16「繋げるものへ」
龍の谷に発つのは明後日ということになった。シラーフェたちはカザードについたばかりで、旅の疲れを癒す時間も必要と一日置くことになった。
もう数日、休息の時間を取るという話を出ていたが、シラーフェが問題ないと断った。
旅慣れしていない身ながらも、不思議と疲労感はまったくない。リトとあれだけ激しい手合わせをした後だというのに、シラーフェの体はまるで疲れを知らない状態であった。
用意された部屋で一時を過ごすシラーフェの中には疲労よりも、未だ消えない昂揚があった。
まだ残る剣の感触を確かめるように掌を見つめる。昂揚感の中には惜しさがあり、シラーフェの掌があのときの感覚を求めて疼いている。
剣を振るうことを楽しいと思ったのはいつぶりだろうか。リトと剣を交わしている間、シラーフェは確かに幼い頃に戻っていた。強さを求めていたあの頃に。
忘れていた感覚が呼び起こされ、全身に押し寄せる快感。それが忘れられなくて体が疼く。
もっと、もっともっと自由に際限なくこの力を振るいたい。
〈ならば、人族の滅びのため、存分に力を使うがよい〉
重く響いた声に思わず顔を顰める。知らず、呼吸が乱れた。
一音、一音が重い。アルベの安定感のある声とは違い、不安定に心を掻き毟る声だ。
内に潜む種が存在の主張するたび、シラーフェは自我が塗り替えられそうな恐怖を味わう。
だが、声の主はただ駄々を捏ねているだけ。エマリの方がずっと聞き分けがよく、先祖の我が儘に振り回されているだけに過ぎないと言い聞かせて、我を保つ。
まだ、大丈夫。シラーフェはシラーフェでいられる。
落ち着けるため、深い呼吸をすることに集中する。ルヴァンシュの声から意識を逸らし、無心に努める。
シラーフェの中に憎悪などというものは存在しえないと言い聞かせる。なんとか呼吸を殿の得た頃、ノック音が響いた。
扉を開ければ、真っ先に軽薄な笑顔が飛び込んでいた。片手をあげて挨拶をするのに兄、ライである。
傍らにはユニスを立っている。表情を見るに、半ば強引に連れてこられたことが窺えた。
「シフィ、風呂に行こうぜ」
「浴室なら部屋に備え付けのものがあるのでは……?」
「まあまあ、細かいことはいいじゃねーか。男同士、裸の付き合いってヤツだよ」
断る隙もなく、無理矢理に連れ出される。多分、ユニスもこんな風に連れ出されたのだろう。
従者の身で王族とともに風呂に入ることはできず、かといって王族の誘いを断ることもできない。板挟みとなり、諦めの境地に至ったユニスを見て、微かに笑みを作る。
「ユニスも一緒か。それは少し楽しみだ」
「……光栄です」
さらに追い詰めることいなると分かっていても、悪戯めいた気持ちに本音も交えて口にした。
帰ってくるのは力ない声だ。いつも一歩引いた立ち位置を貫くユニスと並び立つ機会はそう多くないので、申し訳なさよりも楽しみが勝った。ライの強引さに少し感謝しているくらいだ。
勝手知ったる様子のライに案内される形でシラーフェたちは大浴場に足を踏み入れた。
広い浴場はシュタイン城にもあるが、それとは少し雰囲気が違う。
壁の一部に木材を使っており、温かみのある安心する雰囲気を持った空間であった。
「ヒューテック領の西にある島国の風呂を参考にしてんだとよ」
というのはライの言葉だ。馴染みのない文化への興味もそこそこに服を脱ぐ。
自室の浴室で済ませることが多く、思えば誰かと一緒に風呂に入るのはかなり久しぶりだ。相手がライとユニスならば気恥ずかしさもない。
「おお~、ユニスは着痩せするタイプか。見かけによらず、かなり鍛えてんねぇ」
「必要なことですので」
ライは真面目な人が好きなようで、その真面目さ、冷静さを崩さんばかりにユニスに絡んでいる。
ユニスとライが同じ年であることも大きいのかもしれない。ユニスの体をまじまじと見るライは視線をそのまま下へ向ける。
