終章(3) 貧民街の集合住宅
貧民街の狭隘な街路に人々がひしめき合い、喧騒が渦を巻いている。皇国軍の戦勝が、貧しき人々の間にも歓喜をもたらしていた。
バルナーヴ将軍の寝返りを契機として、皇国軍は隣国パヴァリアとの国境に侵入し、かつてのグリアエ領の一部奪還に成功していた。パヴァリア本軍は未だ編成どころか兵の集結すら終わっておらず、鎧袖一触だったという。
皇国の軍隊を構成する兵士の大半は、この貧民街から募られた男たちである。その妻や子らが、夫や父の勝利と生存を祝っているのだ。
また、泰皇は勝利によってもたらされるであろう戦勝金を、全て国内の殖産興業に充てると約束していた。貧しく、職のない者たちに働く機会を与え、同時に国内産業の発展を目指す、一挙両得の策だった。泰皇が打ち出したこの政策を、貧民街の人々は諸手を挙げて支持していた。
街路には、歌と踊りが溢れていた。独立と豊かさを民にもたらす泰皇を、真の神として称える歌だった。
人々は新しい神に熱狂していた。今まさに、長い戦争の時代が幕を開けたことすら知らずに──。
その喧騒を窓の外に聞きながら、サラはただひとり、作業机に向かって身をかがめていた。
その手には目の細かいヤスリが握られており、それが一つ動く度に、部屋の中に細かな金粉が煌めいた。
しばしの間、彼女の白い手が作品を磨いていたが、ふいにその手が止まった。
彼女は作業台に身を乗り出し、己の磨き上げた作品を只管にじっと見つめていた。
喧騒と雑踏とに震える窓。その窓から差し込む光に翳し、輝きの加減を見る。手にした布で作品を丹念に磨いてゆく。
やがて、布の中から現れたのは、光り輝く指輪だった。リアーヌのもたらす絢爛さとは程遠い、ひどく素朴な指輪である。
その中央には大粒の橄欖石が嵌っており、光を通して透明な輝きを放っていた。
「できた……」
口の中で呟いて、彼女はその指輪を己の掌に横たえた。
「天才様のようには、いかないわね、やっぱり」
サラは自嘲気味に笑うと、その作品を丁寧に化粧箱の中に仕舞って、蓋をし、布で包んでリボンを掛けた。
「わかってるわよ、それくらい……。でも、私の想いは、私だけのものよ……。貴方なら、それもわかってくれるはず……」
丁寧に包装した作品を、サラは胸に押し抱いた。天井を仰いで、大きく嘆息する。それから、彼女は意を決したように顔を下げると、箱を机の上に置いて、立ち上がった。
己がそれまで座っていた椅子を、部屋の真ん中まで引き摺ってくる。それから机の側に取って返し、革の鞄の中から一条の荒縄を取り出した。
器用な手付きで縄の端を結び、輪を作る。結び目を引っ張って、輪の大きさを広げてゆく。
「ふふ……こんな姿を見たら、あの人悲しむかしら……。……ううん、それは、ないわね、なにせマルブールの赤目烏と呼ばれた男だもの。その目は宝石だけを探しているうちに、赤く染まった……」
椅子の上に登り、縄のもう一方の端を天井の梁に結びつける。何度か縄を引いて、結びの強さを確かめる。
輪の中に頭を通し、結び目を引き絞る。白く細い首に、荒縄の筋が食い込む。
顎から伝った雫が、縄の目に吸い込まれてゆく。
未練を払うように首を振って、彼女は現世との最後のつながりである踏み台を蹴り倒した。
◇
男の姿が部屋に躍り込んだのは、サラが踏み台を蹴り飛ばしたのとまったく同時だった。
「サラ!」
アルベリクの絶叫が飛ぶ。彼は部屋の中に飛び込むや、天井から吊り下がるサラの元に猛然と駆け寄っていった。
「莫迦ッ! 何をやっている!」
喚きつつ、サラの身体を抱きかかえる。サラの指が己の細首を掻くが、首に食い込んだ縄は容易に緩みはしなかった。
アルベリクはそれを見て短く怒鳴った。
