26「ティフル」
ティフルは、大人という生物が嫌いだ。両親が嫌いだ。
両親はクズである。口減らしという理由でティフルを教会に売ったクズ。
かなりの高値で売れたようで、歓喜する両親の姿を覚えている。今まさに売られに行こうとしている息子を目の前にして、豪勢な夕食の相談をする有り様だ。
愛が注がれた記憶などなく、血が繋がっている以上の思い入れはない。
孤児院に売られていると同時に家名も失い、代わりに孤児院の名前、メルシーションと名乗るようになった。
と言っても、別に孤児院が好きだったわけではない。慈善活動だの、奉仕の心だの、口でいくら言っていても、お金で子供を買うような大人しかいない空間だ。どうして好きになれると言うのか。
メルシーションという名前は、ティフルにとっては鎖と同じ。もう戻るところのないティフルにとって、自由を奪う鎖もまた意味のないものであった。最初から期待などしていなかったと言ってもいい。
ティフルは大人という生物が嫌いだ。教会の神父が嫌いだ。
身寄りのない子供を引き取り、世話する裏で子供たちを国の兵隊として育て上げる。もちろん、使い捨ての兵隊だ。
同じ立場の子供の中には、その事実を知りもしない、感じもしない盲目で暢気な奴もいたが、そこはどうでもいい。重要なのは、大人を満足させる成果を出せなければ、捨てられるということだ。
価値がなくなれば、簡単に捨てられることをティフルは知っている。己の命を守るには価値を示し続けなければならない。だから、ティフルは今回の任務に立候補した。
簡単な任務だ。数年かけて、精霊石と適合させた龍族の女に仕込んだ術式を起動させる。
迷い子のふりをして龍の谷ミズオルムに潜入し、隙を見て地下へ潜り、目的を果たす。後に魔術がきちんと起動したことを確認してルーケサに戻る。
何度も脳内で描いていた計画は、ティフルの甘さを語るように破綻する。
地下へ潜り、術式を起動させるまでは問題なかった。
「これ…は……話が、ちが、ぅ」
術式を起動させた瞬間、マナが根こそぎ持っていかれる感覚がして、全身を虚脱感が襲う。
立っていられなくなり、膝をつく。視線が黒に侵食され、そのまま意識を放した。
神父の話では、起動させてすぐ戻ってくればいいとのことだった。それがすぐ戻ることがそもそもできないなんて。
下手したらマナ不足で死にかねないくらいの消耗、あえて話さなかったのであろうことは容易に想像できた。きっと神父たちはティフルが目を覚ましたことを、神の奇跡などとのたまうのだろう。
奇跡でもなんでもなく、ティフルが無事に生き延びられたのは、明確な理由が存在する事象だ。
重たい瞼を持ち上げたティフルの目に映るのは、広い地下空間に鎮座する巨大な精霊石だ。
龍族の女を取り込み、神秘的な雰囲気を纏うそれにもたれかかる形でティフルは意識を失っていた。
マナの塊である精霊石に触れていたお陰で、命を危うくすることなく、通常よりも早く回復することができたのだ。
回復と言っても、逃げられるほどの体力が戻るまではもう少しかかるだろう。
そうして時間感覚が朧げな空間で体力回復に努め、どれほど経ったか。
何かが勢いよく近付く音に気付いて、慌てて奥の方へ身を隠した。隠れられる場所はほとんどない場所で、精霊石に隠れる位置に伏せて様子を窺う。
間もなく現れたのは三人の青年。龍族とドワーフと――魔族。
あちらは三人、ティフルは一人。戦闘能力の高い種族相手にまともに戦っても勝算は低い。
勝ち目のない戦いに自ら挑むほどティフルは愚かではない。しかし、ティフルの存在に気付かれたのなら話は変わってくる。
「もし……魔族の首を持って帰ったら」