「立派なものをお持ちで」
「兄上っ⁉ ……はしたないですよ」
「わりぃわりぃ、つい。でも、男同士なんてこんなもんだろ」
シラーフェは一般的な付き合いというものを知らないので、そういうものなのかという自省が生まれる。
少し過剰な反応だったかもしれない。楽しい雰囲気を壊すのは本意ではなく、シラーフェもまた場の空気を取り戻すためにと視線を落とし――。
「ベルフィア様っ、シラーフェ様に変なことを吹き込むのはやめてください!」
珍しく大きな声を出すユニスに驚いてその顔を見る。二人の様子に笑声を響かせながらライは一足早く欲所の方へ足を向けている。シラーフェもたちも少し遅れて続く。
石と木の調和が取られた浴室。手早く汗を流した三人はそれぞれその身を湯船に沈めた。
「どうせならリトのヤツも呼べばよかったな。ドワーフもすごいんだぜ、ちっこいくせに……」
「……ベルフィア様」
宥めるユニスが浮かべる表情はいつもより砕けており、シラーフェは少し動いた。同時にライへ尊敬の念を抱く。
長い付き合いずっと傍にいたはずのシラーフェ一度としてこんな表情を引き出したことはない。
「へいへい、自重しますよーっと。本当ならそろそろ覗きに行くかって言ってるとこだけどな。今頃ソフィヤちゃんが入ってるだろうし」
「兄上……流石にそれは……」
「冗談だって。流石のオレでもエマリちゃんがいるのに覗いたりしないって」
それはエマリがいなければ、覗きに行っていたと言っているようなものではないだろうか。
数秒前に生まれたばかりの尊敬の念が音もなく消えていくのを感じた。
「ライ兄上……王族がわいせつ罪で罰せられるなんて目も当てられませんよ」
「シフィは真面目だねぇ。まあ、心配いらねえって。合意の上でしかしねえから、ソフィヤちゃん以外」
謎に自信満々に告げるライを胡乱げに見る。ソフィヤはそれでいいのだろうか。
あれでいて、ちゃんとライのことは尊敬し、慕っているようなので二人の関係だと思って流しておこう。
ライがソフィヤを揶揄うのが常の関係ではあるが、二人は案外仲が良い。
「一回、リリィ姉にもしようとしたことがあったけど、メリベルに半殺しにされてさ」
「よくそれだけで済みましたね」
「リリィ姉はあんま気にしてなかったからな。『あらあら、元気ねえ』ってだけ。あの人、身内には甘いだろ」
多分、それが分かっていて、やったこともあるのだろう。ある意味、尊敬できる。
リリィが許すことが分かっているのと同じくらい、メリベルが怒ることも分かっていただろうに実行に移らせる度胸は本当にすごい。
「ネリスにはやっていませんよね?」
「当たり前だろ。妹に手を出すほど落ちてねぇって」
姉に手を出そうとした人が言っても、あまり信用できない発言である。
溜め息に近い息を吐くとともにシラーフェは立ち上がる。少し長く浸かり過ぎったかもしれない。体はほんのり赤く色づき、思考が熱を纏う。
「俺はそろそろ上がります」
「シラーフェ様があがられるのでしたら、私も……」
「お~、オレはもうちょいいるわ」
ライとはここで別れて、二人は浴場を後にする。宮の使用人が用意してくれていたらしい服に袖を通し、二人並んできた道を辿る。
廊下の空気が火照った体を程よく冷やしてくれて心地良い。
普段がそうであるように二人の間には会話はなく、足音だけが廊下に響く。落ちる沈黙は慣れたもので、気まずさよりも心地よさをシラーフェに届ける。
お互いあまり口数が多い方ではないので、共にいても無言でいることが多い。喋らなくてもいいという信頼感がユニスにはあった。
静かに足音の中に混ざる迷う音にシラーフェは思わず足を止めた。
「シラーフェ様?」
それは何かを振り下ろす音のようだった。毎日同じことをしているシラーフェは微かな音だけでその正体が分かった。
