21「龍の谷ミズオルム」
魔物化した魔獣による突然の襲撃ではあるものの、大きな被害どころか、怪我もなく倒せたのは重畳であろう。
当初の予定通り早めの休息を取り、日が傾き始めた頃に龍の谷への道行きを再開する。
リトが言うにはそれほど時間はかからず、日が落ちきる前には辿り着くということだ。
そこから龍族との交渉が始まる。初めて龍族に合うことへの高揚に緊張を混ぜて歩を進める。
龍の谷に近付くにつれて翠は少なくなり、岩が増えてきた。景色に灰色が多くなり、ごつごつした印象が強くなっている。眼前には巨大な岩で形成される谷が聳え立っている。
「ここが龍の谷か。本当にここに龍族が住んでいるのか?」
「初めはそう思うだろうな」
目の前にあるのは草一つ生えない巨大な岩だ。人の気配が欠片も感じられないこの場所で、生物が暮らしているとは到底信じられない。
雲を突くほどの、もはや山といっても過言ではないこの岩が龍族の住処と言われても、どこから入ればいいのかも分からない。そんな中、リトは躊躇なく谷の隙間に入っていく。
馬車が辛うじて通れる程度の隙間、この先を進んでも、あるのは行き止まりなのではという不安に駆られながら進んでいく。
見上げても端の見えない石の壁に挟まれる環境は妙に不安心を擽る。ほとんど日の落ちた時間では道を照らす光もなく、魔法の光が道を淡く照らしているだけだ。
進む先ある光を目指し、やがて光を抜ける。歩いている間、肌を柔らかく撫でていた風が吹きつけて、髪が揺れた。
息を吐く間、一際強い風が吹いた。反射的に目を瞑った隙を突くように体が浮く感覚があった。
地面から足が離れたと自覚したときにはもうシラーフェの体は高く巻き上げられていた。見開いた瞳に遥か遠くの地面が映る。
それほど高く吹き飛ばされたのだと認識すると同時に、他の面々の状況を確認する為に視線を巡らし、鋼の輝きを捉えて剣を構える。
鋼がぶつかる音が響く。宙に浮かび、足場のない状態では受けきることはできず、大きく後ろに飛ばされる。
踏ん張ることもできず、風に翻弄されるだけのシラーフェに影が迫る。
見えない足場をかけるようにその人物は銀閃をシラーフェへと向ける。動きが速すぎて、相手の姿を認識をすることもできない中で、シラーフェは紙一重の動きで繰り出される攻撃をいなしていく。
しかし、不安定な足場では、高速で突き出される攻撃のすべてを対処することは困難だ。
相手はどうやって、この空中で足場を確保しているのだろうか。
シラーフェと同じく宙にいながら、確かな足場を踏みしめる相手の動きを注視する。
吹き荒れる風に翻弄されるどころか、味方にしているような動き。見ているうちに風の中に見知った淡い光があることに気付いた。
「風の精霊……」
巻き起こされた風は精霊を含んでいるものであった。
思えば、この周辺はマナの濃度がかなり高い。そのことに気付いたシラーフェは意識して角からマナを放出した。
風に紛れていた精霊たちが集い、シラーフェが放出したマナを食む。
「力を貸してくれ」
頷くように明滅した精霊がシラーフェの足元を舞う。風が味方となる感覚を味わうシラーフェは改めて剣を構える。突き出される刃を受け止め、斬り返す。
「風精霊を味方につけたか」
驚き、短く呟く人物の銀髪が風の中を踊る。初めて相手の姿を捉えた気分で、シラーフェは剣を振るう。
やはり相手の動きは速く、刹那に姿を捉えられてたとしてもそれまで。
高速で繰り出される攻撃のすべてを捌くのは足場が安定した今でも難しい。相手の攻撃は的確で、文字通り小さな隙さえ突いてくる。手を抜くことのできない状況でとらえきれない攻撃をぎりぎりで躱す。
それが精一杯で、シラーフェは攻め手に転じることができないでいる。膠着状態と言えたらいいが、そこまで長く今の状態を保てる自信はない。ギリギリを重ねる裏で打開策を考える。
「っしゃおら」
一対一。閉じた攻防の中に割り込む声。重なる刃の間に戦斧が叩き込まれる。
誰に物かは言うまでもないであろう。リトの乱入により、初めて相手の動きが止まった。
鋭利な刃を思わせる思わせる青の瞳が乱入者たるリトを認め、その唇が開かれる。
「何の真似だ?」
「そいつは客人だ。オレが案内してきたんだよ」
どうやらリトは面識があるようで、鋭い視線が交わされる。そのまま確かめるような数秒ののち、シラーフェへ向けられていた刃が下される。同時に吹き荒れた風が鎮静化する。
浮かせていた力が失われ、三人はそれぞれ危なげなく着地した。
周囲を見渡せば、ユニスやオディスたちがそれぞれ着地している姿が見えてそっと安堵する。
剣を納めたシラーフェは改めて襲ってきた青年の方へ目を向けた。
長身の美丈夫。銀の髪と青の瞳。その手には独特の光沢を持つ槍が握られている。
「お前のせいで、荷物がバラバラじゃねぇ。せっかく集めた素材に傷がついたらどうすんだよ」