褒めてもらえるだろうか。もう捨てられることはないだろうか。
白髪に黒い角。王族の特徴を持つあの男を殺せば、ティフルの価値を証明させられるはずだ。
ドワーフに見つけられたのと同時に精霊石に仕込まれていた緊急用の術式を発動させた。
本音を言えば、成功するとは思っていなかった。勝てる可能性など、欠片も存在しないと分かっていた。
「神よ、エーテルアニス神よ、どうか哀れなこの身をお救いください」
信じてもいない神へ、口癖のように懇願してすべてを始めた。
龍族にこの場所がばれた時点で、ティフルの任務は失敗している。このまま国に戻ったところで、出来損ないとして殺されるか、非人道的な実験に使われるかの二択だ。
だから、ここでどうなったとしても後悔はない。後悔はきっと、生まれ落ちた瞬間にこそすべきものだから。
今生きているのなら、この生が一秒でも長く続くように尽くす。これ以上生きることが叶わないのならば、生きていた爪痕をどんな形でも残す。それがティフルの生き方だ。
己の生き方を貫くためなら、ティフルはなんだってする。少ない可能性にかけることくらい容易い。
精霊石と龍族の女を使った奇襲は失敗。倒れたふりをした奇襲は失敗。魔族の人の良さに付け込んだ作戦も失敗。もう打てる手は一つ、真っ向勝負しかないと奥の手を飲み込んだ。
恐怖心を振り払うために叫ぶように言葉を紡ぎ、喉を通る異物を味わう。
魔石を取り込むことと、実験体になることの何が違うのか。自嘲気味に笑うティフルは内から食い荒らされる感覚に自分の行く末を見る。
悲嘆か、苦悶か。その瞳から雫が頬を伝った。
「その火は万物を燃やす。我がマナを糧に顕現せよ――フレイム」
唱えた言葉が炎となり、一雫は刹那に蒸発する。自嘲の笑みだけを残すティフルは、生み出した焔の隙間から迫り来る青年二人を見る。
フレイムは下級の魔術だ。マナの総量もたかが知れているティフルの魔術の威力では、低級の魔術を焼くのが精々だ。本来ならば。
魔石を体内に取り込むことで、強制的に魔術適性をあげた今のティフルは、実力を遥かに上回る魔術を行使することができる。
想定上の威力を持って出現したフレイムに勝てるかもしれないと仄かに希望を抱く。
「あ? 威力がでかいだけかよ」
吐き捨てる言葉がすぐ近くで聞こえた。息を呑んでいる間に、今度は何かを振り回す音が聞こえて視界を埋めていた炎が掻き消された。晴れた視界に映し出されるのは戦斧を担ぎ、凶悪に笑うドワーフの男だ。
「練度が甘ぇんだよ。見掛け倒しの魔術なんざ、オレの一振りで一発だ」
戦斧を振り回して、炎に掻き消したらしいドワーフが勝ち気に笑っている。
フレイムで駄目ならば、他の魔術を、と使ったことのない術式を記憶の中から引っ張り出す。
「その火は――」
「無駄だっつってんだろ。魔術ってのはこう使うんだよ」
ドワーフは強く踏み込み、戦斧を構える。好戦的な鋭い瞳と凶悪に弧を描く口元。
小柄と言っても、ティフルよりは身長の高い体から放たれる気迫に気圧され、思わず口を噤む。
先程の魔術がそうだったように、中途半端な詠唱はドワーフの気迫に掻き消される。
「火よ、炎よ、万物を創成せし、始まりの焔よ。応え、応え――おら、出番だぜ、起きやがれ」
戦斧の柄が赤く明滅する。よくよく見ていれば、戦斧の柄には小さな石がいくつも嵌め込まれていた。
それを認めたときにはもう炎を纏った刃がすぐ傍まで迫っていた。避ける術を持たないティフルは停止した思考で迎え入れるしかない。
殺意を持ち、炎を纏った刃を受ければ、無事では済まない。
明確な負け、死が目の前にあっても、力なき者には抗うことはできない。
