19「カザード国お留守番組」
可愛い子には旅をさせよ、なんて言葉がヒューテック領にはあるらしい。
意味までは知らないが、甘やかしてばかりではなく一度離れて経験させることも必要といったところだろう。
ライにとってシラーフェは“可愛い子”である。初めてできた年下の家族ということもあり、ライの中に存在しうる愛情のほとんどを注いできたと言っても過言ではない。
傷付くことなく、自由に好きなことをして生きてほしい。
いくらでも手を貸すし、いくらでも守ってやる。ずっと傍で、あらゆる災厄から守ってあげたいと。
「シフィもいつまでも子供じゃねえ。オレもちゃんと弟離れしねぇとな」
シラーフェは強い。もうライがずっと傍にいて守り続ける必要などないのだ。
できることなら傷付かないでほしい。でも、傷を負うことが悪いことばかりではないことを、ライは身を持って知っている。
弟を守った誇らしい勲章に、癖のように触れながら小さく笑う。
「心配でカザードまでついてきたヤツが言っても信用できねえか」
剣の手入れなんてそれらしい理由を作ってついて来たのは心配だったから。
ライが同行を申し出たときの、安堵したようなシラーフェの表情を思い出して正解だったと考えてしまうのだから重症だ。
まだまだ弟離れできないらしい。カザード行きを手配して、潔く見送ったフィルを心から尊敬する。
やはり長兄というのは、下から数えた方が早いライとは心持ちが違うのだろう。
「ま、リトと一緒なら心配する必要はねぇか。案外仲良くなってっかもしれねぇし」
あの弟は人たらしなところがある。纏う雰囲気が、不器用な為人が周囲を惹きつけるのだろう。
リトみたいな面倒見がいいタイプはすぐに絆されてしまうことだろう。
大事な弟のことは信頼できる友人に任せるとして、ライはライなりに留守番組としての役目を果たそう。
思考を切り替えたライはゴヴェズ宮で与えられた部屋を出た。
昨日、剣を研ぎに出した。それが終わるまで時間、いつもなら町に出向いて女の子と遊ぶことで費やしていた。カザードの来ようが、アンフェルディアにいようが、ライのすることは大体同じである。
町やギルドで見かけた女の子に声をかけるか、知り合いの子に会いに行くか。
そう思考を巡らし、ソフィヤに捕まる前に屋敷を抜け出しているところだが、今日は先約がある。といっても、肝心の相手と何の約束も交わしていないわけだが。
「ライ様、おはようございます。今日もお手伝いできなくて、申し訳ありません……っ」
「ソフィヤちゃん、おは。オレが身支度を自分ですんのはいつものことなんだし、気にすんなって」
長い廊下で今まさに考えていた先約のうちの一人と遭遇する。
出会い頭の謝罪、何度も繰り返しているやりとりに苦笑する。
貴族のそのうえ王族ともなれば、身支度のほとんどを従者の手を借りて行うものだ。
対して、ライは好きに生きる代わりとして、自分のことは自分でできるし、自分でできることは自分でする。
己の役目を真っ当できていないことを悔やむソフィヤは気にしすぎだと思うが、そんな真面目で律儀な性格は愛らしくも思う。
ちゃらんぽらんな自分には勿体ないくらいに真面目でよくできる従者だ。
視線をソフィヤからわずかに下へ向ける。彼女の横には幼い少女が立っている。
「エマリちゃんもおはよう」
「ん、おはよう、ございます」
たどたどしい敬語を使う少女、エマリは小さくお辞儀をした。
エマリはソフィヤと同じ部屋で寝泊まりしている。
これにも一悶着あった。
エマリはシラーフェと同じ部屋がいいと言い出し、ユニスがこれに反対した。
いくらまだ幼い娘とはいえ、女性をシラーフェと同じ部屋で寝泊まりさせたくない、という主張だ。
シラーフェとエマリの間に何か起こるとは考えていないが、どこで噂が上るか分からない。遊び歩いている身で言えることではないが、王族の女性関係というのは厄介なことになりかねない。
ユニスの懸念はもっともで、ユニスの部屋で、という申し出に「ソフィヤちゃんの部屋でいいんじゃね?」とライが助け舟を出し、今の形に収まった。
ソフィヤは同性なので面倒も起こらず、シラーフェとユニスはすぐに龍の谷に発つことになっていたので、一番自然な形だったというのが大きいだろう。
「エマリちゃん、ご機嫌だねぇ。なんかうれしいことでもあった?」
エマリは一見すると表情の乏しい少女だ。
悲劇的な出来事から表情を失った、というよりは元々表情変化が少ない子なのだろう。表情自体はほとんど動かないが、体全体がエマリの感情を表している。
「ん、朝ご飯、楽しみ」
「エマリちゃんはここのご飯好きか?」
「好き。パン、ふわふわ。おいしい」
表情を不器用に動かし、全身で歓喜を表現する。大人びているようでまだまだ幼い子供だ。
瞳を輝かせる姿に、見ている側もつい笑みを深めてしまう。