誰かが素振りをしている。一振り一振りに重みを感じる音はかなりの手練れであることを教えてくれる。胸が疼いた。
「ユニスは先に行っててくれ」
返事も聞かないまま、シラーフェはやる気持ちに押されて音を追いかけた。慣れない屋敷の中、規則的に聞こえる素振りの音だけを頼りに中庭へ出た。ほとんど同時に素振りの音がやんだ。
「誰かと言えば坊か。風呂上がりか?」
その人物は背中を向けたまま、シラーフェに声を投げかけた。
声も出していなければ、距離はまだ空いている中で言い当てる姿に微かに驚く。
カザード国国王、アルベ・アウレ。健在の気迫は背中越しでも重みを持って伝わってくる。
「すみません、邪魔を……」
「ちょうど終わったところだ」
言って、アルベは剣を納めて、シラーフェを見た。
明らかに嘘だと分かっていたが、それを指摘する度胸も、話をする姿勢を無下にする勇気もシラーフェは持ち合わせていない。アルベには個人的に聞きたいこともあった。
「鍛錬されるんですね」
「剣を使えねえヤツは碌な剣を打てねぇ。最高の鍛冶師は最高の剣士でもある。剣の腕を磨くことは鍛冶師にこそ必要なものだ」
「だからリトもあんなに強いんですね」
リトとの戦闘によって生まれた昂揚感は未だにシラーフェの中に残っている。
全霊を持って振る売った剣を受けられ、返される。その感覚はシラーフェにとって新鮮なものだった。
「勝った奴が言っても嫌味にしかならないが」
「そんなつもりでは……」
「はっ、冗談だよ。お前はほんと真面目だな、メーレの奴にそっくりだ」
父の名前を出すアルベは優しい表情を浮かべていた。アルベは九十近い年齢で、父メーレのことも昔から知っているのだろう。
父のことを口にしたアルベは親しいものに向ける柔らかさの中に、もういない人へ向ける悲哀を混ぜている。それが意味することを身を持って知っているシラーフェは無意識に自身の胸に触れた。
「お前が継いだんだな、シラーフェ。俺はてっきりフィルが継ぐもんだと思っていたんだが」
主語のない言葉が何を意味するものなのか、痛いほど分かってて手を握り締める。
言葉に迷って、音に成り損ねた息が零れる。与えられた衝撃は驚きとそこに混ざる形容しがたい何か。
「ご存知だったんですね」
数拍置いて音になったのは浮かぶ感情のどれとも程遠い言葉だった。
「いや、知らねえよ。お前ら魔族が何を後生大事に抱えてるのかなんてな。俺には見て分かることしか分からない。が、大抵のことは見抜く自身はある。伊達に歳を重ねてないさ」
応えるアルベの目が険しいものを宿す。アルベはこの胸にあるのもの、〈復讐の種〉のことをあまりよく思っていないらしい。
「お前の親父も、その親父も、俺は見てきた」
肝心な部分を言葉にしないアルベの言いたいことをシラーフェは正しく理解していた。
父も、祖父も知っている。それは〈復讐の種〉に侵される前の二人を知っているということだ。
シラーフェは選ばれた後の姿しか知らない。それでも知っていた。
アルベが失われたものとして語る父メーレの優しさをシラーフェは知っていた。そして、その優しさが先祖の復讐心に奪われた果ての姿も。
王選の儀のメーレの姿が実感を持って思い出される。
いづれ、シラーフェもああなってしまうのだろうという確信を齎す実感だ。
「俺には継ぐ価値があるものには思えねえ……なんてのは流石に問題発言か」
四〇〇年もの間、アンフェルディア王族の中で受け継がれてきたものを他国の人間、それも王が口出す行為は一国の王として迂闊なものである。しかし、これが分かっていて口にしたものならば、意味合いが少し変わってくる。
相手がシラーフェだと分かった上で、その考えを見抜いた上で言っているのであれば。
「俺の考えも見抜いて……?」
「お前が違うってことくらいだよ、俺に分かるのは」