「マナを乱す者を連れてくるからだ。ここが風精霊の守りでなっていることを知っているだろう?」
「あー、魔族がここに来るのは初めてだったか。こいつらはマナで呼吸してんだよ、受け入れろ」
暴論に近いリトの意見に言葉を返すことなく、青年は鼻を鳴らす。
感情の見えない青目が向けられ、反射的に身を固くする。突然の攻撃はマナ呼吸、魔族の特性が原因だったようだ。
ここ、龍の谷はマナの濃度がかなり高い。アンフェルディアもマナ濃度が高い国として挙げられることが多いが、ここはその比ではない。おまけに十度も高く、視線を少し向けただけで精霊の瞬きが目に留まる。
緑色の淡い光。絶えず吹いている風はこの精霊たちが起こしているもののようだ。
足を踏み入れた瞬間は、シラーフェの体を浮かせるくらい強く吹き付けていた風が、今は心地よく肌を撫でる程度に落ち着きを取り戻している。
「お初にお目にかかる。俺はアンフェルディア王国第五王子、シラーフェンヴァルト・マーモア・アンフェルディアだ。突然の訪問による非礼をお詫びする」
逸らされる様子のない青目と正面から向かい合う。反応らしい反応のない静かな表情への不安感に落ち着か寧気分になりながらも、言葉を続ける。
「この度はカザード王の下命を受け、この地に参った。長の者に会わせてもらえないだろうか?」
返答のないまま数秒。シラーフェを見つめたまま、表情一つ動かさない青年の反応を根気強く待つ。
二人の間に沈黙が流れる中で、風の音だけが鼓膜を擽る。
ユニスや騎士たちも二人のやりとりを注意深く見守っている。その中でも、特にオディスは、先程シラーフェが襲われたことに責任を感じているのか、強い警戒心を持って青年を見ている。
やがて龍族の青年はシラーフェから視線を外し、背を向けた。
「ついてこい」
有無を言わせぬ態度で青年は地面を一蹴り、一段高いところにある隙間の前に着地する。
「お前、せめて名乗ってからにしろよ、ミグフレッド」
続くように地面を蹴ったリトの言葉で初めて思い至ったとでも言うように、青目が再度こちらを見た。
「ミグフレッド・ユーガルトだ」
青年、改めミグフレッドはそれだけ言うと背を向けて歩き出す。
龍族は、この大きな岩を切り出して、その隙間を住居として使っているらしい。
案内されて通った隙間にはところどころに生活臭が残り、誰かがこちらを覗いている気配が感じられた。
無造作に切り出された岩の間を迷うことなく進んでいくミグフレッド。その後を追うように歩を進めるシラーフェはやがて最奥の家屋に案内される。
今まで見てきた家屋と大きな差異はなく、即席で作ったような原始的な簡素さを感じさせる。最低限住むに困らなければいいといった雰囲気だ。
「親父、客人だ」
長の息子だったのか、という驚きは他所に、シラーフェは老齢の男声と向かう合う。
銀の髪と青の瞳はミグフレッドと同じ。眼光鋭い目元に生きてきた年月が色濃く刻まれている。
龍族はエルフと並んで長命種族の代表として語られる。その中で老齢ということは百や二百はくだらない年月を生きてきているということだろう。
「お初にお目にかかります。俺はアンフェルディア王国第五王子、シラーフェンヴァルト・マーモア・アンフェルディアと申します」
「我はヴィルンド・ユーガルト、この龍の谷ミズオルムの長を務めている」
鋭い、という印象に反して落ち着いた声が鼓膜を震わせた。
刃を思わせる輝きを宿した青の瞳は、冷静に理知的な色を纏っている。対話の意思があることが単純な救いにならないのは理知的であっても、距離を感じさせる物言いが語っている。
「魔国の者がこんな辺鄙な所に何用だ」
「譲っていただきたい素材があるのです」
シラーフェなりの誠意をもって真っ直ぐに用件を伝えた。きっと快く受けてもらえるような、もっと上手い言い方があるのかもしれないが、シラーフェには言葉で飾るなんて芸当はできない。
できないなりに考えて真正面から言葉をなげかけた。
「アルベの倅が同行している時点でそんなところだろうと思ったさ」
息を吐くようなヴィルンドの言葉に、知らず身が固くなる。息子のミグフレッドと同様に感情を読ませない表情を注意深く見て、出方を窺う。
何と言われても、必ず目的の素材を手に入れてみせると揺らがない覚悟と誠意を胸に抱く。
「何が欲しい?」
「龍結晶と魔龍石です」
「分かった、いいだろう。その代わりに二つ条件がある」
「……条件、とは?」
希少な素材を手に入れるのに何の条件もないとは思っていない。叶えられる範囲で叶えるつもりでヴィルンドの返答を持つ。
「一つは女衆の手伝いをしろ。今は故あって人手不足でな」
「もちろん、こちらの要求を飲んでくださるであれば、いくらでも力を貸しましょう」
「もう一つは、その故を解決しろ。詳細はミグフレッドに聞くといい」
詳しく話を聞くより先に出ていくように視線で促される。一度リトと視線を交わしながらも、ここは大人しく引き下がるとして、一礼とともに立ち上がる。
