24「歪み」
光源のない空間の中で淡く光る巨大な結晶。階段を最後まで下りた果てに辿り着いた空間、その天井に届くほど大きい結晶は神秘的で美しい。
結晶の中に閉じ込められている龍族の女性の存在さえも、一つの芸術品と思えてしまうほどの魅力を持っていた。何も知らなければ、感嘆の息を零していたことだろう。
しかし、助けを求める女性の声に内から揺さぶられるシラーフェの口から零れるのは憂いの吐息だ。
「こいつは、魔石……いや、精霊石か。こんなでけぇのは初めて見たが」
ただ一人に状況に呑まれることなく、我を貫くリトは恐れのない様子で結晶へ近付く。
数々の素材を見てきたその瞳は巨大な結晶の正体を容易く見抜いてみせる。
「精霊石……精霊が生み出す石だったか?」
「言葉を選ばすに言やあ、精霊の排泄物だな。マナそのものが結晶化したもんだ」
魔石がマナを含んだ石なのに対して、精霊石はマナそのものが結晶化したもの。由来の違いを知っていても、シラーフェには具体的な違いを語れない。
精霊石の方がマナの純度が高いといったところだろうか。
「運び込まれたというより、ここで生み出されたと考えた方が自然か」
「あんだけ大量の精霊がいたなら、なくはねえってところだな。何十年どころか、何百年つう時間をかけて作られたもんだろうよ」
「それを利用した者がいる、ということか」
まさか、あの女性が自ら結晶――精霊石の中に入ったわけではないだろう。誰かが無理矢理、あるいは誰かに騙されて精霊石の中に入るに至ったに違いない。
精霊石をまじまじと見るリトに倣って、シラーフェも数歩、精霊石へと近付く。精霊石が含むマナに当てられたのか、角が微かに震える。
マナ呼吸を制限したままなので、清浄なマナに触れて刺激されたなのだろう。澱んでいないマナがあるのなら制限を解除してもいいが、第三者に弄られている可能性がある以上、迂闊に体内に入れるわけにもいかない。
敵の手がどこまで及んでいるか分からなく、警戒するにこしたことはない。
「ミグフレッド、この女性に見覚えは?」
精霊石を、そこに閉じ込められている龍族の女性を目にして以来、立ち尽くしたままのミグフレッドを見遣る。
同胞を何より大切にしているミグフレッドを襲った衝撃の全てを想像することはできない。本当なら気を遣うような言葉を言うべきなのだろうが、状況の進展を優先させて問いを投げかける。
多分、ミグフレッドはそうして気を遣われることが好きではないだろうから。
「道中、話した女がそれだ」
「十年程前に行方不明となった女性か。その間ずっとここに囚われていたのだろうか」
何気ない呟きにミグフレッドが唇を噛んだのが見え、己の失言に口を噤む。
ずっとここに囚われていたのだとしたら、ミグフレッドはそれに気付かず、十年もの月日をのうのうと生きてきたことになる。長い時間を生きる龍族と言えども、十年もの苦しみを短いとは言えない。
自責の念に駆られるミグフレッドは押し寄せる後悔を呑み込んで口を開く。
「我が同胞に手を出したこと、後悔させてくれる」
悔いを怒りに変換し、立ち尽くしていた時間を取り返すべく、ミグフレッドは巨大な精霊石へと歩み寄る。万感の思いを込めた青目が囚われた女性を見つめる。
すぐに視線を外したミグフレッドは常の冷静さを取り戻した青目をこちらに向ける。
「この空間の調査をする。お前の言っていた澱みの塊がここにあるんだろう?」
精霊石に閉じ込められた同胞に背を向けたミグフレッドは鋭い視線を空間に巡らせる。少しの異変も見逃さないとでも言うように。
地下の底に広がる空間は、想定よりもだいぶ広い。下ってきた階段も含めて、ミズオルム全体に沿って広がっていると考えていいかもしれない。
精霊石は空間のちょうど中央の辺りに鎮座している。その美しさと内に秘める醜悪さに目を奪われ、意識から外れていた奥の空間を見遣る。
ミグフレッドの言う通り、シラーフェが角越しに感じ取った澱みの塊もここにあるはずだ。
改めて角で周辺のマナを探るものの、精霊石の存在に掻き消され、澱みの塊の所在を探り当てることはできない。息を吐き、先に奥へと進んでいるリトとミグフレッドを追って歩を進める。
「こっちに子供が倒れてんぞ!」
行方不明という子供を見つけたというリトの声に急かされるように歩みを速めるシラーフェ。
存在感を放つ精霊石から意識的に視線を外しつつ、真横を通り過ぎる。
と、角が微かに疼いた。怖気が立つ感覚に思わず振り返った。
瞬間、眩い光が視線を焼いた。反射的にシラーフェは肌を撫でる危機感に突き動かされて剣を抜く。