どれだけ必死に足掻いても、この手が影響を与えられる範囲はとても小さい。圧倒的な力を前にしては手も足も出ず、非道な運命を受け入れるしかない。
仕方ない。ああ、仕方がない。
諦念に身を任せることを決めたティフルの前で、炎を纏う刃が空を切った。いや、正確にはティフルの服を二つに裂く留まったと言うべきか。
目を丸くするティフルを他所にドワーフは戦斧を担ぎ直し、乱暴に頭を掻く。
「ああ、くそっ……シラーフェのお人好しがうつったか」
戦意を完全に消したドワーフは、呆然と見つめるティフルの前で強く踏み込む。
突き刺すような殺意が消えたことで油断したティフルに、強烈な回し蹴りが叩き込まれる。
腹部への衝撃に息を詰め、込み上げたものを吐き出した。地下に来てから数日何も口にしていなかったので、吐瀉物は胃液ばかりで、その中に異物として輝く石が混じっている。
「完全に同化する前でよかったな、ガキ……ってお前、女だったのかよ」
咳込むのに必死なティフルはドワーフの言葉で遅れて服がはだけていることに気付く。
ちょうど真ん中の辺りで真っ二つにされた服から覗く慎ましい胸。
女と言うには控えめすぎる胸で気付いたドワーフの目を称賛するべきかと現実逃避気味に考えながら、はだけた胸に隠すように切られた服を引っ張り上げる。
女だなんて久しぶりに言われた。両親はティフルが男の方がいいようで、神父たちは道具に性別を求めなかったから。
「僕を……どうする気ですか?」
「おいおい、魔石から解放させてやったってのに感謝もなしかよ、ガキ」
「頼んでいませんので」
凶悪な顔を凶悪に歪めて笑うドワーフを睨みつける。
もうどう足掻いたってティフルはこのドワーフに勝つことはできないと突き付けられ、心までは屈しない視線だけで示す。
「その戦斧は魔剣だったのか」
「魔剣っつうか、魔斧だけどな」
ドワーフの隣に立ち、親しげに言葉を交わす魔族。魔族とは、悪神を崇める悪しき種族である。
外面は非常によく、多くの種族からは情が深いなんて言われているが、その正体は残虐で非道。その外面に騙されて近付いた者を、魔道に堕ちた力で痛ぶることを好む。特に女や子供、弱い者ばかりを狙う。
これは両親のもとにいた頃から常識として教えられてきたことだ。良い子にしていないと魔族に連れて行かれるなんてのは、大人たちの常套句である。
「僕は……どんな悪逆非道の手を尽くされても、貴方たち如きに決して屈しません」
「悪逆非道……か」
「文句でもあるんですか? 貴女たち魔族のおぞましさはよく知ってますっ」
着飾られた中身を知っていると声高に叫ぶティフルを見る魔族の目は妙に優しい。
それもきっと何か企んでいる結果だと睨むティフルを魔族は、ただ優しい眼差しを注ぐだけ。
柔らかな視線を受けるティフルは強くもない視線に気圧された気分になる。
「それは誰かに教えられたのか?」
「人族の、常識ですよ。……それが何か?」
「いやなに、悲しいと思っただけだ」
悲しいという言葉通りに向けられる魔族の瞳には、悲哀が宿っているように見えた。
とても偽物とは思えない感情が注がれ、ティフルは動揺する。そんなティフルへ魔族は手を伸ばす。
反射で目を瞑るティフルは頭に触れた感触に、薄目の魔族のことを見る。
伸ばされた手はティフルを殴るのではなく、その頭を優しく撫でる。神父に撫でられるときとも違う、柔らかで繊細な手付きで、心のもっとも弱いところを触れられた気がした。
あまりにも優しくて、偽りとは到底思えないそれにティフルの動揺はさらに増す。
「彼女を、ティフルをどうする気だ?」
撫でるのをやめた魔族は振り向き、ティフルと同じ問いをドワーフに投げかけた。