「待て」
家を出る間際、シラーフェはヴィルンドに呼び止められた。その指先がシラーフェを指している。
「それは置いていけ」
何のことを言っているのか分からず、訝しむシラーフェ。数秒の間ののち、思い至ったように懐の魔石をヴィルンドに差し出した。
偶然手に入ったようなものなので、希少なものであっても手放すことに躊躇はない。欲しい人の傍に行った方が物にとっても幸福だろう。
長の家を出た先ではミグフレッドが待っており、視線でついてくるように促される。
この親子の性情なのか、龍族の特性なのか、多くの言葉を交わさない性質らしい。シラーフェも言葉を交わすのが苦手な部類なので、特に不満もなく付き従う。
「今、ミズオルムは二つの問題を抱えている」
どこかへ案内される道中、ミグフレッドはそう切り出した。
その問題とやらがシラーフェに解決を任されたことなのだろう、と続く言葉を注意深く聞く。
この間もシラーフェたちはヴィルンドやミグフレッド以外の龍族と会うことはなかった。視線がずっと感じているのだが、それほど警戒しているということなのだろう。
「子供が行方不明となっている。おまけにこれだ」
立ち止まったミグフレッドが指し示す先を見て瞠目する。それは川だった。
精霊が溢れるほどマナ濃度の高い土地に流れるのは、比例するように澄んだ水のはずだ。その考えを否定するように、今目の前にある川には暗く澱んだ水が流れていた。
泥とは違うもので汚れた川からは澱んだマナの気配を感じる。
「現在調査しているが、原因は不明だ。これを解決しろ」
やはり有無を言わせない物言いのミグフレッド。そもそも、こんなものを見せられてしまってシラーフェの中に断る選択肢が出てきようもない。
マナが汚染されることを危険視する意識が魔族は一際強い。
なにせ、マナ汚染は魔族にとって生命に関わることだ。汚染されたマナを体内に入れれば、蝕まれ、いづれ死に至る。龍族が直面している問題は他人事と切り捨てられない事柄であった。
「必ず原因を突き止めて解決してみせよう」
素材の譲渡はもはや片隅に追いやられ、使命感に突き動かされた答えた。
答えながら、シラーフェは次の動きに思考を巡らせている。
「一先ず、女性陣の手伝いはユニスを中心に騎士たちから何人か選出してくれ」
「かしこまりました」
「人選は私にお任せください」
オディスが騎士たちの中から手先が器用な者を選出する。彼らはユニスが率いる形だ。
従者として一流以上の実力を持つ彼なら、要望を超えて役目を果たしてくれることだろう。
その間にシラーフェは川を汚染させている原因を突き止めてみせる。
澱んだマナを漂わせる水の流れを注視する。視線を川上の方へと動かしても、見える範囲には澱みの始まりは見つけられない。目で見つけられないのなら、と角に意識を集中させる。
魔族の中でも、敏感な角を持つシラーフェは微細の変化も見落とさない気持ちで周辺のマナを読み取る。範囲を少し広げて、川を辿るように上へ上へ意識を伸ばす。
「川上の方に行っても構わないだろうか?」
監視役なのか、付かず離れずの距離で立っていたミグフレッドは瞬き一つで肯定を示し、歩き出す。案内してくれるのだろうと後を追う。
監視役と言うより案内役なのかもしれない。こちらを振り向きもしないのに、シラーフェたちを置き去りにしない速度を一貫するミグフレッドを追いながらぼんやり考える。
角で周辺のマナを探りながらも、決定的名手掛かりは得られないままだ。
「行方不明となっている子供というのは?」
視点を変える思いで、ミズオルムで起こっているという、もう一つの問題について問いかけた。
関連性までは語られていないが、同じタイミングで起こっているのだから関連している可能性も考えておきたい。今、考えられる可能性は、マナを汚染した人物が何らかの理由で、子供を攫ったというくらいだが。
子供が行方不明。その事実だけで、まだ癒えぬ傷が疼いて痛む。
「人族の子供だ。数週間前に迷い込んできて、六日前に行方を晦ました」
「人族の? なんでまたこんなとこに……つか、お前ら龍族が受け入れるのも珍しいな」
「俺はすぐにカザードの者に引き渡すつもりだった。……だが、民に反対されて、滞在期間を延ばしたんだ」
それにしても、こんな場所に人族の子供がいたなんて信じ難い思いがある。
冒険者や観光客の多いカザードの王都近辺ならまだしも、ミズオルムには観光資源になりそうなものはない。ましてや、岩だけで構成されている谷に子供一人で来ようと思うだろうか。
「龍族に興味を持ってって言われたらそれまでなんだろうが」
同じことを考えていたらしいリトが悩ましい声を出す。ほとんど関わりを持たなかったらしいミグフレッドは、人族の子供であること以上の情報を持っていないらしい。
「だから俺は早くカザードに引き渡した方がいいと言ったんだ」
苛立たしげなミグフレッドの言葉がやけに強く鼓膜に残った。