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魔王に花束を  作者: 猫宮めめ
第2章
10/86

10「エマリ・フォシルス」

 なみなみと水が入った水桶を運んでいる少女が一人。十に届いたばかりの少女は重い水桶を抱えて一歩一歩確かめるように進んでいる。

 わずかに上がった息を零す口からは「んしょ、んしょ」と可愛らしい声が紡がれる。

 側頭部、肩口の辺りで揃えられた橙色の髪の間から角が生えている。左右に一本ずつある魔族の象徴は灰色で、生え変わりを示すようにやや小ぶりである。


「おっ、エマリか。家まで行くのか」


 不意にかけられた声に振り向けば、赤ら顔の中年男性がいた。

 白髪交じりの髪は寝起きのままなのか、ぼさぼさで、顔には無精髭が生えている。纏う服は使い古されたもので、擦り切れてしまっている。

 おまけに近付いてすぐに分かるほど酒臭い。母の含めた周りの大人から駄目男の象徴だなんて言われている男、クライル・ブラッツである。


「おじさん、またお酒飲んでる……」


「酒は俺の栄養だぜぃ」


 上機嫌に答えながら、クライルはその手に持った酒瓶を呷る。

 コップに注ぐのも煩わしいと言わんばかりにそのまま口をつけて、お酒を流し込む。吐き出される息が酒気を帯びており、思わず顔を顰める。

 少女、エマリの反応など気にも留めないクライルは軽い調子で歩み寄り、水桶を奪い取った。


「重いもんは頼もしいおじさまを頼りなさいって」


「ん、おじさんは頼もしくない」


 端的な言葉に大袈裟な反応を見せ、クライルは声をあげて笑う。


「でもありがと」


 何かしてもらったらお礼を言う。母の言いつけを守っただけなのに、クライルはさらに声をあげて笑った。

 こっちは真剣に言っているのに、と少し不満を覚えるエマリに呑みかけの酒瓶が押し付けられた。


「オレの命、ちゃあんと預かっとけよ」


「子どもにお酒を持たせるなんてさいてい」


 覚えた不満のまま睨めば、クライルは空いた方の手で頭を撫でる。

 子供扱いされているようでやはり不満だが、嫌ではないからムカつく。

 エマリの歩幅に合わせるクライルにも、子供扱いされている気分になりながら、並んで帰路につく。

 時々思う。父がいれば、こんな感じなのだろうか、と。

 エマリは父のことを知らない。物心ついた頃にはすでに亡くなっており、母や村の大人たちづての父親像があるだけだ。

 かっこよくて、優しい人で、表情は少ないけど笑顔が素的な人。


「エマリ、おかえりなさい。あら、クライルも一緒だったのね」


「ん、ただいま」


 出迎えるのは柔らかな印象の女性だ。エマリをそのまま大人にしたような女性は母、フレヤ・フォシルスである。女手一つでエマリを育てただけあって見た目にそぐわない、たくましさを持っている。

 そんなフレヤの穏やかだった目元が微かに険を帯びる。


「クライル、貴方……エマリになんてものを持たせてるの」


「水桶を運ぶ代わりにオレの荷物を持ってもらってるだけだって。そんな顔すんなよ、フレヤちゃん」


 悪びれる様子のないクライルにフレヤは呆れた息を一つ。

 この二人とエマリの父親は幼馴染らしく、小さいときから一緒なのだという。エマリとしては、頼もしい母とダメダメなクライルが同い年というのが信じられない。村のどの大人よりもクライルはずっとダメダメだ。


「それでご飯は食べていくの?」


「おうよ……今日もフレヤちゃんの手料理楽しみにしてるぜい」


 やはり呆れた息を零すフレヤではあるが、その表情はそこまで嫌がっていないように見える。

 慣れた様子でクライルの分までご飯を用意する姿はどこか楽しげですらある。エマリも三人で囲む食卓は嫌いじゃない。


 母特製スープをお腹に落として、その風味が消えない間に固い黒パンを食べる。

 黒パンはスープに浸して食べるととってもおいしくなる。エマリのお気に入りの食べ方である。

 舌先に広がる味を堪能して、笑みを零したときにそれは起こった。


 いつもはのどかな村。誰かの話し声や、鳥の鳴き声が遠くに聞こえる一時は妙なざわめきに壊される。

 食事を中断し、フレヤとクライルは顔を見合わせる。エマリは二人の反応を見て、不思議そうに小首を傾げた。


「何かあったのかしら?」


「いっちょ確かめてきますか。エマリ、お母さんとお利口にしとけよ」


 残りのスープを掻き込み、立ち上がる。癖のようにエマリの頭を撫でてから、家の外へ出て行った。


「ん、なにかあったの?」


「それを確認しに行ったのよ。私は食事を続けていましょう」


 状況を掴めていないエマリにフレヤはなんてことのない口調でそう告げる。

 落ち着き払ったその姿を見て、エマリは特に気にせず食事を続ける。しかし、その食事はすぐに中断されることになった。


 左腕を血濡れにしたクライルが戻ってきたのである。珍しく焦りを表情に滲ませるクライルの様子に驚いて、フレヤは腰を浮かせた。


「クライル⁉ その上でどうしたの? 外で何があったの……?」


「ちとまずいことになった。今は外に出るな……いや、村から逃げた方がいいのか?」


 いつも穏やかで大きく感情を乱すことのないフレヤと、いつも飄々としていて掴み所のないクライルの、普段見ることのない雰囲気を敏感に感じ取り、エマリも表情に暗いものを混ぜる。

