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第二十章(4) 平原の陣地

 夏のアルバール平原は、下生えが生い茂り、豊かな青で染め上げられていた。


 冷涼な風がその下生えを撫で、薫香を立ち上らせる。土の匂いとともに、草いきれが鼻腔をくすぐる。小高い丘の裾には、花々が群をなして咲き、その花畑を目掛け、蜜蜂が飛び交っている。


 生命の息吹が、大気に満ち満ちている。


 かような場所から、今しも人間同士の殺し合いが始まろうとしているとは、とても信じがたいことだった。


 だが、街道沿いに敷かれたバルナーヴ将軍の陣が視界に入るや、その牧歌的な印象は瞬時に霧散してしまった。


 陣地は地平線を覆うように、アルバール平原の丘陵に沿って長々と広がっていた。数多(あまた)設けられた白い天幕の合間に、無数の軍旗が風に煽られはためいているのが遠目に見える。


 陣がアルベリクの視界に入ってから幾ばくもしないうちに、視界の両端で黒い粒のような影が蠢き出した。それらは互いに何事か叫びながら、此方に近づいてくる。


 近づくにつれ、その影の正体が判然としてきた。騎兵だった。軽装の、銃を携えた二騎の騎兵が、下生えの生える大地に蹄の音を響かせつつ、猛然と此方に駆け寄ってくる。


 騎兵たちは銃の射程内に入ったところで馬を止め、遠方から鋭く叫んだ。「止まれ!」


 彼らは今やそれぞれ馬の上から銃を掲げ、此方に銃口を向けている。二騎の間は離れていて、一騎が討たれたとしても、もう一騎が相手を確実に仕留められるよう位置取りをしている。よく訓練されたものだった。


 彼らのうちの片方が、よく通る声で叫んだ。


「街道は我らパヴァリア騎兵師団が封鎖している! 御用あらば迂回されよ!」

「私は、皇都ブランシャール宝石店の店主、アルベリク・ド・ブランシャールだ! マルブール領主アルバール公の依頼により、伝言を届けに参りました次第! 是非とも、ご案内をお願いしたい!」

「ならば、馬から降りて十歩離れ、手を頭上に上げよ!」


 アルベリクは言われたとおり、ゆっくりと馬を降りると、大股で馬から離れる。すると、二騎はめいめいに馬の頭を巡らせて、ゆっくりとこちらに近づいてきた。一頭は、まっすぐアルベリクの元へ、もう一頭は、馬の側に。


 アルベリクに近づいてきた方の壮年の兵士が、馬上から声をかけてくる。


「マルブール公からの使いならば、捺印された令書をお持ちのはずだが」

「こちらです」


 アルベリクは、懐から一通の手紙を取り出し掲げた。黒い封蝋の印璽は、確かにマルブール領主アルバール公のものである。


 兵士は手紙の封を解き、中の手紙に視線を滑らせた。しばしの後、彼は無言で手紙を懐にしまってから、アルベリクに目配せをした。


「確かに、承った。閣下の元にご案内しよう。しかし、申し訳ないが、使者殿といえど、ここからは徒歩での行動をお願いしたい」

「承知しました」


 眼前の騎兵は一兵卒ながら、行動に迷いがない。こういった場面での対応にも慣れている様子だった。


 陣内に入ったアルベリクは、存外秩序だっていることにまず驚いた。兵士たちに無礼なところは微塵もなく、皆礼儀正しい。物資はしっかりと梱包され、ひとところに整頓されている。男所帯のはずの駐屯地で、喧嘩の罵声や粗野な笑い声の一つも聞こえない。聞こえてくるのは明朗な命令の言葉と、それに対する返答の声、そして、訓練する兵士たちの掛け声ばかり。


 統制が取れている上に、士気も高い。この集団を相手に、マルブールの自衛兵と皇国軍の一群が戦闘を挑むとしたら、果たしてどこまで持ちこたえられるものか。有り体に言えば期待薄である。


