3「爛漫」
ライと別れ、シラーフェは一人で町の中を散策する。
王族の独り歩きが危険なのは承知の上で、一応対策はしてある。王族の特徴である白い髪と黒い角を魔法で暈しているのだ。
陰魔法に水魔法を掛け合わせた応用技で、髪や角への意識を逸らすと同時に認識をずらす魔法だ。
王族特有の魔法適性の高さと常習犯故に培われた練度の高さによって行使された魔法は、余程の相手でなければ破れない代物だ。
「あら、マーモア様、また来てらしたの?」
「いいとこに来た! 今日のは力作なんで貰ってくだせえ」
「これも食べてって」
「マーモア様が相っ変わらず細っこいねえ。これで精をつけな」
「すまない、ありがとう。……助かる。……ありがとう、感謝する」
市場に足を踏み入れたシラーフェは次から次へと呼び止められ、次から次へと物やら食べ物を渡される。
簡単に破れないはずの魔法を容易く突破するものが大勢いる事実。
実はこの魔法には一つ欠点がある。どんなに優れた素質に支えられていようとも、すでにシラーフェの正体を知っている者の目はすり抜ける。
シラーフェは一桁の年齢の頃から頻繁に城に抜け出して町に来ていた常習犯。幼い頃は魔法なんて使っておらず、その頃からシラーフェを知っている者には効果がないのである。
町の人々にとっては問題児がまた城を抜け出してきたという感じで、慣れた様子で声をかけられる。
王族に対するものにしては馴れ馴れしく、不敬とも言うべき言動ではあるが、シラーフェにとってはそれが心地いい。敬い、距離を置かれることより、親しみを持って笑いかけられる方がずっといい。
「シラン様!」
もはや食べきれないほどのものを抱えるシラーフェを呼ぶ幼い少女の声。
シラーフェのことを「シラン」と呼ぶ人物は一人しかいない。案の定、視線を向けた先には思い描いた通りの人物が立っている。
年の頃は十一。青緑の髪をおさげにした純朴そうな少女だ。
大事そうに分厚い本を抱えた少女は赤い瞳をシラーフェと交わして親しげに笑う。
「メイーナ、またお前はそんな呼び方をして……」
少女、メイーナが立つ薬草屋の奥から現れた男性はシラーフェへ頭を下げる。
薬草屋の店主、そしてメイーナの父親であるべルート・フリエである。
「申し訳ありません。何度も言っているのですが」
苦い顔で謝罪するベルートに「構わない」と短く返す。
アンフェルディア王国では、王族の名を呼ぶことは不敬とされている。呼ぶことを許されているのは同じ王族か、それに準ずる者たちのみ。王族と同等以上と認められた者だけの特権だ。
それ以外の者はミドルネーム、シラーフェで言うと「マーモア」と呼ぶのが通常だ。
町娘が名を呼ぶどころか、愛称を使うだなんて不敬と罰せられても文句は言えない。
「子供のすることにいちいち目くじらを立てるつもりはない。それに――」
視線をメイーナに移せば、無邪気な笑顔がぱっと花咲く。
「シランと呼ばれるのは心地いい。呼ぶ者がいなくなるのは惜しいと思うくらいにはな」
寝室の紗幕と同じ、くだらない慣習だとシラーフェは思っている。
限られた者しか呼ばない名に意味などあるのだろうか、と。
隔たりなどなく、民にも親しみを持って呼ばれる方がずっといい。そういう世界をシラーフェは望んでいる。
メイーナに「シラン」と呼ばれるたび、望む世界に近付いているような気がする。
「シラン様、見せたいものがあるの。来て!」
袖に引かれて、引っ張られるようにメイーナの後に続く。ベルートが眉根に寄せ、口を開く前に空いている手で制して、「大丈夫だ」と示す。そのままメイーナに引かれてその場を離れる。
商店が立ち並ぶ市場の喧騒から少し遠ざかる。やがてメイーナは市場の裏側、細い水路の傍でくるりと振り返る。
この辺りは子供たちの遊び場となっている。商人の子供たちは親の店からあまり離れず、この辺りで遊ぶのだ。
メイーナは得意げな表情でずっと抱えていた分厚い本をシラーフェに差し出した。