それに味方がついた気分になる自分に激しい不快感を抱く。
たかだが撫でられたくらいで、何を絆されているのだと。
彼に撫でられた部分がむず痒く、向けられる視線に形容したくない感情が湧いて出る。
「一先ず、龍族の長に話してからだな。被害を受けたのはあいつらだし、どうするか判断すんのはあいつらであるべきだ。最悪殺されるかもな―――で、お前はそれを止めるのか?」
「……リトの言う通りだ。最終判断を下す資格は俺にはない。被害者の感情こそ優先すべきだとも思う」
低い声が紡ぐ言葉に「やっぱり」という納得を落とす。この胸に浮かんだのは、決して裏切られた落胆なのではなく、明らかになった魔族の性根への納得であると言い聞かせる。
「だから――」
続けられた声に性懲りもなく、期待の炎が胸に灯った。
「だから、俺にできるのは忠言までだろう」
「忠言?」
「第一に、ティフルは情報源として使える。目的や、水を澱ませた手法を吐かさず処刑するのは早計であろう」
努めて感情を消すような冷徹な魔族の物言いに、ドワーフが値踏みの視線を注ぐ。
不思議な感覚だ。敵がティフルの処遇について話している中で、味方同士で敵対している状況を見せられている。そこにティフル本人が口を挟める隙はない。
「第二に、自国の者が龍族に殺されて聖国が黙っているとも思えない。理由をつけて、何か仕掛けてくる可能性は充分になる」
それは紛れもない事実だった。ルーケサ聖王国は、目障りな国や有力者のもとにティフルのような使い捨ての兵隊を送り込む。目的の妨害工作が成功すればそれでよく、失敗しても兵隊が死んだ事実を突いて敵を責め立てる。ルーケサの常套手段である。
そこまで考えて小さく笑う。他者を陥れる非道さ、その醜さは、人族も魔族も変わらないことに気付いてしまった。いや、本当はずっと気付いていた。
魔族を悪し様に言う神父たちに同じ影をずっと見続けていたから。
悲哀を浮かべた魔族の姿に話を聞いていたよりマシだと思い、神父たちよりもマシだと感じた。
この心を誰も責めることはできないだろう。
「そこまで考えてんなら、オレも何も言わねぇよ。単なるお人好しじゃねぇなら文句は言わねえ」
「ほとんど後付けだ」
魔族とドワーフ、二人の関係性に親密性が戻る。一度視線を交わした二人は、ほとんど同時にその目も同じ方向に向ける。
そこにあるのは天井につくほど、巨大な精霊石を背に虚ろな表情で攻撃を仕掛ける龍族の女と、次々に迫る精霊石を捌く龍族の男。二人の攻防を数秒目で追って、魔族の赤目がこちらを向いた。
「彼女を止める方法を知っているか?」
「知っていたとしても、僕が言うわけありませんよ」
「精霊石に込められている術式を教えてくれるだけでも構わない」
どんなに言い募られても、ティフルが相手の益になることを言うわけがない。
敵対している相手に情報を喋るなんて真似するわけがないだろう。この男は、一体何を期待しているのか。
馬鹿馬鹿しいと思いながら、魔族の瞳に揺れる自分がいるから混乱する。今まで出会った誰よりも真摯な眼差しが誠実さを語り、それに応える正しさをティフルの心が語る。
「僕は……知らない。何も聞かされて、ない。術を発動すれば、精霊石が澱みをばら撒くとそれだけ」
「そうか。情報提供、感謝する」
何故、口を開いたのが自分でも分からないまま、律儀に謝意を告げる魔族の姿に胸が温かくなった気がした。
大した情報を話せていないのに、生まれて初めて誇らしいと思えることをした、そんな気分だ。
「当てはあるのか?」
「なんとかしてみよう」
それだけ言って飛び出す背中に注ぐ視線。そこに宿るささやかな感情にティフルは気付かない。