「アンフェルディアのパンは硬いからなー」
アンフェルディアでは植物が育ちにくいこともあって、パンは輸入品がほとんどだ。取引先の国境近くなら柔らかいパンが手に入ることもあるだろうが、もっぱら長期保存に適した硬いパンばかりが食卓に飾られる。
王族であるライでも、自国で柔らかいパンを食べる機会はほとんどない。
「そんなに好きならオレのもやるよ。いっぱい食べて、大きくなりな」
「ほんと! ん、ありがとう」
笑顔を浮かべてもないのに表情が晴れたことが分かるから不思議だ。
きらきら光る瞳を向けられるとライの胸を幸福感が擽る。小動物を見ているときの感覚が近いだろうか。
じっとライを見上げるエマリは何か考え込むように瞬きをし、再度ライを見る。
「私も……んと、あげる。葉っぱ、とか」
「あ、ダメですよ。好き嫌いしてると大きくなれませんからね」
言われたライが口を開くより先にソフィヤが言い聞かせるようにそう言った。
エマリの言う“葉っぱ”は付け合わせの野菜のことだろう。柔らかいパンと同様に葉物野菜はあまり多く流通していない。
枯れた土地でも植物を育てる研究が積極的に行われていることもあって、パンよりは口にする機会もあるが、王都ウォルカから程遠く、平民生まれのエマリは食べたことがなかったのだろう。
初めてそれを口にした瞬間、顔を顰めていたのを覚えている。まあ、あれは子供の舌には少し苦いだろう。
「そういうこった。苦~い葉っぱは自分で食べな」
言いながら、エマリの頭を軽く叩く。少し残念そうに俯く姿に笑声を零しながら、三人ならんで食堂を目指す。
「それで二人は今日どうするんだ? エマリちゃんが望むんなら町とか案内するけど?」
食事の最中、ライはそう問いかけた。
シラーフェが不在の今、小さなお姫様をエスコートするのはライの役目だ。
小さな心が楽しい時間を過ごせるのなら、女遊びの時間はいくらでも返上しよう。お姫様の幸福を前にすれば、野郎の遊興など容易く霞んでしまうものだと。
ライの提案にエマリは首を横に振った。
「んーん、町はシラーフェ様といっしょに行くって約束してるから」
どうやらこのお姫様には、即席の王子は必要ないらしい。引き時を弁えているのも良い男の条件である。
ふられたことに落ち込むことなく、自分の役割を別に探す。
「んじゃ、せっかくだし、勉強会でもすっか」
「べんきょうかい?」
龍の谷までは片道五日程。滞在期間も含めれば、帰ってくるまで二週間程ある。
その間、屋敷の中で無為に過ごすのも退屈だろうと提案した。
「なんでもいいぜ? 歴史や礼儀作法、剣術とか、魔法とか、何がいい? シフィの傍にいたいなら、どれでも役に立つと思うぜ」
エマリはシラーフェと共にいることを望んでいる。彼女はシラーフェの傍を自分の居場所だと定めたのだ。
彼女を助けたのがシラーフェだからかもしれないし、他に理由があるのかもしれない。まあ、女の子の想いを詮索するのは無粋というものである。
エマリの想いの源泉が何であれ、ライはいつだって女の子の味方だ。
「ん、と……じゃあ、強く、なりたい。次はいっしょに行けるように」
「りょーかい。んじゃ、食い終わったら、とりま、魔法を教えてやるよ。後は剣術、つーより戦闘に役に立つ技術ってところか? それもな」
しっかりした子だと思った。強い子だと。
エマリはシラーフェと共にいたいという自身の欲求を、我が儘で終わらせる気はないらしい。
このままでは足手纏いにしかならないことを理解し、自分を磨くことを選んだ。
磨けば磨くほど、女の子は美しく輝く。その輝きがいっそう美しいものになるよう、力を貸すことが今のライの役目だ。
「自分も力になりますよ! ラァーク家に伝わるナイフ捌きなんてどうですか⁉」
「ん、がんばる」
エマリの強さを見るライの脳裏には一人の少女が浮かんでいた。
今はもうこの世にいない少女のことだ。もっと早くに気付けていたら、人攫いの情報を得られていたら、少女の命は失われず、シラーフェが消えない傷を負うこともなかった。
人脈を広げ、独自の情報網を築いたところで、肝心なときに役に立たなければ、意味がない。
もう二度と、シラーフェに失わせないように次は失敗しないと決意を固める。
視線に気付き、不思議そうにこちらを見返すエマリに「なんでもない」と笑い返す。
その後、食事を終えた三人はモルクに許可を貰い、演練場で向かい合っていた。
ゴヴェズ宮には、大小様々な演練場がいくつも存在している。
この屋敷には、王に認められた者のみが使える工房がある。そこで作られた武具や魔道具を試す場として作られた演練場だ。
下手な演練場よりも頑丈に作られているこの場なら安心して魔法の練習がある。
「エマリちゃんはどんな魔法を使ったことがあるんだ?」
「んと、お料理のときに火をつけるのと、おさら洗うときに水を出すの」