「隊商で買ってもらったのよ。シラン様にはやく見せたかったの」
表紙には植物図鑑と書かれている。アンフェルディア王国では見かけない、隊商でしか手に入らない代物だ。
多国籍の商人によって構成され、様々な国を巡る隊商は他国の商品が手に入れられることが売りだ。
メイーナの持つ本もその一つ。植物について扱う本、ましてや図鑑なんてものはアンフェルディアという枯れた地では、決して手に入らない。
「見て! いろんな花がかいてあるのよ」
一ページ、一ページ、大切そうに捲りながらメイーナは目を輝かせる。
その赤目は輝いて、未来を見ていた。同じ目をシラーフェはよく知っている。
思い出される赤髪の少女の姿。何気なく落とした視線が紫色の花のイラストを捉えた。
奇しくもそれは少女と出会った花畑に咲いていたものによく似ている。
「……その花は?」
「これ? んーと、りらっく……リラックだって」
地に咲いている姿を見たことのある唯一の花。その名前を胸の中で反芻する。
あの花はリラックというのか。美しい彼女と結びついた美しい光景とともにその名を刻みつける。
そこで本の文字を追っていたメイーナの瞳がこちらを見ていることに気が付いた。
「シラン様はこの花が好きなの?」
「そう、だな」
曖昧な肯定にメイーナはぱっと表情を輝かせる。
「じゃあ、この花はいっちばんさいしょね」
弾んだ声が意味することが分からず、わずかに首を傾げた。
鈍感な反応に焦れたようにメイーナは頬を膨らませた。示される不満の意味もやはり分からないシラーフェに観念した頬はすぐに萎んだ。ころころと変わる表情は見ていて飽きない。
「私がアンフェルディアでさいしょに作る花畑はリラックにするの。とーってもキレイな花畑にするの。そしたらね、いちばんに見に来てくれる?」
「ああ。楽しみにしている」
そうなったらいいと思った。心からの願いを込めた言葉にメイーナは屈託のない顔で笑う。
内から溢れる喜びすべてを詰め込んだその表情に思わず口元を緩める。
あの美しい紫の花畑をもう一度見ることができるのならば、これほど嬉しいことはない。
しかし、それがどれだけ難しいことなのかもよく知っていた。
アンフェルディアの土は枯れている。植物が育ちにくい土地なのだ。
それ故、生活に必要な作物や薬草を育てることが優先される。花を育てる余裕などこの国にはない。
薬になる花や実をつける花でもなければ、育てられることはまずない。観賞用、娯楽のための花は他国から輸入した切り花や乾燥花くらいか。変わり種で言えば、魔法で作られた花なんてものもあるが。
だからこそ、生まれて初めて見た花畑の衝撃はかなりのものだった。
枯れた土地を再生させるなんて、そう簡単なことではない。今まで多くの者が研究し、実現できていないのだから。
しかし、夢見る幼子に現実を語るのは無粋なことだ。何より、あの日の少女と重なる瞳をしたメイーナの夢を応援したいという気持ちがシラーフェの中で強く働いた。
「ねえねえ、他は? どの花は好き?」
「メイーナはどの花が好きなんだ?」
自分ばかり話すのも不公平だと質問に返す形で問いかけた。
答えはすでに用意してあったようで、メイーナは手慣れた様子でページを繰る。
やがて紫を帯びた白い花が描かれたページを見せて、心底嬉しそうな顔を見せた。そのページには折り目がついており、頻繁に開いていることが窺い知れる。
余程、その花を気に入っているのだろうと、と説明書きの方へ視線を走らせる。
“シラン”。その花の名前を目にして、一つ瞬きをした。
「この花の色、シラン様の髪の色にそっくりでしょ? 私の一番好きな色なの!」
「確かに……美しい花だな」
小さな呟きにメイーナは自慢げな表情を見せた。
自分自身が褒められたかのように誇らしげで、その花がどれだけ好きなのか伝わってくる。