刃のものとは違う甲高い音を聞きながら、目を開けたシラーフェは自身の剣にぶつかる美しい結晶を目にする。
短い間に嫌と言うほど目にしたそれの正体は考えるまでもなく分かった。しかし、その目で事実を確認するよりも先に結晶が蠢き、シラーフェに襲い掛かる。
硬い結晶とは思えない滑らかな動きで、いくつもの帯状の精霊石が迫る。まるでシラーフェを捕らえ、呑み込もうとしているようだ。
「こんな風にあの女性も囚えたのか」
幸い精霊石の動きは遅い。数の多さが厄介ではあるものの、充分捌ける量だ。
次々と襲い掛かる精霊石を剣で弾き、絡め取り、斬り捨てる。その最中、リトとミグフレッドの状況を確認するため、視線を巡らせる余裕もあるくらいだ。
巡らせた視線に未だ囚えられたままの女性の姿が映る。戦闘の心得のない者なら、精霊石の攻め手は抗うころなどできないだろう。
魔臓に残るマナの量を確認し、剣を纏わせる。同時に地面を蹴って方向転換、追い縋る帯状の精霊石を背に眼前に聳え立つ精霊石へ剣を振るう。
鋭利さを付加した刃は本来斬れないものさえも容易く斬ってみせる。
中にいる女性に気遣いながら走らせた刃が精霊石を斬り砕く。後ろに迫る帯状の精霊石のことも忘れず、すでに付加の効果が切れた剣を振るう。薄く伸びた石であれば、斬るのは容易い。
一振りで迫る精霊石を斬り捨てるのに数秒、すぐに本体の方へ振り向く。
機を見計らったように、斬り砕かれた精霊石の間から龍族の女性が倒れ込んでくる。その体を柔らかに抱えつつ、精霊石の動きを警戒する。
本体を斬り砕いたせいか、女性が解放されたせいか、精霊石は石としての在り方を思い出したように沈黙を保っている。
精霊石の動きを止めるための賭けとして本体を叩いたのが功を奏したようだ。
突発的な窮地を脱したことに安堵しつつ、女性を抱えたまま改めてリトとミグフレッドのもとへ足を向ける。
そう意識を切り替えたシラーフェのすぐ横を何かが勢いよく通り過ぎた。驚いて振り返った赤目には精霊石のすぐ傍に倒れ伏す幼い子供の姿が映し出されている。
シラーフェが斬り砕いたとはいえ、精霊石の大半はまだ傷も知らない様相で聳え立っている。
一部が砕かれても存在は消えない精霊石。奥の方から飛んできた子供は勢いのままに精霊石に当たり、そのまま地面に倒れ伏す。外見的特徴から察するに、先程リトが見つけたという子供のようだが。
飛んできた方向を見れば、戦斧を振りかぶった状態で立っている。自身が見つけた子供を柄で殴り飛ばしたらしい。
理由もなくそんなことをする人物ではないことは知っている。シラーフェは状況を理解するため、忙しなく視線を巡らせる。
「一体何が……っぐ」
紡ぐ言葉が突然伸びてきた白い腕に無理矢理止められる。抱きかかえていた女性の腕がシラーフェの首を絞めあげる。
いくら龍族とはいえ、女性とは思えない膂力で、シラーフェの全霊を持っても引き剝がせない。
尋常ではない力で首を絞められ、酸素の供給が絶たれた体から力が抜けていく。
遠のく意識の中で、ほとんど無意識に剣の柄に触れた。女性を斬れば、苦悶から解放されるという本能の訴えを、理性で押し留める。せっかく助けた女性をここで斬っては意味がない。ならば、いっそここでシラーフェが――。
横から衝撃に、女性の体が突き飛ばされる。久方ぶりに思える酸素の供給を咳込みながら味わいつつ、視線を横に向ける。
「まだ終わっていない、気を抜くな」
「ミグ、フレッ……なにが、起こっている?」
横に立つ人物、ミグフレッドに掠れた声で問いかけた。
捜索していたはずの子供がリトに殴り飛ばされ、助けたばかりの女性に襲われる。
鈍く回る頭が状況に困惑を描く。奥で何が起こったのか、とそれだけでも確認しようと口を開いたシラーフェの鼓膜を笑い声が揺らした。
「あははははははは、ははっ……あははははははは」
反響し、重なり合い、脳を、胸を激しく揺さぶるような笑声であった。
首を絞められたダメージから回復しきれていないシラーフェは目が回る感覚に思わず顔を顰める。
「あの程度じゃ効かねえってか? ガキのくせに丈夫なヤローだぜ」
戦斧を担いだリトが遅れて合流する。警戒が宿る目で不気味な哄笑を響かせる子供を見ている。
地を蹴り、身の丈以上もある戦斧を軽々構えたリトが子供に迫る。ピタリと笑い声が止まり、子供はその大きな目で迫る刃を見つめる。避ける様子はない。
その姿は傍から見れば、戦場など知らない無垢な子供を思わせる姿。先程までの不気味な印象をまるで感じさせない姿に擽られるシラーフェはほとんど無意識に地を蹴った。
「助けて」
震えた声に突き動かされ、子供とリトの間に割って入る。抜いたばかりの剣が戦斧と重なり、高い音を響かせる。