 アルベリクは入念な身体検査の後、陣幕の張られた一角に案内された。幕の中には、一卓の簡易的な組み立て式の机と、布の張られた床几が二つ、無造作に置かれていた。人の姿はなく、見上げれば雲ひとつない青空が、白い陣幕に縁取られている。即席の個室といったところだろう。


 アルベリクは奥の床几に座り、将軍がやってくるのを待った。


 待つことしばし、やがて陣幕の外に複数の足音が聞こえたかと思えば、ふいに幕の裾が開いた。


 幕の間から浅黒い顔が覗く。その眼がアルベリクを認めるや、口元に真っ白な歯がきらめいた。


「赤目烏殿。マルブールの使者が、まさか君とはな」

「ご無沙汰しておりました、閣下。ご健勝そうでなによりです」

「くたばり損ないでは精鋭の二個師団など扱えまいよ。君はまた、皇都にふさわしい姿に近づいたかな?」


 アルベリクが立ち上がり会釈すると、バルナーヴ将軍は笑いながら肩を叩いてくる。


「ご覧の通り、かろうじてまだ人間です」


 そう言って欠けた指を見せてやると、将軍は目を細めて意味ありげに笑った。


「神話の怪物になれば箔がつくのではないかな? 少なくとも、泰皇は君にそれを望んでいたのだろう」

「今の時代に、神話など……。懐古主義者のための徒花のようなものでしょう」


 アルベリクが吐き捨てるようにそう言うと、将軍は弾けるように笑い出した。


「違いないな。だが、良いのかな。君の立場でそのようなことを言っても」

「私は一介の商人です。私を支配するのは、唯一、金です」


 簡易軍装に身を包んだ将軍の姿は、皇都での貴族然とした装いとは印象が全く異なっていた。引き締まった体躯が、軍装の下に筋肉の輪郭を(かたど)っている。その身体の上に載る顔貌は精悍そのものであり、眼窩の中の瞳は鋭い光を放ってアルベリクを油断なく見据えている。


 その眼光からは、触れなば切れんばかりの剣呑さを感じさせた。それもむべなるかな。彼は一万からの兵を擁する師団を二つも任されている将軍なのである。己の号令一つで、幾人もの人間を殺す覚悟を持った者の眼光だった。


 将軍の衣服には、軍人らしからず勲章の一つも留まってはいない。だが、代わりに袖を飾るカフスとベルトのバックルには、見事な東洋風の金属工芸が施されていた。意匠の隼は、将軍の師団旗にも描かれているものだった。


「良い品ですな。軍旗と合わせておいででしょうか。しかし、線の繊細さ、曲線の優美さは、名工の仕事とお見受けします」

「わかってくれるかね。どうにもこの軍服というものは、無骨で好きになれない。だが、戦場で派手に着飾るというのも粋ではない。実用性を保ちつつ、趣味人としての気概も見せる、その釣り合いをどう取るか。それでいつも悩む」