「この花やリラック、他の花もいっぱい咲かせて、この国をお花でいっぱいにするの。それが私の夢!」
彼女と同じ顔で夢を語るメイーナの姿に思わず魅入られる。その視線に気付いたのか、今日一番の笑顔がシラーフェに向けられた。知らず、心臓が跳ねた。
「シラン様の夢はなあに? やっぱり王様になること?」
「いや」
純粋さを纏った問いかけに短い否定を反射で返した。
大きく丸い瞳に見つめられる中で、言葉を選ぶために視線をわずかに上、空に向ける。幼子相手、そして王族という立場上、下手なことは言えない。
たとえ幼いが故の無邪気な問いかけであっても。次期王の話はそれだけ繊細な話なのだ。
王城ならばまだしも、誰がどこで聞いているか分からない町中では、迂闊な言葉が妙な噂になりかねない。
「他に相応しい人はいる。俺が治めるよりもずっとこの国を豊かにしてくれるだろうさ」
平和主義と言えば、聞こえはいいが、傷付くことも傷付けることも嫌う臆病者。何かを捨てる覚悟を持っていない者に多くを導く力は得られない。シラーフェには王に必要な強さがない。
自分が王になったときのことを考えないでなかった。もし、自分が王になったら、魔族と人族との争いを鎮めて二種族が笑い合える世界を作ると本気で考えていた時期もあった。
赤髪の少女と出会ってから数年の間のことだ。彼女が語った夢を、シラーフェもまた叶えてみせると息巻いていた頃が。
邪な想いを含んだ夢は成長とともに内へ内へと仕舞われていった。
己の限界と世界の大きさという現実を知って、それ以上先へ進めなくなった。シラーフェは夢を諦めたのである。
残っているのは彼女への憧れに近い恋心だけだ。もう二度と会うことのない人への叶うことのない想いだけ。
「シラン様が王様になればいいのに。きっと優しい世界になるわ」
「優しいだけでは世界を作れない。それに……俺は弱いだけだよ」
俯けた顔を小さな指先が触れた。精一杯背伸びをして、手を伸ばしたメイーナがシラーフェの輪郭に触れている。
驚くシラーフェに悪戯が成功したと笑い、少し不満げに表情を変える。
「シラン様は優しいよ! すっごく優しいんだから!」
「そう、だな。悪かった」
その勢いに押される形で、謝罪を口にした。短い謝罪でもメイーナは満足してくれたようだ。
メイーナがそこまで言ってくれるのなら、シラーフェも少しだけ自信が持てる。
未だ背を伸ばし、手をシラーフェへ向けるメイーナに合わせて膝を折った。ようやくメイーナの手がシラーフェの頬に届く。小さな掌の温かさに仄かな笑みが零れた。
「ねえ、シラン様の夢なあに?」
「夢というほど大層なものではないが……民がみな、幸福であるようにと願っている」
己の無力さを知るシラーフェが抱くのは夢というには曖昧過ぎる願い。
現実という言葉で諦念を落としたシラーフェの胸はもう同じ場所には立てない。
「じゃあ、シラン様の夢、一つは叶ってるね。私、すっごく幸せだもんっ」
伸ばした手でメイーナの頭を撫でた。擽ったそうにしながらも、メイーナは頭をシラーフェの方に寄せる。
もっと、と要求されているのだろう。そう思って形の良い頭を不器用に撫でる。
満足した頭が離れた頃にはメイーナの髪はぼさぼさになっていた。いつも丁寧に結われているおさげが乱れ、解けかかっている。
撫でてもらった喜びが勝って気付いていない様子のメイーナの髪に触れる。
「動くな」
短く告げた言葉に少し首を傾げつつも、メイーナは大人しくシラーフェにされるがままになっている。
すぐにシラーフェがしようとしていることに気付いたらしく、「えへへ」と照れた声を零した。
「できたぞ」
「えへ、かわいい?」
「ああ」
髪形自体は変わっていないわけだが、メイーナ的には何か違うらしい。
女心はよく分からないと首を捻りながら、くるくると回るメイーナを見守る。
髪を結うなど数えられる程度にしかしたことがなかったので、喜んでもらえたなら何よりだ。