「梁を掴め!」
混乱した手が、何度も空を掴む。
「掴め! 掴むんだ、梁を!」
サラの両手が、天井の梁をしっかと掴んだ。それを見届けるや、アルベリクは手近に倒れていた椅子を引き摺ってきて、彼女の足裏に滑り込ませた。
張力を失ったことで、縄は緩んでサラの首から離れた。アルベリクの頭上から、ぜいぜいと荒い呼吸が聞こえてくる。
アルベリクは懐から護身用のナイフを取り出すと、難儀しつつも、サラの首に繋がった縄を断ち切った。華奢な身体が、糸の切れた人形のように、床に投げ出される。
アルベリクは額に流れる汗を拭きつつ、横たわるサラに近づいた。彼女の喉はしばしの間喘鳴を響かせていたが、その呼吸は次第に落ち着いていった。
肌に張り付いた髪の奥から、サラの瞳がアルベリクを見やった。
「戻って、いたの……」
問われて、アルベリクは静かに頷く。
ナタリーの葬儀から数日経った頃、サラから自筆の手紙が届いた。新しい家を買ったという。不審だったのは、その住所が、かつて彼女が借りていた貧民街の集合住宅だったことだ。
「……あの手紙を見て、妙な予感がしたのでな……。電報は不通だったから、早馬と夜行馬車を乗り継いで駆けてきた」
言いながら、アルベリクはサラの身体を抱え起こした。確かな体温が、アルベリクの掌を通して伝わってくる。生きている者の、魂の温度だった。
アルベリクは、衝動的に、その身体を抱きしめていた。
「……間に合って、よかった……」
切実な声が、アルベリクの喉から漏れる。
その声を耳元に聞き、サラは当惑の表情を浮かべた。
「……私のために、泣いてくれるの……?」
「当たり前だ、莫迦。心配をかけやがって」
抱きしめられたまま、サラはしばしの間呆然としていた。
彼女の唇がわななく。その隙間から、かすれた声が漏れた。
「……ごめんなさい……」
にわかに、彼女の瞼に大粒の涙が溢れ、堰を切ったように頬を伝いだした。
サラはアルベリクの身体にしがみつき、幼子のように泣きじゃくった。対するアルベリクもまた、滂沱の涙を流しながら、彼女を抱きしめていた。
感情の波が収まり、涙が半ば乾いても、二人はしばしの間、静かに互いを抱きしめ続けた。部屋の中には沈黙が満ち、窓の外の喧騒が、どこか遠くの出来事のように聞こえてくる。
やがて二人は身体を離し、静かに見つめ合った。
アルベリクから見たサラの瞳は、少女のような輝きを湛えていた。その輝きは、かつて、ブランシャールの倉庫で、共に宝飾品の数々を眺めていた頃を彷彿とさせた。
一方のサラは恥ずかしそうに目をそらすと、よろよろと立ち上がった。
「──そう、貴方に、贈り物があったの」
彼女は壁際の机に近づいてゆき、そこに置かれていた箱を手に取った。
「これを……貴方のためにね、作ろうと思ったの。でも、思ったよりうまくいかなくて……。時間がかかってしまったの」
そう言って、サラは箱をアルベリクに手渡す。
アルベリクは震える手で、箱の包装を解いた。現れた化粧箱の蓋を、指で押し開く。中から現れたのは、何の変哲もない一個の指輪だった。
本当に、何の変哲もなかった。特筆すべきところも、眼を引くような技巧もない。街の露天で売られているような、素朴な意匠の品だった。
だが、その品を見ていると、なぜだか心穏やかでいられなくなった。造り手の深い想いが、その意匠には強く込められていた。
アルベリクの目元に、笑みが溢れる。
「腕を上げたじゃないか、サラ……。だが、君の手技が遅くて、助かったよ」
「酷いことを言うのね」
涙でくしゃくしゃになったサラの瞳にも、笑みが浮かんだ。
二人はそれからしばらくの間、顔を見合わせ、涙を流しながら笑い合っていた。