 饒舌に語り、バルナーヴ将軍は朗らかに笑った。


「そちらの景気も良いと聞いている。あのロートシルトの品を見たときから、君たちはきっと何かを成し遂げると確信していた」

「恐れ入ります」

「ここで会ったもなにかの縁だ、ここは一つ、君の自慢の品のひとつやふたつ、この場で開陳して貰いたいところではある──」


 だが、と、将軍は立ったまま姿勢を正し、言葉を続ける。


「──だが、今は戦時下だ。商売の話なら、戦が終わった後にしてもらいたい」


 無論、そうでないことは、将軍とて先刻承知であろう。アルベリクもまた、鷹揚な笑みを見せつつ、彼の言葉に応じる。


「戦術は戦略に如かず。我々との商売は、今や戦術を超えるものかと存じます」


 ふ、と、将軍の口元に皮肉めいた笑いが浮かんだ。


「言うようになったな。私が戦術の域を出ない教皇の走狗であると、君は暗にそう言っているのかな」

「無論、違います。語るに値するからこそ、こうして命を顧みずお伺いした次第です」

「そうかね。ならば、(さえず)ってみたまえ」


 将軍は床几の上にどっかと腰を下ろすと、諸手を広げて、アルベリクの語りを促す。アルベリクは頷くと、懐から化粧箱を取り出して机の上を滑らせた。


「閣下には、まずこの品をご覧いただきたいのです」

「悪いが、戦場にルーペは持ち歩かない主義なのだ」

「お持ちしております。どうぞ」


 アルベリクは抜かり無く、己のルーペを将軍に向かって差し出す。

 将軍の片方の手が差し出されたルーペを受け取り、もう片方の手が化粧箱を掴む。そして、化粧箱の蓋を片手で器用に開いてみせた。


 中から現れたブローチを見て、将軍の喉が鳴る。天鵞絨(びろうど)の上に横たわるブローチをそっと掌に載せると、将軍はその細部をルーペでつぶさに観察し始めた。


 ひとしきり矯めつ眇めつした後に、彼は確信めいた目つきでもってアルベリクを見やった。


「これは、あの中空留めの作者の品だな。仕上げを見ればわかる。あの作者は、通常目の届かないような裏の裏まで、丹念に作り込んでくる。いま世間を騒がせている絹の涙も、同じ作者のものだとみているが、どうかな」


 アルベリクの目が、かすかに光る。


「流石の慧眼、おみそれしました」

「伊達に趣味人はやっておらんよ。それで?」


 ──ここからが、勝負のしどころだ。アルベリクの腹が据わる。


 あのトーブマンのオークション以来、アルベリクは眼前の軍人の背景について調べ上げてきた。その成果を、今こそ披露するときだった。


 彼は息を大きく肺に吸い込むと、はっきりとした声でもって、要求を口に発した。


「こちらの品と引き換えに、マルブール攻めを取り止めていただきたいのです」

「それは無理だな」


 にべもなく、バルナーヴ将軍は吐き捨てる。


「私は兵の命を預かる身だ。私自身も、命をかけてこの作戦に臨んでいる。ここまでの進軍には相当の準備と金をかけてきた。私一人の酔狂で、それらの積み重ねをふいにするわけにはいかない」

「もちろん、その点も考えております、閣下。私は、皇室御用達としてグリアエに出入りする許しを得ています。望めば、泰皇陛下との謁見の機会も作れます。泰皇陛下は今、少しでも多くの兵力を欲しています。世に武勇の誉れ高い将軍の力を得られるとなれば、諸手を挙げて歓迎されることでしょう」