 頼もしい大人の変化に心臓を鷲掴みにされる気分で不安げに二人を見つめる。

 エマリが不安そうにしていれば、すぐに笑いかけてくれる二人も、今はそんな余裕はないらしく、切迫した様子で話をしている。


「クライル、まずは手当てをしましょう。救急箱を……」


「いや、そんな時間はねえ」


 一呼吸でわずかに落ち着きを取り戻したフレヤの申し出を、クライルはやはり焦りを滲ませて断る。

 実際に外の状況を見てきたクライルはフレヤ以上に切迫した状況を理解しているのだ。

 焦りの中で、切り抜ける方法を必要に考えているようだった。頭を使うのは自分の仕事ではないといつも言っているのに。


「なにが……あったの?」


 クライルの様子に尋常ではないものを感じ取ったフレヤが問う。

 声を絞り出すような問いに、クライルは己の落ち着かせるために深く深く息を吐き出した。そして、意を決したように、努めて冷静に口を開いた。


「魔獣に襲われた。村はほぼ壊滅状態だ」


「そんな……っ。青年団の人たちはどうしてるの⁉ この辺りの魔獣数匹くらいなら……」


「数匹って数じゃねえよ。おまけにここらじゃ見たことねえくれえに強い。青年団は全滅だっ。生き残ってるヤツがいても、あれじゃあもう戦えねえ」


 最後はほとんど吐き捨てるように呟くクライル。

 フレヤは大きく息を呑み、その瞳を波立たせる。エマリには二人の会話の意味がよく分からなくて、いや理解したくなくて、ただ二人を見上げてていることしかできない。やけに早鐘を打つ心臓が嫌だった。


「この家が襲われんのも時間の問題だ! 俺が先導する。早く逃げっ」


 最後まで言い終わらないうちに大きな音が響き渡った。爆発音のようなそれはどんどんエマリの家に近付いてきているようで、それに気付いた頃には大きな衝撃が家全体を揺さぶった。


 屋根と壁が吹き飛ばされる。フレヤは咄嗟にエマリを庇い、クライルが二人を守るように覆い被さる。

 聞いたことのない大きな音と全身を揺さぶる感覚。食べかけの食事が撒き散らされる様を非現実に見つめる瞳が、状況の理解を完全に放棄する。ただただ怖くて、フレヤの体にしがみつく。


 大きく崩れた天井から覗く青空を見る余裕もなく、粉塵が巻き起こるをぼんやり眺めた。

 大きすぎる衝撃を上手く呑み込めないままに、やけに大きく聞こえる自分の呼吸音に耳を傾けるばかり。そんな中に獰猛な獣の声が聞こえてきて息を詰める。


「まずいっ。お前ら逃げろ。オレが引きつける」


 一瞬迷う素振りを見せながらも、フレヤはエマリの手を握って走り出す。

 まだ混乱から抜け出せていないエマリはフレヤに手を引かれながら、走りながら後ろを振り返る。


「おかっ、さん……おかあさん」


 なんで家が崩れているの? なんで今、走っているの? これからどこに行くの?

 混乱の中で聞きたいことが溢れ出てきてはどれ一つ音にはならずに消えていく。ただ一つ音になったのは、


「おじさんは……? 大丈夫なの?」


「大丈夫よ。クライルは頑丈さだけが取り柄なんだから。殺したって死なないわ」


 それが心からの言葉なのか、エマリを安心させるための気休めなのか、判別がつかないまま、エマリはこくりと頷く。クライルのいる後ろを振り返ることなく、フレヤは前だけを見据えてただ走る。