魔族は生まれながらに、教えられていなくてもある程度魔法を使うことができる。
火を点けたり、水を出したり、と。基礎的な魔法に関しては平民、もっと言えば、エマリのような幼い子供でも日常的に使うことができるのだ。魔族にとって魔法とは、歩くことと同じ。
ただ歩くだけなら得手不得手はあっても、二本の足があればほとんどの者ができる。そこからより速く歩いたり、美しく歩いたりするには正しい指導者と才能が必要になってくる。
ライが今しようとしているのはそういうことだ。
「んじゃ、教えるのは火系か、水系がいいか。とりあえず、適性見させてもらうぜ?」
基礎的な魔法であれば、属性に限らず、魔族の誰もが使える。が、より高度な魔法を使うにはその者の魂の適性属性が必要になってくる。
属性は七つ、火、水、木、風、土、陰、陽。大抵はそのうちの一つが適性属性となる。
才がある者は複数の属性に適性を持ち、そうでなくとも努力次第では中級魔法までなら扱えるようになる。
どうあれ、まずエマリに教えるのは初級魔法――基礎魔法より一つ上の段階だ。
「ちょっとじっとしててくれよ」
言いながら、そっとエマリの角に触れる。エマリは少し擽ったそうにしながらも、ライにされるがままになっている。
他者の適性を見るのはかなり繊細な技術が必要となる。その昔、神童と呼ばれていたライにはこれくらいの芸当は余裕である。
角が折れて、魔法の行使に制限がつくようになっただけで、神童としての技術力は今の健在。
その制限が他の者たちには、耐え難い欠点のように思えるようだが、ライからすれば些末なことだ。
紛れもない本心で言っているのに、負け惜しみだとか、気を遣っているだとか、勝手に解釈されるのだから困ったものだ。
エマリの角を通して感じるマナの色を、目ではない部分で視る。
「エマリちゃんは火と、ちょっと土だな」
視えたのは鮮烈な赤と、それに微かに混じる黄色。色合いが伝える結果を確かめるように反芻するエマリを見ながら、初手に教えるにちょうどいい魔法を考える。
ライはすべての属性に適性がある。火属性の魔法も一通り使え、初級魔法の中でもっとも使いやすい魔法を記憶の中から引っ張り出す。
「火属性ならこれだな――シュッフラメ」
魔臓のマナを意識的に排出し、魔管を通るそれを魔力に変換し、命令式を与える。この一連の流れで魔法は発動される。
基礎魔法と初級魔法の違いは命令式の部分にある。
基礎魔法は魔力を火に変えるだけ、水に変えるだけ。そこに命令式で動きを与えれば、初級魔法となる。中級、上級はそこからより複雑に命令式を組むのである。
今の“シュッフラメ”は火に、一方向に飛ばすという命令式を与えたものである。
ライが放った魔法は最低限の魔力しか込めなかったので、飛ばしてすぐに霧散した。
角が一本しかないライは、マナ呼吸をしようにも、一度に取り入れ吐き出せる量が限られる。王族ゆえ、魔臓の大きさに恵まれ、神童ゆえ、繊細にマナを扱えるため、日常生活で困ることはほとんどない。が、マナを使い過ぎて、マナ不足に陥る危険性は他の魔族たちよりも高いものとして抱えている。
こんな些細な場面でも、使うマナを制限するにこしたことはない。
「まずはこれをあそこにある的に当てられるよう、練習だ。最初は近い距離からな」
「ん、がんばる」
気合十分といった様子で、エマリは離れた位置にある的を見据える。
まずは狙った方向に飛ばす練習だ。そこから少しずつ飛距離を伸ばしていき、それもできたなら今度は魔力量を増やして、威力を調整する練習。そこまでできたら、次の魔法になるわけだが、期間的にそこまではいかないだろう。
飛距離を伸ばすところまでいけたら重畳といったところか。
「変なところに飛ばしちゃっても、自分が消すので思いっきりやっちゃってください!」
ソフィヤの言葉にこくりと頷き、的に掌を向けたエマリが紡ぐ。
「シュッフラメ」
聞いたばかりの呪文をなぞる紡ぐ声。その言葉がそのまま命令式となる。
エマリの掌から放たれた小さな火の玉は真っ直ぐ飛び、的の真ん中に見事当たった。ライもソフィヤも思わず目を丸くする。
「エマリちゃん、次は右の的と、左の的も続けて撃ってみな」
「ん。シュッフラメ、シュッフラメ」
小さな掌から放たれた火の弾はどちらも正確に的に当たっていた。正面はまだしも横に向けて正確に当てられる初心者はそういない。これはひょっとするとひょっとするかもしれない。
「エマリちゃん、魔法の才能があるかもな。一発で当てられるヤツなんてなかなかいねぇぞ」
「ほんとに?」
乏しい表情に笑みが乗る。魔法の才があることより、シラーフェの力になれる可能性に喜んでいるように見える少女の頭をライは撫で回す。
「こりゃあ教えがいがあるぜ。帰ってきたシフィを驚かせてやろうぜ」