「私に寝返れというのかね」

「それもひとつの方策です。取引が成立すれば、閣下はリアーヌの真作を手にすることになります」


 アルベリクはそこで言葉を切ると、やおら身を乗り出し、声を潜めて呟いた。


「──宝飾は力です、閣下。この陣に居る兵の多くは、故ブルグンド王朝の国軍に居たものとお見受けします。恐れながら、閣下にも並ならぬ野心というものがございましょう」


 バルナーヴ将軍の瞳に、ぬらりと粘度の高い光が宿る。


「……旗揚げか……」


 これこそ、このバルナーヴ将軍の急所だった。


 彼には、密かに胸に抱く夢があったのだ。パヴァリアの傀儡国家に成り果てた故国ブルグンドの復活という夢が──。


 彼はブルグンド王国の王族の血を引いていた。だが、王国はベツレヘム教によって長い時間をかけて蚕食された末、将軍の元服前に崩壊の憂き目に遭った。


 以来、彼は教皇の走狗として、ベツレヘム教に仇なす者を屠ってきた。

 しかし、その胸には、熾のように消えぬ野心が燻り続けていたのだ。


 アルベリクは声を憚りつつ、将軍の言葉に首肯する。


「……それも一つの方策です……。いずれにせよ、ここで力の一つを得ておけば、選べる途が増えるというものです」

「なるほど。流石、今をときめく時代の寵児というわけだ」


 将軍は皮肉めいて笑う。

 間をおかず、アルベリクは言葉を付け加えた。


「ときに、私は、マルブールに留まろうと考えております、閣下」


 バルナーヴ将軍は、にわかに眉をひそめた。


「己の身を盾にするつもりかね」

「既に死んだ身です。──良いですか、閣下。リアーヌの作品をもたらすことができるのは、この世に私ただ一人なのです」

「私を脅迫するつもりかね」

「滅相もございません。しかし、私がこの場で死のうと、戦火に巻かれて死のうと、閣下にもたらされる結果は変わりません」

「そうかな?」


 将軍の瞼が、薄く細められる。怖気(おぞけ)を催す、不穏な笑みだった。

 唐突に、将軍の手が腰に差した短刀の鞘を払う。白い筋が一閃するや、抜身の刃が机の木目を穿った。


「君を殺せば、ここにある現物は手に入るわけだが」


 バルナーヴ将軍は、笑みを崩さぬまま、瞼の奥に鋭い光を放ち始めた。


 だが、対するアルベリクの心は、驚くほど凪いでいた。刃を眼前に突き立てられたとて、彼は顔色一つ変えず、身じろぎ一つしない。


 皇后や泰皇との謁見を経たアルベリクにとって、このような脅しなど児戯に等しかった。


 動じぬアルベリクを見て、将軍は僅かに眉をひそめた。


「……よもや、贋作か……?」

「こちらの品の真贋は閣下にご判断いただくことにしましょう」


 表情を変えず、アルベリクは淡々と呟く。


「契約が成立し、撤兵を確認出来次第、皇都の御社事務所に、私の署名付きの真作をお持ちいたします。それで如何でしょうか」


 低い唸り声が、将軍の喉の奥から漏れる。


「その言葉を信じろというのかね」

「仮に私の人生がこの先も続くならば、信用こそ最も大事になります。決して閣下の利益を損なうようなことは致しません」


 アルベリクの眼が、真っ直ぐに将軍の眼を見据える。将軍は目を細めて、その視線を見返していた。

 やがて、将軍の口元から、独白ともつかぬ言葉が漏れ出した。


「宝飾は力──。手に入れれば、泰皇や教皇と対等の立場にまで上り詰めるか……」


 彼は再び立ち上がり、陣幕の中を歩き回りだした。しばしの思考の後、彼は改まった様子でアルベリクに向き直る。


 その眼には、気味が悪くなるほど友好的な色が滲んでいた。


「実のところ、君たちとは既に、武器の取引で契約を結んでいるのだよ。おそらく、君はまだ知らないのだろうがね。それも含めて、君たちとの関係は大切にせねばならないとは思っている。あの子烏には感謝することだな、赤目烏殿」


 ここにきて、アルベリクは初めて、明確に顔をしかめた。将軍の言う通り、そのような情報はアルベリクの耳には、一切入ってはいなかったのだ。


 動揺するアルベリクを見て、将軍は我が意を得たりといった様子で目を細めていた。





 この交渉の結果、将軍はアルベリクの思惑通り、街道封鎖を解き、マルブールから国境へと軍を退かせることとなった。


 将軍は皇国側と密約を交わし、しかる後、一転してパヴァリアを急襲。パヴァリアの支配下にあったかつての故国に舞い戻り、見事独立を果たした。ブルグンド地方に新たな帝国を築いたサラスの胸には、レガリアたるリアーヌのブローチが、勲章の如く輝いていたという。


 後年発見されたアルベリクの手記の中で、そのブローチが贋作であるとする記述が見つかった。それは、泰皇に贈る品を作るにあたって、アルベリク自身が作り上げた習作の一つにすぎないものであると、手記の中にはっきりと書かれていたのである。


 しかし、手記が見つかるまでの間、そのブローチはリアーヌの真作であるとして、一度たりとも疑われることはなかった。そして、贋作であることが定説となるに至っても、それはブルグンドの国宝として、人々を魅了し続けたという。

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[一言] くっっっっっっそ面白い 先日読み始めて最初の方は主人公の性格が好きになれず休み休み読み進めていたけど、6,7章くらいから一気読みしました。風呂で読んでたら風呂からでれなくなりました笑 クライ…
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