 だから、エマリも大丈夫だと信じて走る。おまじないのように「大丈夫、大丈夫」と繰り返すエマリは立て続けに聞こえた爆発に思わず、足を止める。

 振り返ったエマリの目に崩れる家が映った。瓦礫と化した家に追い打ちをかけるように火球が叩き込まれる。

 爆風がこちらまで流れてきて、思わず顔を顰める。


「エマリ、走って」


「でも、おじさんが……っ」


「大丈夫。大丈夫だから」


 フレヤのその言葉は誰よりも自分の言い聞かせているようだった。

 気丈に振る舞うフレヤの指が微かに震えていることに気付き、不安をぐっと飲み込んでその手を握り直す。


 こくりと頷いて再び走り始める。きっと大丈夫だと言い聞かせて、息が上がっても、足が疲れても走り続ける。

 やがてフレヤは止まり、驚いて顔を見上げる。まだ獣の唸り声が聞こえている。立ち止まっている余裕はないはずだ。


「エマリ、良い子だからよく聞いて。貴方はここに隠れて待っていて」


 しゃがみ込み、エマリと目線を合わせるフレヤは微笑んでそう言った。

 フレヤが示したのは大樹の幹にぽっかりと空いた穴だった。子供一人分くらいの穴にエマリは入れられた。


「お母さんは……?」


「私は別に隠れられるところを探すわ。だから、ここで良い子にしていられる?」


 本当は離れたくなかった。ずっと手を繋いでいてほしかったけど、エマリが駄々を捏ねた分、フレヤが隠れ場所を探す時間が減ってしまう。我が儘はぐっと堪えて頷く。

 最後に頭を撫でられる優しい感触を味わってフレヤと別れた。

 それからエマリは穴の中で丸くなり、じっと時が経つのを待った。爆発音と獣の遠吠えが聞こえなくなることを祈りながらただ待つ。


「大丈夫、大丈夫……きっと大丈夫だから」


 きっとすぐに魔獣がいなくなって、今まで通り平凡な日々を過ごすのだ。クライルも、フレヤも無事で、三人で食事を囲んで笑い合う毎日がすぐに戻ってきてくれるはずだと。

 何度も何度も繰り返し、「大丈夫」を唱えて、自身を励まし続ける。瞑った瞼に描く日々を呼ぶように何度も何度も繰り返して、エマリの意識は闇に落ちていく。


 どれだけ経った頃か、はっと目を覚ましたエマリの瞳が橙色に染まった世界が映し出される。

 空の橙色を落とした景色を見つめるエマリは辺りがやけに静かなことに気付いた。恐る恐る穴の中から顔を出して周囲を見回す。耳を澄ましてみても、獣の鳴き声は聞こえてこない。


 母、フレヤが迎えにくるのを待つべきか迷い、押し寄せる不安に駆られるように穴なの中から飛び出した。

 勢いのままに村を目指して来た道を辿る。鳴き声が聞こえないならきっと、もう魔獣はいなくなったのだ。


 まずは家に戻ろう。崩れて変わり果てた姿になったことはもう知っているけれど、少しでも知っている景色を見て、自分を安心させたかった。それからフレヤとクライルを探そう。それでもう全部解決だ。

 崩れた家だって建て直せばいい。そしたらすぐに、すぐに――。


「っ……おかあ、さん」


 視界の隅に見慣れた色が触れ、振り返った先で倒れ伏したフレヤの姿を見つけた。

 纏う服を汚す赤い色のものが一部変色し、黒ずんでいる。時間が経っていることを教えるそれを幼い少女が気付くことはなく、感情のままに母へ駆け寄り、震える。


 触れたその肌は冷たく、硬い。伸ばした手が赤い液体に触れて、その冷たさに驚く瞳がその先にあるものを視た。

 赤い液体の出所はフレヤのお腹だ。獣に食い荒らされたのか、ぐちゃぐちゃに掻き混ぜられ、内臓の一部が外に引っ張り出されている。

 エマリにはそこに意識を割く余裕はなかったが、お腹以外にも獣による噛み傷が無数にあり、周囲には食い千切られた肉片が散らばっている。中には骨が見えている箇所さえあった。


「おかあさん……おかあさんっ、なんで……」


 滂沱と涙を流し、汚れることも構わず縋りつく。

 呼びかけても、反応は一つとしてない。いつだってフレヤはエマリが呼べば、返事をしてくれる。

 その声が返ってこないことなんて一度もなかった。


「おかあさんっ、なんて返事をしてくれないの⁉」


 本当は理由なんて分かっていて、目を逸らすために子供っぽい憤りをフレヤへとぶつけた。

 当然その言葉にも返事などなく、声をあげて泣いた。それがまずかったらしい。

 がさがさと茂みを掻き分ける音がして、目が合った。低く唸る声が聞こえて、止まった思考でそれと見つめ合った。


 本能が「逃げなきゃ」と訴える。と、ほとんど同時に背を向けて走り出す。

 それ以外に身を守る術が思いつかなかった。身を隠す余裕もなく、がむしゃらに走る。


 しかし、所詮は子供の足だ。相手は獣、しかもマナに侵食され、数倍の身体能力を持つ魔獣。

 運動能力にも、体力にも、雲泥の差がある。必死に動かす足は村から逃げて来たときの疲労からも回復しきれておらず、早々に疲れを訴え始める。

 止まってはダメだと思う心と、止まりたい、もう走れないと願う心が混在している。


「たすけて……だれか、助けてっ。誰か」


 あがって息の中、求める助けに応える者は誰もいない。

 もうみんな、いなくなってしまったのだろうか。生き残っている人はいないのだろうか。


 涙を散らし走るエマリはついに足を取られて地面を転がる。魔獣はそれを待っていたと言わんばかりに速度を上げ、遠吠えで仲間を呼ぶ。エマリはあっという間に魔獣に囲まれた。

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