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終章(1) 山小屋

 細く、僅かに骨ばった指が、指輪の腕を丁寧に磨いてゆく。ひと削りひと削り、ゆっくりと。


 技師の手が今まさに作品を生み出してゆく。その瞬間を、アルベリクは息を詰めて見つめていた。


 一つ削る毎に、手が止まる。長い息を吐いて、もう一度ヤスリの先を地金に充てがう。一つ削る毎に、魂が削り滓となって、その細指の間から零れ落ちる。


 机にかじり付きながらヤスリを滑らせるナタリーの姿は、あまりに苦しげだった。その姿を見るとアルベリクは、たまらず彼女を抱えあげて、寝室に運び去り、安らかに眠らせたくなる。


 だが、それは決してまかりならない。陽が出ている間は、彼女が道具を手にできる貴重な時間なのだ。その間は、決して彼女の仕事の邪魔はできない。


 アルベリクにできることは、ただ彼女の隣に座り、彼女の苦しみ生きる様を見守ることだけだった。


 開け放たれた天窓から、夏の高原の甘い空気が、暖かな陽気と共に工房の中に流れ込む。その空気の中にあると、たちまち、抗い難い睡魔が襲ってくる。


 未明から生活の準備をしていたのだから、眠くなるのも仕方がないといえば仕方がない。だが、ナタリーが命を削って制作をしている中、己のみが眠るわけにもゆかず、アルベリクは懸命に己の瞼を見開こうと苦心していた。


「どうぞ、お休みになってください」


 アルベリクの様子を察したか、ナタリーが作品から目を離さず呟いた。慌てて首を振り、言い訳を募ろうとしたところ、ナタリーが目を上げてその言葉を制した。


「あまりじっと見られていると、気が散ってしまいます」


 冗談めかして、彼女は笑う。アルベリクは頬をさっと赤らめ、彼女の邪魔にならぬよう、わずかに椅子を引いた。すると、天窓からの陽射しがいよいよアルベリクの全身を覆い、彼の身体を温め始めた。


 陽射しを浴びて、アルベリクの姿は白く輝く。その姿を、ナタリーは眩しそうに眺めていた。


 その微笑みをいつまでも見続けていたいと思い、アルベリクは重い瞼をむりやりにこじ開ける。


 しかし、その努力も、強力な睡魔を前にして報われることはなかった。やがて、アルベリクは机に肩肘をついたまま、微睡みの中に落ちていった。




 ──夢を見た。


 それが夢だとわかるのは、ルカとネイライにガストン、フェリシテが、ひとところに会して微笑ましげに語り合っているからだった。元より彼ら同士に面識などないし、そもそも彼らは全員、既に鬼籍に入っている。


 アルベリクもまた彼らの中に混じり、新しい宝飾品のカタログや、上等な宝石の品定めなどを楽しんでいた。


 皆が皆、裏切りも謀りも知らぬままに図面を広げ、ただ宝飾の未来ばかりを語り明かす。ただそれだけの集まりだったが、たまらなく幸福な時間だった。


 フェリシテが親しげに此方を見て、何事かを言いかける。その瞬間、彼女の声を遮って、すぐ近くから声が聞こえた。


「……アル、起きてください」


 肩を揺する手を感じ、アルベリクは慌てて己の瞼をこじ開けた。途端に、真白い光が眼底を突き刺してくる。


 天窓から射す光が、ナタリーの銀糸の髪を白々と照らしていた。逆光とかすみ目で、顔の表情は判然として見えない。


「──すまない、眠っていたのか……」


 呻くように呟いて、アルベリクは慌てて机から頬を離した。


 ナタリーは、その手に小さな木箱を携えて、アルベリクを真っ直ぐに見据えていた。その表情には、どこか満ち足りた気配が漂っていた。


「……できたのか?」


 問われて、ナタリーは静かに頷く。彼女はアルベリクの手を取ると、その掌に木箱を握らせた。


 彼女の手が、木箱の蓋をそっと開く。たちまち、夥しい光が、奔流のごとく箱の中から溢れ出した。


 天鵞絨(びろうど)の台座の上に、眠るように横たわる一個の指輪──。

 意匠こそ、これまでの二つの指輪と同じ、薔薇を用いている。だが、受ける印象は全く異なるものだった。


 ルーペで確かめて、その印象は確信に変わる。

 渾身の一作だった。

 赤子の手ほども小さい指輪の中に、彼女の全てが詰まっていた。


 ロートシルトの多層彫りで模した花籠の中に、一本の薔薇と一羽の烏の一生が、繊細な異時同図法で表現されていた。


 薔薇は下層の大地に種から芽生え、育ち、美しい花を咲かせ、青く輝く種を落として枯れる。落ちた種を、上層の辺縁に飛ぶ赤目の烏が拾い、螺旋を描いて太陽に向かって飛び去ってゆく。


 その(こしら)えの中に、怯えも不安も見当たらなかった。ただ、純粋な未来への想いだけが、圧倒的な技倆と情熱に裏打ちされて穿ち込まれているだけだった。


 そして、その輝きの奥に、アルベリクは確かに見た。過去から連綿と繋がり、遠い未来へと続いてゆく、一筋の美しい道を。その永劫の彼方で結晶する、色とりどりの奇跡の宝石たちを。


「これが、三つ目の指輪……」

「はい。これが──これこそが、貴方です。貴方の、未来です」


 断然と、ナタリーが言い切る。アルベリクは、当惑してナタリーの眼を見やった。


「俺だと……? これが、俺だというのか……?」


 かすれる声で、アルベリクが問う。

 涙が、その双眸から、知らずのうちに流れていた。

 静かに(うべな)うナタリーを見て、アルベリクは大きく首を横に振った。


「……いや、違う。これは、そんなちっぽけなものじゃない。これは、宝飾の全てだ。なぜ人は輝きを求めるのか、なぜ人は美を求め続けるのか……。人は長い歴史の中で、そのことを幾度となく問うてきた。──これは、その答えだ。ひとつの偉大な、答えだ……」

「──アル。貴方も、そうなのですよ。貴方の中には、全てがあるの。だから、貴方の魂は、こんなにも美しい……」


 緋色の瞳から、澄んだ涙が止めどなく溢れ続ける。

 その涙を指でそっと拭いつつ、ナタリーは柔らかに微笑んだ。


「……ずっと、永いこと、この瞬間を夢見ていました……。貴方の作品に出会った、あの日から、ずっと……」


 アルベリクは袖で己の瞼を拭うと、顔をくしゃくしゃにして微笑み返した。


 天窓から陽光が射し、ナタリーの姿を白く照らす。彼女は眩しそうに目を細め、陽の射す方に向かって顔を上げた。


「今日は、いいお天気ね。……ああ、完成したら、なんだか気が抜けてしまいました。……少し、眠ります……」


 そう言って、ナタリーは机の上に顔を伏せた。アルベリクは慌ててその肩に手をやり、呟く。


「ベッドに戻ろう、ナタリー」

「いいの。少し眠るだけだから……」


 そう言って目を閉じたナタリーの顔は、柔らかな光に包まれ、この上なく満ち足りて見えた。


 刹那、アルベリクは己の肌にはっきりと感じた。この世の全てが、今この瞬間、燦然と完成した実感を。


 ──そしてそれ以降、ナタリーが目を覚ますことは二度となかった。

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