重なる刃の向こう側、出会った頃を思わせる視線に貫かれる。
「何のつもりだ、シラーフェ」
「相手は子供だ。ここまでしなくともよいだろう」
助けを求める声にメイーナの姿が重なった。恐れを宿す瞳に、きっと同じように助けを求めていたのだろうと考えたら、反射的に体が動いてしまっていた。
「ははっ、魔に属する者のくせに善人気取りですか? 虫唾が走る」
ぞわりと肌を撫でる怖気。シラーフェのものではない感情が胸を疼かせ、背後へ剣を振るう。
シラーフェ自身ではなく、内に潜む暗き存在に突き動かされて振るった剣が何かを弾いた。当たり所がよく、高く飛ばされたそれは赤くきらめき、爆発する。
視界を埋める爆風を斬り払えば、もうそこに子供の姿はなかった。爆風に身を隠し、シラーフェたちから距離を取ったらしい。
とはいえ、先程の爆撃は目くらましではなく、こちらを害するだけの威力があった。あんな至近距離で爆発すれば自分も被害を受けていただろうに。
向けられる瞳に宿る憎悪は尋常ではなく、自らが傷付くことも厭わないという狂気を孕んでいる。
子供の狂気に当てられたか、胸の疼きが強くなる。
脳裏に金髪碧眼の少年の姿が浮かぶ。会ったことのない少年の、快活に笑う姿が鮮明に描かれることを今更気にすることはなく、いや、余裕がない方が正しいかもしれない。
笑顔が憎悪で黒く塗り潰されていくほどに、胸に巣食う種が快哉を叫ぶ。
シラーフェの魂に根付いた種が奥深くへと根を伸ばしていく。成長の糧として喰い散らかされる魂が、シラーフェ自身が黒く塗り潰されていく感覚。堪えるような深い呼吸を努める口から苦悶が微かに零れ落ちた。
「さっきの爆発で怪我でもしたか?」
「……っ…いや、なんでもない。気にするな」
身の内で暴れるものから意識を逸らし、今は目の前の状況に集中する。
過去の妄執が出る幕など欠片もないのだと。顔を出した先祖の欲望で鈍くなった体の感覚を馴染ませるように剣を握り直す。
「それよりも先程はすまなかった。愚かなのは俺だった」
あの子供は敵だ。狂気を孕んだ瞳が明確に伝えている。
子供だから、と一時纏った無垢さに騙されて、判断を間違えたのはシラーフェの失態だ。
失態を取り戻す、と剣を握る力を強める。これは先祖の感情ではなく、種の影響ではなく、シラーフェ自身の内から出るシラーフェ自身の気持ちだ。
「気にすんな、結果で証明しろ」
戦斧を構え、端的に返すリトの瞳はシラーフェを見ない。それを信頼だと受け取って、シラーフェもまた一瞥のみで、視線を目の前の敵へ向ける。相手から返ってくるのは不安定な笑声。
「亜人同士が仲良くするなんて気持ち悪いですね。低俗な者同士、馬が合うということですか?」
笑声とは印象の異なる敬語が侮蔑を込めて放たれる。
態度のわりに子供の身には仄かな緊張が宿っている。追い詰められた者が抱く類の緊張である。
必死に己を奮い立たせている姿は歪で、ちぐはぐで、奥底に恐怖心を隠しているのが見えた。
「僕の名前はティフル・メルシーション。この身は聖なる光の神にのみ捧げられる!」
恐怖心を振り切るように子供改めてティフルは声高に叫ぶ。
懐から取り出した石――おそらくは魔石だろう――をティフルは躊躇なく飲み込んだ。
「は⁉ 魔石を飲み込むとか正気かよ! お前、死ぬ気か……っ⁉」
「この身も、この魂も! すでに我が神と聖王様に捧げていますっ。僕のすべては聖国のためにある。失うことを恐れはしない」
血走った目を爛々と輝かせながらティフルが叫ぶ。
反響する甲高い声に刺激され、〈復讐の種〉が内側で騒ぎだす。
聖国――ルーケサ聖王国。エーテルアニス神を信奉する宗教国家である。
異世界から人を召喚する技術を唯一有する国であり、アンフェルディアと長く敵対関係にある国である。
それこそ四〇〇年前、〈復讐の種〉が生まれる引き金を引いたものこそ、ルーケサ聖王国なのだ。
シラーフェにとっても、初恋の少女が暮らす地としてルーケサには複雑な感情がある。
「だが、それを出すべき場ではない。貴様の感情も、俺の想いも、この場には関係ないことだ」
幼い子供に刃を向けるのは気が引ける。ティフルの歪さを感じるたびに、より強く震える感情を意識から外して剣を構える。そのきらめきを認めるティフルは理性が消えつつある表情で口角をあげる。
「龍族だけじゃない。ドワーフと忌まわしき魔族まで……穢れた魂を浄化すれば、きっと……きっと、僕も……」
別のものを視る狂気さに応えて、周囲に魔術陣が展開される。吹き荒れる風に進行を邪魔されながらも、リトとシラーフェはそれぞれティフルへと迫る。