揺らがぬ思いを告げる。
シラーフェを説得することを諦めたのか、ルヴァンシュはそれ以上言葉を重ねることはなかった。
痛いほどの疼きすら鳴りを潜め、いっそ不気味な沈黙を奏でる。
「数奇と言ったが、この出会いもそう悪いものではない。……俺はそう思っている」
存在感が希薄になろうとも、この声は聞こえていると信じて紡いだ。
知る機会を得られたと考えれば、この巡り合わせもそう悪くはない。ちょうど勇者と話したいと思っていたところだ。
そっと視線を落とす。この身に宿る〈復讐の種〉を討つことのできる存在をやはり気にせずにはいられない。
「すまない、一度行き先を変える。休めるところに案内してくれ」
瞬きで応える水の精霊がぱっと散り、先を示すように道を作る。
シラーフェは少年を抱えたまま、青く光る道を辿る。やがてシラーフェは洞窟に辿り着いた。
不思議と水の入らない作りになっている洞窟は、大の男二人が入っても充分なほどの広さがある。
おまけにマナも潤沢にあり、休息を取るには充分な場所であった。
中にはマナを帯びて光る石が至る所にあり、洞窟にも淡く照らし出している。石は恐らく精霊石、ここは精霊たちの棲家なのかもしれない。
一先ず、少年を寝かせる。ごつごつとした地面では寝苦しかろうが、下に敷くものもないい以上、贅沢は言っていられない。
「治癒はできるか?」
治癒魔法の使い手は希少だ。しかし、精霊ならば、例に漏れる。
漂う精霊は放出したマナを食み、少年の傷の辺りを飛び回る。これで後はゆっくり休めば、もう大丈夫だろう。
彼が目覚めた頃にまた水精の女王の許を目指せばいい。
ライたちに心配をかける時間が 長引くのが申し訳ないが、人助けのためと知れば、納得してくれるだろう。
休息の取れる場所で落ち着いたせいか、体が急に疲労を訴える。
瞼が動く、シラーフェの意思に反して落ちてくる。魔獣や魔物が襲ってくるかもしれない場所で、シラーフェまでも意識を手放すわけにはいかないと瞼を持ち上げて、持ち、上げて……。