ここまでアルベは肝心な部分を明言することを避けている。部外者には理解できない抽象的な言葉選びを当事者であるシラーフェは誰よりも核心を突くものとして受け止める。
誰にも――兄たちやユニスにさあえも言っていないことをアルベには言えるかもしれないと。
「アルベ様は……これを消滅させる方法をご存知ですか?」
「一つだけなら、ある」
自国で受け継がれて来たものを消滅させる。シラーフェの発言にアルベは驚くことなく言葉を返した。
見抜いていたのだろう。リトと手合わせしたとき、あるいはそれよりも前、顔を合わせたときにはすでに。
元々〈復讐の種〉を消滅させる方法をカザードで調べるつもりがあった。
工業が盛んなこの国なら、忌まわしき妄執を断ち切る武具が見つかる可能性を考えていた。
カザードの長たるアルベが事情を察していることはシラーフェとってありがたいものであった。
「聖剣アスペンテリコス。うちの初代が打った剣だ。こいつはあらゆる魔を払い、あらゆるもの断ち斬る。ただな」
望む者を得られたシラーフェの耳を苦々しい声が擽る。
何か厳しい条件でもあるのだろうか、と声と同じく苦々しい表情のアルベの顔を見た。
「斬ることに特化しすぎて、分けて斬るっつう器用な真似はできない。こいつに斬られるってことは……」
「俺は死ぬ、ということですか」
続きを引き取って紡いだ言葉はシラーフェに感慨を届けない。
苦々しく思うアルベの姿はすべてシラーフェにとって今更すぎるものだった。
〈復讐の種〉と最期を共にすることは、受け継ぐことを決めたときから覚悟していることだ。
民の幸福に先祖の遺恨など不要ななものだ。この先の未来に〈復讐の種〉など、いらない。
遺恨を消滅させるためにシラーフェの命が必要ならばいくらでも捧げる。シラーフェの命一つで民の幸福が守れるなら安いものだと。
「その剣は今どこにあるんですか?」
「ここは動揺するところなんだけどな……。肝が据わっているといいうよりは無関心に近いか」
自身の感情よりも話を進めることを優先させるシラーフェは自分の未来に、自分の幸福に興味がない。
だからきっと容易に諦められたのだろう。受け入れられたのだろう。
「聖剣はルーケサにある。今は召喚されたっつぅ勇者が持っているだろうさ」
脳裏に浮かんだのは一度だけ見た少年の姿だ。確かに彼の腰には剣が納められていた。
まだこちらに来たばかりの、幼子が剣を持っているような不釣り合いな印象だったのを覚えている。 きっと会わない間にそれも失われていくのだろうと期待を込めて考える。
〈復讐の種〉を生み出されたきっかけは、ルーケサ聖王国が異世界より召喚した勇者。
ならば、終わらせるのも同じ異世界の勇者というのも悪くない、と。
聖剣の話が出てから疼きを強くした種を無視して考える。
気掛かりがあるとしたら、当代の勇者がシラーフェの未来を託すに相応しい人物なの分からないことだ。
少年の姿とともに思い出される初恋の少女の姿に大丈夫の信頼を注ぐ。
「俺は嫌いじゃない。その覚悟への敬意として、俺に剣を打たせてくれ。シラーフェ、お前を生かす剣を」
「作れるんですか……⁉」
「可能性で言ったらかなり低い。それが打てるっつぅことは初代を超えることだ。長い歴史の中で多くが目指し、並び立つことすらできなかったことだ。――だが、それが諦める理由にはならない」
齢九十近いアルベの瞳に宿るのは夢を語るものの輝きだ。リナリアが、メイーナが宿していたものと同じ。
シラーフェがもっとも好きな色の瞳に、今までと違う意味で強く頷いた。
「もともと初代を超える気ではいたんだ。分かりやすい指標ができるならちょうどいい」
「……お願いします。もし未来が繋がるなら、俺も……俺は……」
その先の言葉をシラーフェは続けられなかった。思い浮かばなかった。
指し示された希望。それを抱いて進む未来のことを、シラーフェは何一つ夢想できなかった。